人魚の鱗【前編】
いつの間にか、一番遠くまでの乗車券を買っていた。
それでもいいかと俺は思い、列車を眺めている時だった。
「お前さん、もしかして、最果てまで行くつもりかね?」
振り返れば、小汚い老人がいた。妙に気持ち悪い笑みを浮かべて、物売りだろうか、木箱を背負っていた。
多くの客が列車に乗り込み始めていた。もうじき、列車は出てしまう。
「もしかして、その更に先にあるエジリオ海まで行くつもりじゃないかね」
「……ええ」
初めて聞く海の名前だった。この列車が行ける、一番遠いところまで行くことにしたものの、そこが何という場所なのかも知らないし、その先も俺は何も知らなかった。
けれども、そのエジリオ海まで行く、そういうことにしておこうと思う。
行くあてなど最初からないのだ。目的も何もない。どこに行っても居場所も何もない。
「それじゃあ、この娘を連れて行ってはくれないか」
老人は背負っていた木箱を下ろした。よく見るとそれは両開きの扉がついたもので、開けば中に、いくつもの小瓶が並んでいた。一つを手に取り見せてくる。
小瓶は透明な水が満ちていた。その中に一枚、花弁にも似た何かが佇んでいた。
淡い青色や桃色、時に黄色も見えるように輝くそれは、恐らく、鱗だった。
「これはの、人魚の鱗じゃ」
老人がにちゃあと笑えば、もう数えるほどしか残っていない歯が見える。それでもごもごと俺に説明するのだ。
「海とは命の生まれる場所。命の還る場所。そして人魚は海の者。故に、奴らは不老不死なのじゃ。そのことに貴族さんらが目をつけての、人魚の肉を食って、不老不死を得ようとしたのじゃ」
果たして本当に人魚の鱗なのか、俺にはわからない。ただきらきらと輝いていた。
「実際、人魚数匹食べてみても、それらしい効能はまだ得られていないらしいがの。とにかくいま、この国都の流行りなのじゃ」
国都も貴族も、ろくなことをしない。
「この鱗は、貴族さんらに食われた人魚の、たった一枚残った鱗での。それで、言っただろう、人魚は不老不死だと。死なんのじゃ。死んでないのじゃよ。ただ元に戻れぬ状態で、この娘が生まれた海に還してやれば、元に戻るのじゃ……いや、エジリオ海まで行く人間はほとんどいないからの、よかったよかった」
老人の木箱の中をちらりと覗き込めば、他の小瓶にも鱗が入っているのが見えた。老人の言うことの真偽はわからないが、他にも「人魚」はいるらしい。
老人は小瓶を差し出したまま、引っ込めようとしない。俺はひとまず鱗の小瓶を受け取った。手の中でまじまじと見つめれば、日の光により輝いていた。
「金貨四枚じゃ」
不意に老人がそう手を差し出してくる。思わず俺は怪訝な顔をした。老人は繰り返す。
「ほれ寄越せ、金貨四枚じゃ」
「最初に金額を言わなかったじゃないか。こんな胡散臭いものに、そんなに出せるか」
「お前さん、手に取ったということは、そういうことじゃ。まさか盗む気か? ここで騒げば、きっと国都の兵士が来るぞ」
くそ。押し売りだったか。一瞬の苛立ちが俺の中に浮上し、しかしゆっくり沈んでいく。
金なんてどうでもいいじゃないか。
俺は投げるように金貨四枚を老人に払った。気付けばもう列車に乗り込もうとする客の姿はなく、いい加減自分も乗らなくてはいけないのだと悟る。
「人魚がかわいそうだからやってるわけじゃないのか」
去り際に、老人に尋ねる。老人は満足そうに、そしてやはり見ていると気分が悪くなりそうな粘っこい笑みを浮かべていた。
「ああそうじゃ。これで人魚を助けて、わしも豊かに暮らせるというものよ」
まさに国都の人間らしくて反吐が出る。
俺が列車に乗り込んで少しして、汽笛が鳴り響いた。曇り空の下、蒸気がより空を濁らせて、列車は動き出す。
俺の手には、確かにあの鱗の小瓶が握られていた。
* * *
列車から見る風景に、少し前までこの国が戦争をしていた気配は一つも見られない。聞こえてくる乗客の声も賑やかで、きっとあいつらも戦争があったことを知らない。知っていても、それはきっと、新聞の隅を飾るだけのものだったのだろう。
それでも辺境で、隣国との戦いはあった。俺はそこで戦った兵士だった。志願して、雇ってもらった。
戦争は、俺の友人みんなが死んで、そろそろ自分もか、という頃に終わった。
俺は生き残った。けれど、それを喜んでいいのか、わからなくなっていた。
四肢を飛び散らせた友人を見たし、治療も埋葬も間に合わず腐っていく友人も見た。
多くの友を亡くした。亡くしすぎた。
それだけではなく、故郷もなくした。
俺が兵士に志願したのは、その戦場となる辺境近くに、故郷があったからだった。
気付いた時には、故郷は何もかもがなくなっていた。話によると、ある日ここは激しい攻撃を受けて、誰一人逃げる間もなく更地にさせられたのだという。
故郷のために兵士になったというのに、俺はいつ故郷がなくなったのか知らなかった。いつ両親や兄弟は死んだのだろう。戦争が終わって故郷へ戻った時、初めて更地になっていることを知った。
後に聞いた話、あの戦争は、貴族達の金儲けのために行われたものだったらしい。
俺達は駒だった。貴族達が盤上でやるゲームの駒よりも価値のない、軽い命の駒だった。
何もなくなった俺は、どうしたらいいのかわからず、かといって国都に出たところで、復讐する気も起きなかった。
どこに行っても、何も見つからない。何もわからない。
そうこう彷徨っているうちに、気付けば最果ての駅までの乗車券を買って――海に行くことになって、偽物か本物かもわからない人魚の鱗を押しつけられていた。
夜も列車は走っていく。簡素なベッドで、俺は揺れを感じていた。
いっそこのまま、目的地に着くことなく走り続けてくれたのなら、俺はそれからどうしよう、なんて考えなくていいのに。
だが、ちらりと俺の小さな鞄を見れば、小瓶が頭を出している。
あの老人への感謝は一つもないが、この鱗は少なくとも俺にやることをくれた。それから話が本当なら、少しだけ同情した――何かに同情できるほどの余裕が俺に残っていたとは、俺自身驚いたが。
この鱗を、海にぶん投げる、それくらいはやってやろうと思った。
* * *
不思議な夢を見た。海の夢だった。
俺はどこまでも続く桟橋に立っていた。辺りは一面、霧だか靄だかがかかっていて空も見えないが、俺はそこが海で、桟橋が時にねじれつつ、時に分かれつつ、どこまでも続いているのがわかった。
どうしようもないので俺は歩く。歩き続けて、もしかすると一度通った場所かもしれない場所でも、進むしかなかった。しかし桟橋にはやっぱり終わりがなく、岸も見えない。
ついに立ち止まると、無性に泣きたくなってきた。
俺は一体いつまで歩き続ければいいのだ?
そう思ったところに、手が伸びてくる。海の中から、長い爪のある白い右手が。
俺の足首を掴む。そのまま恐ろしいほどの力で引っ張る。
気付いた時には、俺は海に落ちていた。海は優しく俺を受け入れる。海水は温かく、泡が肌を撫でていく。
誰かが笑っているのが聞こえた。海の青色に、何かが輝いているのが見えた。
あの鱗だ。
俺が最初に見た夢は、そこで終わった。
胡散臭い鱗を預かってしまった上に、揺れ続ける列車で寝たのだから、妙な夢を見てしまったんだと思う。
ところが列車を降りた後も、その夢は続いた。
海の中は、美しかった。
まるで星のような小魚の群れ。巨大な甲羅を背負っているものの優雅に泳ぐ亀。踊る海藻に、海の中でも色鮮やかな珊瑚。
岩の隙間からこちらを見るウツボの輝く瞳。動いていないようでゆっくりと進んでいるヒトデやウニ。砂の中では貝が微睡んでいる。遥か遠くではクジラの影が見える。
タコは寡黙に岩に擬態していて、ヤドカリは新しい家を探している。イカが自慢げに海上へ跳び上がれば、イルカは悠々とそれを超えるジャンプを見せつける。お喋りをしながら進むマンタの群れが、まるで曇り空を作るかのように海中に影を作った。その影に驚いたエビが引っ込んだ一方で、ナマコは文句を言いながら砂を食べていた。
海の中は静かでも賑やかで、奇妙な姿の魚や、もはや魚なのかもわからない生物もいるものの、それすらも芸術の一つだった。大きな鮫が、小さな魚を襲っている。ついにその牙に捕まり海に血が流れるものの、その力強さも、美しかった。
命に溢れた場所だった。
俺はサンゴ礁の上を泳ぐ。クラゲの合間を縫うように漂う。巨大な海藻の森を彷徨う。
息はしていなかった。けれども苦しくはなかった。俺は必要としていなかった。
そして、進む先に、あの鱗の輝きを見る。
美しい尾鰭が、輝きの残像を残しながらも先へ先へ泳いでいく。それは少女のように見えた。黒い髪に、白い肌の少女。
人魚だ。あの鱗の人魚。
笑っている。悪戯好きそうな笑い声が聞こえる。
人魚を追っていると、いつの間にか、俺の周りには何もなくなっていた。生き物の姿も何もない。
先にあったのは、深くまで続く穴だった。闇に満ちて何があるのかは見えない。
どこまでも続いているように見えた。沈んでしまったのなら一体どうなるかわからない。
けれども。
ここが俺の向かう先だという気がした。
海は命の生まれる場所。
そして命の還る場所。
闇の中に、友や家族が見えた気がして、俺はゆっくり泳ぎ進んでいく。
ところで、あの人魚は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
――そう思ったところで、夢はいつも終わるのだった。
人魚の鱗【後編】はこちら
この作品は、朗読台本としてフリーで使用可能な小説作品です。
詳しくはこちらの「朗読台本として使用可能な作品について」をご覧ください。
※他サイトでも公開しています。