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アントン・ヴェーベルン(1883-1945):ヴェーベルンを巡っての8つの断章(3)

III.

音列は隠されるのか?旋律線≠音列でないような書法の可能性?(実際はどうなのか?分析と自分の聴いた印象と両方をつきあわせる必要性。)
音色旋律の導入によって、旋律線の見分けは一層困難になる。「点描」と呼ばれる所以か?(そしてホケットへ?)
それ以外のパラメータが「表現」の媒体として残された?

幾つかあるパラメータの機能が分裂している(あるパラメータは構造をにない、別のパラメータは表現を担う、、、)のか?

それでもヴォーカルライン、というのはあるし、フレージングもある。
確かに一旦パラメータ化してみて、機能を個別に考える「視点」はヴェーベルン自身が含み持つであろうものだから、ヴェーベルンの場合には決してトリヴィアルな進め方とは言えない。

それでは初期の音楽ではどうだったのか?習作期の伝統的な書法の場合は?

今やヴェーベルンの外に出ることなく、そうした問題をヴェーベルンの中で通時的に辿ることができる。
隠されたものではなく、隠し方の方に着目してはどうか?
セリー自体ではなく、セリーをどのように「装飾」するかに注目する。
すると拒否したかったもの、残したかったものが浮かんでこないか?

何故ヴェーベルンの音楽が、セリーの体系化が(これを等号で結ぶことを許容したとして)音楽の「人間化」の否定なのか?

一方の極で、自然現象のような印象主義の音楽がある。自然的時間と人間的時間??
「構築する」「編む」というメタファー。
展開・終結、線的な目的性の拒否?
どこかに辿り着くことの拒否?

いわゆるメタファーを受け入れたら、どういう事になる?
何が喪われたか、そしてそれはヴェーベルンが意図したことか?
再帰性。自己言及性。
セリーの構造に見つけられる?畳み込み?記憶はどうか?

短さ。
短さの社会学的意味。
演奏機会の少なさ?特殊編成の歌曲。
演奏のされやすさをあまり考慮しているようには見えない。
だが、編成の縮小は?社会学的要因はないのか?

繰り返しの禁止。情報量の観点からシェーンベルクのあの賛辞を考えよ。

(2002--2007.6.14, 2024.9.2 noteにて公開)

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