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雨の降らない空の下にて【短編小説】

 ある時、公園で男の死体が見つかった。
 満開の桜の木の下で、首を吊って死んでいた。

 季節は十二月。桜が咲く時期ではなかった。
 その上、そもそも公園に桜の木なんて一本もなく、この木は昨日まではイチョウの木だったという。

 ――それから日本では「満開の桜の木で首を吊って死んだ人間」がよく発見されるようになった。
 桜の季節でもないのに、桜の木でもないのに、何故か桜の木が出現して、そこで人が首を吊っている。

 やがて気付いた。
 木の下で首を吊ったのなら、その木は満開の桜の木になるのだと。

 

* * *


「あの木、昨日までケヤキの木じゃなかったっけ」

 高校生の僕は、よく隣に住んでいる女の子と一緒に、歩いて登校していた。
 いくつも絆創膏を貼っていたり、袖の下からちらちらと痣が見えたりすることもあった彼女は、ある日の登校中、少し離れた場所にある桜の木を指さした。

「誰かが桜になったんだね」

 彼女は決して「誰かが自殺した」なんて言わなかった。

「あっ、あっちにも桜がある……春だもんね、桜も増えるよね」

 僕達の歩く世界の光景は、日に日に、桜の柔らかなピンク色が増えてきていた。この社会では、自殺したい人なんてたくさんいる。彼女の言う通り「桜になれる」のなら、彼らは重たかった足を一歩進めて、木の枝にロープをひっかけて、桜の木を作り出していた。
 いまでは青木ヶ原の樹海は桜色に染まりきった。富士山と映えて、絵に描いたような日本らしい光景が出来上がっている。
 だから。

「きれいだよね、桜」

 彼女みたいに言う人は、珍しくない。
 ところがあの木は、その下で人が死を選んだ証だから。

「気味が悪いだろ、あんな木。原因もわからないし、人が死んでるんだから」

 僕はその日、彼女にそう言い返した。

 それから数日、当たり前の日々が続いた後のある日。僕が部屋の窓を開けると、桜の木が目に入った。

 二階にある僕の部屋からは、隣の家の裏庭、つまり彼女の住む家の裏庭がよく見えた。そこにある木は、間違いなく、桜の木なんかじゃなかった。
 けれども桜の木になっていて、何か大きなものがぶら下がっているのを、僕は見た。
 彼女が首を吊っていた。

 ――自殺の理由は、わからない。
 それでも僕は、隣の家から、彼女の両親の怒声と、彼女の悲鳴や泣き声がよく聞こえてくる事実を知っていた。いつまでたっても、彼女は傷一つなく登校することはなかった。どこかしらに血が出た跡があり、痣があり、時に火傷の跡もあり、目を真っ赤に腫らしている朝もあった。

 さすがに一度、僕は彼女に理由を聞いたことがあったけれども。

「聞かないで。何にもなかったことにして」

 小学生くらいの頃だったと思う。それ以降、僕は何もないことにした。
 彼女に言われたのだ、『そんなこと』はあってはならないことにしなくてはいけなかった。

 そして、桜の木の下でぶらぶら揺れる彼女の姿も、僕にとってはあってはならないことにしなくてはいけなかった。
 彼女が死んだ、なんて。


 * * *


 隣の家から聞こえてきていた、怒声や罵声、悲鳴や泣き声は、もう聞こえてこなくなった。

 聞こえてきたのなら、僕はいつも部屋の窓を閉めていた。いまならいつでも窓を開けられるけれども、僕は長いこと窓を閉めたままにしていた。
 うっかり開けてしまったのなら、隣の家の桜の木が目に飛び込んでくる。いつまでも満開に花を咲かせる桜だ。

 僕が何もできなかった証。彼女がいなくなった証。
 だから僕は、窓を閉める。
 もしもあの時、なんて考えにも蓋をして。

 彼女が死んだこと。僕が助けられなかったこと。
 あってはならない、あってほしくない現実だから。

 いっそ、雨でも降ってくれたのなら、あの満開の花も散ってくれるのだろうに。
 けれどもいつまで経っても、雨は降らない。気付けばこれまで、雨の降る日はほとんどなかった。
 ずっと晴れのまま。だから見える光景のいたるところで、桜は満開のまま。

 ふと、桜の木にぶら下がった彼女の姿を思い出す。それで気付く。
 彼女は桜の木になったわけじゃない。
 あれはてるてる坊主だ。

 きっと、魂は桜に、身体はてるてる坊主になったのだ。
 だから桜が咲く空では、ずっと晴れが続く。雨が降ることはない。

 ――虚しい空の下、僕の心はいつまでもいつまでも、桜で曇り続ける。
 桜となり、てるてる坊主にもなった彼女は、僕の心にも雨を降らさせてくれない。ずっと曇りのまま。


【終】


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