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「第15回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年9月15日)

「鐘の音」
シテ・山本則俊
アド・山本秦太郎
アド・若松隆
「第15回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年9月15日)


山本則俊さんの「鐘の音」は以前に拝見したことがあると思って調べてみると、まず2年前の同じく秋の「第15回香川靖嗣の會」がそうであった。実はそれに先立って、その年の初めにハゲマス会主催の「狂言の会」も拝見しているから今回は3回目ということになる。前回は「遊行柳」の前という番組であった。今回は後に「天鼓」が続く番組。別に記した「天鼓」の感想でも書いた通り、今回は、音、音楽に纏わる狂言と能でプログラムが統一されていて、しかもいずれも音楽の持つ呪術性、祝祭的な性格を扱った作品、実際の舞台も演じるのは、狂言の近代的な意味合いでの「劇」としての「演技」は無論のことだが、何よりその謡と舞の卓越がまさにこの曲にうってつけの山本則俊さんと、こちらも人間ならぬ精霊を演じ、更にはその無心で透明で自在な舞を舞うのにこれほど相応しいシテはいない香川靖嗣さんのお二人であれば、素晴らしい舞台となること間違いなしとて目黒の舞台に足を運んだのだが、実際に舞台に接すれば、そうした期待を遥かに上回る素晴らしさであった。ここでは「鐘の音」について記しておきたい。


同じ則俊さんがシテであるけれど、今回はアドが泰太郎さんと若松さん。2年前は主は同じ泰太郎さんで、仲裁役の隣人が則重さんだった。ちなみに「狂言の会」では主が則秀さんで隣人は今回と同じ若松さん。こうしてアドが少しずつ変わることで、曲全体の趣が万華鏡のように変わるのを味わうのも得難いことである。役の性格が演者の個性に応じて変わるのもそうだが、詞のやりとりの呼吸もまた、高度に様式化されつつ、決して一通りではない。寧ろ山本家の狂言が高い様式性を持つが故に、そうした呼吸が演者により、あるいは回を重ねる毎に異なっていることが鮮明に浮かび上がるようにさえ思われる。

今回は若松さんの隣人が主と太郎冠者の間を往来しつつ、両者をとりなして最後に鐘の音を寿ぐ仕方舞に繋げていく、その足取りの落ち着いて、誠実さを感じさせるのが印象的であった。勿論、もっと余裕に満ちて、主と対等の立場で、自らが結末へのリズムを作り出すような行き方もあり、前回の則重さんはまさにそのような感じだったが、今回の若松さんはまさに主旋律で主題が回帰するのを準備する対旋律かゲネラル・バスの如く、自律的で主張もありつつも、後にくる結末を準備するような手応えの演技であるように感じた。

そして勿論、こちらは3回とも同じ則俊さんのシテはといえば、こちらもまた、ある面では既視感を覚える程に高度に完成されていながら、場面場面の間合いや筋の運びの緩急は自在で、毎回初めてみるような新鮮さに満ちているという、一見したところ矛盾しているように思われかねないことが、現実の舞台では自然に実現されていることに驚く他ない。

前半の寺巡り、鐘巡りはいわゆる独り舞台で、変奏曲のように繰り返し、寺を訪れて境内の様子、鐘の在り処を描き、鐘の音を確かめる過程を経て鐘の音の模写に至るまで全て一人でこなすのだが、その自在さは何度観ても息を呑むばかりである。今回は、金子先生の事前の解説もあって、後が「天鼓」ということをこちらが意識したこともあってか、割れ鐘にいきあたれば、祝言に相応しくないと反応するなど、「付け金の値」を「撞き鐘の音」と勘違いしていてはいても、自分の与えられた使命の目的がつまるところ祝言にあることは過たず把握されていることが伺えるところなど、太郎冠者の気持ちの一貫性が強く感じられた。

そしてその気持ちの一貫性があればこそ、勘違いに気付いた後、途中大名と一悶着起こしても、最後の仕方舞に至る迄、一本の筋が通って、全体が実にすがすがしく心の籠った、祝言に相応しい舞台となるのであろう。作品の内側の、そうした太郎冠者の気持ちと、それを演じる則俊さんの、己を無にして謡い舞う姿が重なった時、続く「天鼓」の舞台でも起こった、作品の内側と外側が合さって、祝言が作品の内側のものに留まらず、その日の舞台での上演そのものが祝言であるという、能狂言にとっての本質が立ち現れていることに感動せずにいられない。無心さは太郎冠者のものであり、同時に則俊さんのそれに外ならず、それは続く能でも同じであり、それがこの日の舞台を際立って感動的なものにしていたように感じる。終曲後、演者がいなくなって、見所の拍手が響くばかりであるかに見える何もない舞台が、だけれども、このような舞台の後では普段とは異なった位相にあるように感じられる。開演前に戻り、日常の延長が再開されるのではないのだ。そしてそのような空気の中で「天鼓」が始まることが、どんなにか素晴らしいことであるか。

今回感じたことのそれぞれは、勿論個別には前回も、最初に拝見したときにも感じたことには違いないのではあるけれど、前回から2年を経て改めて拝見して、今回一際強く印象に残ったのは、太郎冠者の無心さであり、則俊さんご自身の無心さであった。そうした無心さこそが祝言の場を可能にする条件であるに違いなく、更には山本家の狂言の持つ高い様式性は、その境地にアクセスするためのきっかけであり、それを保持する容れ物のようなものなのではないかということさえ感じたのであった。


3回目の「鐘の音」もかくの如く素晴らしい舞台で、まさにこの曲が則俊さんの至芸を味わうという意味合いにおいても最適の作品であることは疑いを容れないことのように思われる。特に今回何よりも印象に残ったのは、私はそれでもやっと3回目だが、恐らくは何度となく演じられ、すっかり手に入っている筈の曲を演じる、その円熟の一方で、常にその時一度きりの新鮮さを喪わないことであり、恐らくはその印象を支えているに違いない、無心さと、それが切り開く無限にも感じられる晴れやかな空間の広がりであった。得難い経験をさせて頂いたことに対して感謝しつつ感想の結びとしたい。(2018.9.24 初稿公開, 2025.1.11 noteにて公開)

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