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備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業(7-1)

以前、通常ならそこにマーラーの名前を見出すことを人が期待することがなさそうな2つの重要な著作、即ちジャンケレヴィッチ『死』とドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の中に、マーラーの名前が見出され、更にそのいずれもが『大地の歌』への参照を持つことに気づき、備忘として書き留めたことがある。ここで取り上げるジャンケレヴィッチの『死』の方は、高校生の時から知っていたこともあって以前より手元にはあって通読したこともあり、実は『大地の歌』への言及があることも当然認識はしていたのだが、これも別の雑記めいた文章に書き留めたことがあるけれど、その終わり近くに結論めいた形で語られる事実性に依拠するような発想に対して、最初こそ期待できる拠点として検討をしたものの、検討を経るに従って次第に反撥を覚えるようになったという経緯を持つ。更に言えばまずその文体に耐え難さを感じてしまうこともあって、それ自体を主題として論じうるような読解ができず、上述の備忘を記すのが精一杯なのが正直なところであるし、辛うじて読み取れた範囲でも、その見解については直ちに幾つもの疑問が浮かんでしまうような対象ではあるとはいえ、マーラーについて流布する言説の多くが前提としている或る点に対する留保を感じているような場合には、その論点について考える上で貴重な参照点となりうるため、上記指摘に留まらず、もう少し詳細な検討をしたいと考えてきた。 

 マーラーの後期作品を「老い」という観点から理解するというここでの企図の着眼点は、マーラーの長くはないけれどそれでももう1世紀を超える受容史の中にあって、マーラーの後期作品が常に「死」との関りにおいて論じられてきたのに対し、「死」ではなく「老い」との関りにおいて論じるのがより適切であるという仮説に集約される。従って従来のマーラーに関する言説においては周縁的な位置づけを持ち、だが『大地の歌』への言及を含み、かつ「死」について扱った著作であるジャンケレヴィッチの『死』は恰好の出発点といえるのではなかろうか。実際、ジャンケレヴィッチの『死』は死そのものと同様、その手前と向こう側についても延々と語っており、その中で勿論「老い」についても「死の手前」の中の一つとして論じている(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)。

 だが結論から言えば、あくまでもそこでは「死」が主題であることを思えば無い物ねだりとは言い乍ら、やはり「老い」そのものについて論じているとは言い難く、勿論こうした次元での「老い」は直接には「現象から身を退く」ことをその定義とする「後期様式」とは無関係であるということになろうし、こうした次元の「老い」と切り離してそれらを論じることは、こちらはこちらでもともとのゲーテの言葉を軽んじていることになりかねない。従ってそれは自ずと、ジャンケレヴィッチの「死」についての思索に基づき、それを踏まえ、継承・展開するかたちでマーラーと「老い」について考えるということにはなり得ず、ジャンケレヴィッチの言明に対する異議申し立てを含まざるを得ないから、寧ろそれを反面教師として、マーラーと「老い」の関係についての視座を獲得することを目的としたものにならざるを得ない。ここで企図しうるおとは、あくまでもジャンケレヴィッチに対する批判ではなく、ジャンケレヴィッチの『死』における「老化」に関する叙述を細かく検討することを通じて、マーラーの後期作品、アドルノがジンメルを参照しつつ、ゲーテの箴言にある「現象から身を退く」という言葉によって定義づける作品(その中には、『死』で言及される『大地の歌』も含まれるわけだが)について適切な視座を得る手がかりとすることであろう。

 実際後述の通り、ジャンケレヴィッチの『死』の中には「老い」についての章さえ存在するのだが、「別れ」というテーマに関する部分での『大地の歌』への参照とは一見して無関係であるように見え、その限りでは寧ろこれまでの「死」と結び付けて捉える発想の一例として扱うことさえできるかも知れない。「別れ」というテーマに関する部分でのみ『大地の歌』が参照されていることは決して偶然などではなく、「老い」ではなく「死」に関連づけて捉えるという発想との必然的な連関の中で捉えられうるに違いのであれば、マーラーの後期作品が常に「死」との関りにおいてのみ論じられ、「別れ」のモチーフも専ら「死」に関連づけられてきたことに対する批判を、ジャンケレヴィッチの著作の批判的読解を通して試みることが可能であろう。

 そこでここでのアプロ―チとして、一旦『大地の歌』への言及がある箇所から離れ、まず「老い」についてのジャンケレヴィッチの扱い方、特に「老化」をこの著作全体の主題である「死」にどう関係づけるかの具体的様相について、些か些事拘泥的と受け止められるかも知れないような祖述的な(だが同時に批判的な)読解を試みる。多分に主観的に私の場合にはそうせざるを得ないという面を否定する気はないが、彼のトレードマークであり、人によってはそれに魅了されることもあるらしく、「交響曲」に喩えられることすらあるらしい、その華麗なレトリックと重厚な論述のスタイルについては、敢えてそれに逆らった読解を行って、その修辞に埋もれがちな「老い」の扱い方を最大限批判的に整理し、その確認結果を踏まえて、『大地の歌』への言及の部分の理解を試みるというやり方を取ることにする。

(2023.1.30初稿公開, 2.3更新, 2024.12.18 備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業の一部として再編集。改題の上再公開。2025.1.30 noteにて公開)

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