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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(35)

35.

反復の問題。クロスモダリティにおける異なったモダリティ間の結びつけ問題。繰り返しによる習得。最初の1回で、という奇跡は起きない。 繰り返されるためには、記憶が、記録が必要だ。そして第一の手帖は、そのことについては正確な記述を行っている。一方で、恐らくは不可避で あったはずの、訓練に伴う(比喩的な意味合いを含めた)「暴力」に関しては牧師は沈黙する。丁度第二の手帖において、開眼手術が問題になったとき、 自分の逡巡は書き留めたのに、ジェルトリュード自身の反応には全く触れることのないことと対応するかのようだ。つまるところここで牧師の手帖が そうであったように、記録は書き手の恣意により歪められ、無意識的な錯誤や無視により損なわれる可能性を否定しがたい。ジェルトリュードは 記録の手段を自ら持たないゆえ、彼女の声は奪われてしまっている。第二の手帖の冒頭においても、いみじくも牧師が証言する「読み返し」が、 第三次過去把持の装置を媒介した、第二次過去把持が起きている。これは外部記録媒体への記録なしには実際には困難であっただろう。 (そもそも第一の手帖において、そうした記録の作業を怠ったことについて牧師は記している。)そしてここでも再びそれは、 第一の手帖の事後的な改竄を引き起こしたかも知れない。更に牧師は反省に抗して知らないふりを続ける。それは自己欺瞞でもあるが、それ以上に、 他者を歓待することを拒むことだ。

だが、反省自体が問題なわけではない。虚構すらそれ自体が悪であるわけではない。寧ろ問題は反省の不徹底と、他者に対する想像力の 欠如であるとさえ言えるのだから。自画像が廃墟でしかないことに目を背けないことが必要なのだとさえ言えるのだから。 手帖の記録が問題なわけでもない。そして物語がそれ自体悪であるわけでもない。幽霊が悪であり、祓わなくてはならないわけでもない。 寧ろここでも幽霊を歓待することが必要だとさえ言えるかも知れない。


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