語録:ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉
ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書383番, p.419。1979年版のマルトナーによる英語版では407番, p.346。1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では429番, pp.390-1)
この一節は、最後のミッキェヴィチの「葬礼」のリーピナーによる独訳の引用により有名かもしれない。 言うまでも無くリーピナーはマーラーの友人であり、とりわけアルマと結婚する以前のマーラーへの影響は大きかったと言われている。 「葬礼」は最終的に第2交響曲第1楽章となった交響曲ハ短調の第1楽章が一時とった形態である交響詩のタイトルである。 従って、この文章は第2交響曲の「葬礼」が第1交響曲のフィナーレで倒れた英雄の葬礼であるという標題的な解釈の裏づけとして意味を持つわけである。 (ちなみに、あれほどリーピナーを嫌っていたアルマが、この引用についてはちゃんと注をつけているのは興味深い。もっとも「回想と手紙」でも、 この翻訳だけはその価値を認めていたようなので、首尾一貫した評価なのだろうが。 ―邦訳では「慰霊祭」(酒田訳, p.37)「祖先の祭」(石井訳, p.51)となっているので注意。)
だが、それよりも私はこの文章を読んだ時に寧ろ、晩年のマーラーが自分の若き日の作品を改めて指揮した際に、 その若き日の衝動をなおも我が事として見出すことが出来たことや、この不遇な作品―少なくともマーラーその人は、 自ら指揮したその演奏がまたしても聴衆に理解されなかったと感じていることは、文章から読み取れる―に対する愛着に感動したことを覚えている。 当たり前の事だと思われるだろうか? 私にはそうは思えない。20年も前の作品なのだ。 この書簡が書かれた日付を見るに、この時分にマーラーが取り組んでいたのは第9交響曲なのである。 感じ方は人それぞれとは思うが、いずれにせよ「あれは若書きで」などとは言わないところが如何にもマーラーであると私は思う。 (そういう弁解が必要な作品は、彼は公開しなかったのだが。)いずれにせよ第1交響曲がマーラーにとってどんなに大事な作品であったか、 そしてあのフィナーレを聴く者が受け止めなくてはならないものの重みを感じずにはいられない。 個人的な経験になるが、私がバルビローリの第1交響曲の録音を聴いたときに、ふとこの書簡の言葉を思い出したのをはっきりと記憶している。
ちなみに、この後に続く文章は、芸術と実生活の関係について書かれていて、これはこれで興味深いものがあるが、 別に扱うだけの内容があると思われるので、別項を立てて扱うことにしたい。
(2007.5.15, 2024.7.10 邦訳を追加。2024.7.26 noteにて公開)