見出し画像

ハゲマス会「第12回狂言の会」を観て

「佐渡狐」山本泰太郎・山本則孝・山本則重
「樋の酒」山本東次郎・山本則直・山本則俊
「唐相撲」山本則俊・山本則重・山本則秀他


昨年に引き続き、麻生文化センターでのハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会に足を運ぶ。昨年末には 「二人の会」での山本則俊さんの「福の神」と香川靖嗣さんの「道成寺」での山本家のアイ(これには能力として演技だけではなく、 鐘を釣るという重大な役割も含まれる)を拝見して感銘を新たにしたばかりの筈なのだが、 多忙になる一方の身辺の慌しさのせいか、ほんの1ヶ月前のことには感じられない。そうかと思えば今回の番組の「佐渡狐」を 山本則俊・泰太郎・則孝のお三方で演じられたのを拝見したのは2002年のことなのに、これはもう8年も前の こととは思えない。だがいずれもその鮮烈な印象は些かも色褪せることがない。今回の番組も同様に印象的なものだったのだが、 時間の制約もあり、遺憾ながらその価値に見合うだけの時間をかけて感想を書く暇がなく、充分な準備をもって公演を行われた 主催者および演者の方々に対して失礼になりはせまいかと懼れつつも、以下、簡単に感想を書き留めておくことにする。

最初の「佐渡狐」は山本泰太郎・則孝・則重の若手のお三方による上演だが、かつて拝見した時に則俊さんが演じられた奏者を則重さんが 演じられたのには感慨深いものがあった。則重さんの近年の充実ぶりに毎回鮮烈な印象を覚えているのだが、今回もまた堂々たるもので、 後の「樋の酒」の主人と装束がつくのを避けるために格を上げた装束に見合った格も感じられる。佐渡のお百姓を泰太郎さん、 越後のお百姓を則孝さんという配役もぴったりはまっていて、理想的な配役の上演であったように感じられた。全体として筋の運びがきびきびとして、 推進力に富んだ展開で、実のところ私の嗜好からすると、話の中に含まれる段落というか句読点でもう一呼吸 余裕があってもいいような感じがしたのだけれど、それが自分の我儘に思えるほど充実した舞台だった。話の設定からすれば役所についてから ということになるのだろう、舞台上で正装に着替える演出は、終演後の東次郎さんのお話では寧ろこちらが正式であるとのことだったが、 緊張感が途切れず、間が空いた感じがしなかったのは流石。この狂言は科白と所作だけで進んでいくけれど、山本家ならではの高度な 様式性によって、寧ろ音楽的といっていいようなリズム感、音楽でもむしろ交響曲のような抽象性が高いジャンルに近いのではとさえ 感じられる反復の効果やコントラストの効果が鮮明に感じられるのが何とも快い。

だが、それに加えて「樋の酒」では更に緊張と軽みの交替や、作品の構造上の句読点でのちょっとした間合いによって巨視的な構成感と いったものがより明確に感じられるのは、やはり何といっても山本東次郎さん、則直さん、則俊さんのお三方の芸の円熟によるのだろう。 「樋の酒」もかつて一度拝見したことのある(他流でだと思うが、正確には覚えていない)狂言だが、その時の雑然として品のない印象、 特に樋の扱いを巡っての所作が煩わしく感じられたのが、今回の上演では微塵も感じられない。劈頭、主人が二人の部下を順番に蔵に 閉じ込めるところの反復、そしてそれと対をなす、主人が帰った後、二人を今度は逆の順番に蔵から追い出して、追い込む部分の 反復は様式的な美しさを帯びたもので、構造上アーチを描くような構造がくっきりと浮かび上がる見事なものだったし、舞台正面での樋の扱いも スマートだったけれど、それでいながら太郎冠者と次郎冠者の主人との立場の微妙な違い(それに加えて、あろうことか、「下戸」な筈の 次郎冠者の方が太郎冠者よりも遥かに「強い」ことまで!)が鮮やかに浮かび上がっていたし、何もない舞台に正面を向いて並んでいるだけなのに、 二人がそれぞれ別の閉ざされた空間にいることもはっきりとわかる。例えば次郎冠者は舞台の上ではすぐ隣にいる太郎冠者の舞を見ない。 窓を通して隣の蔵を見ながら、謡に耳を澄ますのである。更には紙を破いた瞬間に広がる酒の香りや、樋を通して酒の香りが隣に広がっていく様など、 まるで匂いが客席まで伝わってくるかのようなリアリティ。お酒が入って段々と興が乗っていく変化もはっきりと感じられ、筋の中に埋め込まれた 謡や舞も見事で、総じて様式と表現の絶妙なバランスを味わえる、何とも贅沢な経験だった。

休憩の後は従前とはやや異なって、小舞の替わりに囃子のみによる神舞の演奏の後、同じ囃子方を含めて三十人もの演者による大曲「唐相撲」となる。 大掛かりであることもあり上演が稀な曲とのことだが、私が感じたのは、演者のうち則重さんの通辞と則秀さんの日本人の相撲取り以外は意味の ある詞を発さないという制約のあるこの作品の場合、舞台を成立させるのは山本家の狂言の持つ様式性そのものであるということだった。ここでの 様式とは、意味のない詞にも備わっている確固としたリズムや節回しのことでもあるし、所作の美しさでもあるし、反復や対称性を豊かに持った 時間的な構造のあり方でもある。再び終演後の東次郎さんのお話を引くが、山本家以外の上演では、狂言とは異質な要素を導入したり、 或る種の演劇的な身振り、例えば最後には自分が相撲をとると言い出す帝の心理を大袈裟に誇張して演じるなどすることによって、 あるいはまた、意味のない詞をことさら滑稽さを強調して語ることで笑いを引き出したり、見所を設えたりする試みがなされたりしたそうだが、 ここではそうした作為なしに、狂言として十分に見ごたえのあるものになっていたと私には感じられた。そもそも私が滑稽さを感じたのは、例えば 2つの「言語」を使い分ける通辞の科白の切替えのおかしさであったり、意味を抜き取ることによって浮かび上がってくる状況そのものの雰囲気の おかしさに対してであって、これらは寧ろ、狂言や能の様式を徹底して突き詰めることによってこそ可能になるのであり、その背後には これまた狂言ならではの、屈折して醒めた批判的な知性の働きがあるように思えるのだ。個人的には「唐相撲」のようなタイプの作品は そんなに興味を惹かれないのだが、作品の持つ何重もの「突飛さ」がかえって山本家の狂言のエッセンスを浮かび上がらせていたように 感じられたのは非常に印象的だった。

終演まで休憩を挟んで約三時間、客席もこれまで以上の賑わいで、今回もまた充実した公演であったと思うが、私個人としては、人によっては 見慣れた作品である「樋の酒」の印象が最も強い。恒例の終演後のお話の中で東次郎さんは、虎明の「わらんべ草」の記述を引きながら 「樋の酒」を演じたお三方の年齢に言及されていたが、私見では少なくとも今日においては、能がやはりそうであるように、狂言もまた華やぐ若手の 演者のためにのみあるわけではない。これまで拝見してきたいずれの会でもそうだったが今回もまた、寧ろ私にとっては、この「樋の酒」の上演で発露された 自在さ、豊かな味わいこそが貴重に思われたし、そうしたものはやはり長い年月を重ねた上でしか到達できないものに違いない。偶然にも則俊さん、 則重さんの親子二代が奏者を演じるのを拝見できた「佐渡狐」は、継承されたものの確かさと、将来の更なる円熟を予感させるものであったように 感じられた。是非とも今後も拝見し続けて行きたいと思っている。

(2010.1.24 公開, 2024.10.26 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?