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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(11)

11.

もう一点。ジッドは「狭き門」を書きあぐねて、マドレーヌが若き日に(つまりマドレーヌが丁度アリサのような立場にあった時期に)書いた日記を 見せてもらい、その一部を利用しているらしい。ジッド自身は、ほとんど収穫がなかったような言い方をしているらしいが、それでも文脈を変え、 幾つかがマドレーヌの日記から取られているのは実証できるようだ。しかし、それ以前に、マドレーヌがジッドに送った書簡は、その一部はほとんど 文字通りそのまま作品に取り込まれていること、失望することになった再会という物語中の出来事は、実際にマドレーヌとジッドの間にも生じたもの のようなのである。

そのような実証の傍らで、いわゆるテキスト批評的、内在的な読解の試みがあり、そちらはといえば、主人公がアリサであることに異を唱え、 語り手であるジェロームの機能を重視する。一見すると多声的に見えるアリサの書簡や日記の引用も、ジェロームの検閲による編集、取捨選択を 経ているという指摘自体は妥当なものであろうが、ジェロームの誠実さを疑い始めれば、果てはなくなる。文脈のすり替えによる意味の捏造、 言い落としによる事実関係の歪曲、果てはアリサの死に内心責任を感じているジェロームが、自己弁護のために語っているという解釈にさえ辿り着く。 まるで殺人犯が自分の犯行を隠すために書いた手記であるかの如き分析が、探偵気取りの文学研究者によって行われるのである。しかし、そうした 読みは、内在性を主張しつつどこかで恣意に陥らざるをえない。テキストのみを信じ、内在的な矛盾のみに限定した読みは、だがそうして次々に 見つかる矛盾や、不審な点を列挙するに留まらず、その背後にある何かを描き出そうとしたとたんに、それが仮説の身分であれ、フィクションを 構築せざるを得なくなる。だが、そもそも対象となるテキスト自体、フィクションである筈のものではなかったのか。

更にはそうした矛盾を登場人物に帰するべきなのか、作者に帰するべきなのかという問題を避けることはできない。仮に後者を禁じてしまえば、 登場人物について整合性のある像を得る保証は原理的には存在しない。所詮はジッドが構築した物語なのだから。そしてジッド自身の意図や 意図せざる無意識の欲望を読み取る解釈は、結局、上記のような伝記主義的実証に戻らざるを得ない。

今一度、作者ではなく、テキストの次元の内部に留まったところで、物語の語り手(ジェローム)の無意識を、登場人物の行動の無意識を 読み取ろうとする解釈は、(ドストエフスキーにおいて山城が陥ったのだが)その解釈の裡に読み手の側の欲望を書き込まずに済ますことができない。 そして、作者ジッドの欲望をそこに読まないのは、構造的にはひどく恣意的な制限を設けていることになる。

ジェロームを疑うことは幾らでもできるし、ここで描かれたアリサがジェロームの観念の産物であったとして、それではその外側には 一体何を読み取ろうとするのか?ジェロームの観念にアリサが殉じたという側面を認めるとして、なおそうした選択をアリサが行い、 ジェロームがそれを記録するという事実は残るし、そのような物語をジッドが作り上げたという事実も残る。アリサ自身も自覚しているように ジェローム抜きのアリサを考えることは難しい。それをその時代のフランスのブルジョワの女性が置かれた社会的な立場の制約と 見做す解釈があるのも承知の上で、だが、端的に無色透明な、自立した人間というのがいるのか?それこそジッドが一生とりつかれて 逃れようともしなかった幻想であろう。結局はそうした観念の、価値の間の机の叩きあいしかない。中立の無色の立場はないし、そういう意味では 無償の行為など幻想に過ぎない。結局のところ、文脈を超え、時代と文化の制約を(あるいはその間にある避け難い誤解をも)越えた地点で 人はアリサに対して何かを見出す。それがこの物語の不滅性の源泉であるに過ぎない。そのとき、結局のところ読み手にとってジェロームは 全面的に信頼できないまでも、アリサを理解し、最後まで忠実であり続けようとした点で、まさにそうすることによって同じ観念に殉じた だけであったとしてもなお、読み手にとって貴重な証人なのではないのか?

勿論、それでもなお、このように問うことは有効だろう。アリサをではなく、ジェロームと「田園交響楽」における牧師とを対比させて、 ジェロームを牧師のような自己欺瞞に満ちた人間であり、(ジッドが物語を作るために素材として用いたマドレーヌの書簡や日記に 対する操作との違いについては一旦置くことにして、)一方では自分にとって好ましいアリサ像を永続化し、その一方では 狡猾にも、自分がアリサを死に追いやったプロセスは巧妙に隠蔽するために物語を記したのだと仮定しよう。その上で、それぞれ アリサとジェルトリュードを死に追いやったジェロームと牧師との間にどのような差異があるのか?

確かに不均衡があるとはいえ、やはりここには相互性が存在するのは間違いない。それが巧妙な思いつきであるにせよ、 とにかくジェロームはアリサの書簡と日記をそのままのかたちで自分の物語に埋め込むことで、他者を自己の物語の内部に クリプト化しているには違いない。どちらかというと物語の創作技法上の結果として、例えばアリサの日記の引用のされ方、 選択の仕方は、その外側の先行するジェロームの物語との対応がなければ、それ独立で読むことは難しい。だが、 ジェロームの物語も、アリサの日記を予め示すように書かれているわけではない。つまりアリサの日記はジェロームの証言を 裏付ける証拠物件でしかないわけではない。ジェロームの記述をそれが注釈し、批判する機能が確かにそこには存在している。 要するにそこにある対位法は見せかけの偽装されたものではなく、どちらかが他方に従属しているわけではない。探偵の 推理を裏付ける証拠探しとは異なるのだ。

そして他方ではアリサが犯人でジェロームが被害者であるという主張も存在することを忘れてはならない。そしてエピローグで ジュリエットが言うとおり、ジェロームには、少なくともアリサの死後、別の生き方をする選択肢が存在しなかったわけではなかろう。 アリサの自己破壊衝動は(ドストエフスキーの「白痴」で黙示録の解説者、レーベジェフの言ったことを思い出そう)、それ自体、 ミームの詭計でないと言い切ることができるだろうか?彼女はこの世での幸福を拒絶し、その代わりにジェロームに記憶され、 物語に記録されることによって、永遠の生命を獲た。他の者に対してであれば、それは単なる気休めの如きものにしか 響かないかも知れないが、アリサの場合には事情は異なる。それが彼女が望んだことでないと言い切ることは難しいだろう。 ジェロームの物語に詭計を嗅ぎ取るのであれば、アリサの日記に同じものをどうして嗅ぎ取らないのか? アリサが孤独の中に死ぬことは、アリサ自身にとってそんなに否定的な価値しか持たなかったのだろうか?それは彼女が 寧ろ自ら望んだことではないのか?そしてそれがミス・アシュバートンとなったアンナ・シャックルトンの最期でもあり、 それを記録することがジッドの最初の意図であるとするならば、アリサを批判するというのは実はそちらの方が後付けの 理屈であって、物語の音調自体が告げるように、ジッドは決して批判がしたかったわけではないのだろう。 アリサが自らの幸福を自覚的に拒絶する地点において、アリサに対して最後に否定的な価値を おく研究者の評価は、研究者自身の信念なりイデオロギーの押し付けに過ぎなくなる。確かに「狭き門」はニーチェのそれにも 比することのできるニヒリズムの極限を示しているのかも知れない。そこでは価値自体が宙に吊られてしまう。 一見してわかりやすい「地の糧」、「法王庁の抜け穴」、「贋金作り」といった作品におけるジッドの姿勢よりも、 一見するとそこで批判されている側に存在する、一般には基本的な価値観であると了解されているものに対する否定の方が 一層たちが悪いとも考えられる。アリサを否定するものは、同じ刀でパスカルを切り捨てることができるだろうか?

アリサに対する総括として、母の行動に対するトラウマから、そちらの方向に進むことを自らに禁じ、 ジュリエットとの葛藤とそれに対するジュリエットの行動によって、策略どおりに欲するものを 手に入れつつ、手に入れたものを今度は捨てることで自分の人生とジェロームの人生を、これもまた恐らくは欲したとおりに 破壊してしまうというような書き方を、(ある水準においてはジッドの注文どおりに)アリサを批判する研究者は選択するが、 ジェロームはそうした選択をしなかった。作者ジッドはそうさせなかった。それはジェロームを無作為の殺人犯に仕立てたがる研究者にしても同じなのだ。アリサはジェロームの行動に自分への(意図しない、無意識なものであれ)悪意を、 もっと言えば殺意を感じているだろうか?ジェロームの無行動(メルヴィルのバートルビーとの比較をすることさえできるだろう、 ジェロームの唯一の「行動」は、アリサの死後に物語を語ることだけであるという見方もできるだろう)は未必の故意 なのか?もし殺人犯がいるとしたら、それは寧ろ、この物語をこのように語ることを欲した作者ジッド自身ではないのか? 勿論、アリサが破り捨てたとジェロームが記す日記の一部は、実はジェローム自身が(そこに自分に都合の悪いことが書かれているので)破り捨てたのだというような仮説が可能であるならば、最早何でもありになることは明らかだろう。 だが、そうした物語を書いたジッドは一体、どのような衝動に動かれてこのような物語を書いたのか?そしてこのように書かれた物語を、かくの如きに解読する研究者は、一体どのような衝動にかられて、そうした読解をするのか?

もう一つ追加しておけば、アリサについてしばしば言われる神秘主義的傾向からの隔たりは、確かに彼女を苦しめることはあったかも知れないが、例えば「アンドレ・ワルテルの手記」との比較において、あるいは「田園交響楽」に対する比較に おいてさえ、ジッド自身が持っていたらしい神秘主義的なものへの傾向に対する批判的契機たりえているという見方ができるだろう。 アリサの日記(これまた「アンドレ・ワルテルの手記」や「田園交響楽」の牧師の手帖と同じく二部よりなるのだが)の後半部分の記述はアリサが宗教的法悦を経験し、異言を語り、幻影を見、神のお告げを聴くような聖女からは懸け離れた存在であることをはっきり告げている。それだけに、この後半部分のアリサの日記の記載に、例えばパスカルに対するジェロームの物語での発言との矛盾を指摘して、アリサは戯画化されていて、そこにジッドの揶揄を見ようとするような批評は、批評家自身がアリサとは全く異なったタイプの、全く異なった世界に住む人間であることを告げているに過ぎない。そもそもアリサには認めたくないらしい 「神秘的経験」をパスカルには認められる批評家、基本的には主観的なものでしかないその経験の質を云々できる批評家というのは一体どういう立場に自分を置いているのだろうか?神秘的経験の質が問題なら、現在の脳神経科学の知見により、脳のある部位を刺激すると得られるらしいそうした経験の欠如が、一体どのように価値判断に寄与するというのだろうか?

結局のところ、この物語に欺瞞と悪意と嫉妬をしか見出すことのできない人間は、アリサの衝動を我が事として 感じ取ることができないに違いない。もしそうなのであれば、客観性と科学性を装ったテキスト論的な内在分析とて、 それを実行する人間が備えているセンサーの検出能や解像度と独立ではありえない。あるいはそれを実行する人間の持っている「人間」の心理についてのモデル、前了解の外に出ることはできない。そしてそのことは、例えば 文字を持たない人間(動物を考えても良いだろう)にとって書物が燃料や包装材、巣の素材等といった役割しか果たさないのと程度の差しかない。

「狭き門」の物語の持つ曖昧さ、一体アリサとジェロームのいずれが加害者でいずれが被害者なのか自体の認識においてすら 読み手の意見が分裂してしまうこと自体、それがジッドが意図したことではなかったにせよ、この物語で語られる出来事の持つ、 他のジッドの物語にはない、或る構造の存在を告げているのではなかろうか?ジッドがアリサに対する批判を試みたにせよ、 それに抗して、一部の(だが少なからぬ)評者がジェロームの告白に欺瞞と事実隠蔽の臭いを嗅ぎ取るにせよ、彼らが辿った生の プロセスは彼ら自身が選択したもの、違う可能性への分岐をある時には一瞬夢見つつも、結局はもともと自分達が(必ずしも 事前に協議して、合意に基づくものではないにしても)選択したものであり、決して一方が他方の犠牲になったというような 構造を持っていないことが、この物語に他にはない独特の色合い、ベンヤミンがドストエフスキーの「白痴」とともに特定の 作品を取り上げる契機となるような色合いを帯びさせていることは間違いない。

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