アルマの「回想と手紙」にある「子供の死の歌」作曲に関するコメント
アルマの「回想と手紙」にある「子供の死の歌」作曲に関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.97, 白水社版邦訳p.85)
私見では、もし人と作品との間の懸隔を語るのであれば、後期作品よりも寧ろ「子供の死の歌」こそ問題にされてしかるべきだと思われる。
引用したアルマの回想の記載とは細部において異なるのだが、現在の通説では、「子供の死の歌」は1901年に1,3,4曲、1904年に第2,5曲が追加された ということになっているようだ。いずれにせよ、この歌曲集については、なぜこのような詩に曲を付けようと思ったのかについては、少なくとも説明なり 解釈なりを要する「問題」ではあるだろう。この1904年の時点においても彼が長女を喪うのはまだ先のことだし、1901年に至っては、まだ結婚すらしていない のである。
一方でこの事実を逆手にとるかのように、精神分析学的な解釈に基づくかどうかによらず、この曲を「預言的な」もの、あるいは 「現実が芸術を模倣する」例であると主張する意見もまた存在する。個人的にはそうした方向の説明なり解釈には関心がない(私が知りたいと思うことの 説明になっていないから)ので、その当否を論じることはしないが、いずれにせよ、ここでのアルマの叫びは―もっとも彼女は 回想して書いているのではあるけれど―全く正当なものであるように感じられる。
しかも、アルマのこの発言は、それを「創作の謎」として、一般人には理解し難い領域に押しやることを禁じてしまってもいる。少なくとも彼女も 作曲をした以上、「一般論」として、作品と人生の関係はそんなものだ、などとは言えないだろうから。それはマーラーという個別のケースの謎なのだろうか? 「天才的な肉食獣」の謎?
勿論、そうした事情は取るに足らぬこととして、当時の「世紀末の流行」のテーマを取り上げたのだ、という説明で乗り切ってしまうこともできるのかも 知れない。だがそうした文化史的な還元による説明は上述の「預言」もどきの解釈を脱神話化する効果は認めることはできても、あのアルマさえ たじろいだ「マーラーの場合」の特殊性を説明し切れていないように思われてならない。何より、作品の持つ破壊的なまでの強度がそれに異議を唱えて いるように思えるのだが、、、(その強度は、例えば情景描写の克明さとか、嘆きの表現の巧みさなどから、この作品が全く背を向けてしまっていることに よって寧ろ強められていることにも注意すべきだろう。)
この作品と比較すべきは、(勿論、文化史の研究としては、重要なテーマかも知れないが、ここではそれは関心の外なので)同じテーマを扱った 同時代の他の作品などではなく、寧ろ彼自身が後に書いた「大地の歌」ではなかろうか。出来上がった作品も、生成史もひっくるめて、 「大地の歌」に繋がる要素、「大地の歌」と異なる要素を個別に見極めていく必要があるのだろう。いずれにせよ、「子供の死の歌」がマーラーの 創作の秘密を解く一つの鍵であることは確かなことに感じられる。私の前ではその鍵は最後まで開かないかも知れないが。
(2007.6.18 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。2024.11.26 noteにて公開)