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【復刻記事】GEM ダイヤモンド号 ~高度成長期が生んだ魂のピンセット~ (その2)

※本記事は2017年5月初出のブログ記事を、著作者自身が再編集、noteにて再アップしたものです。

ということで、前回からの続きで、GEMの時計工具を手掛けていた村木時計店の話です。

◆村木時計店について

それではさっそく、「GEM」ブランドを手掛けていた村木時計店(現:(株)ムラキ)の歴史について調べていきましょう。セイコーやシチズンのような腕時計メーカーでは無いので、馴染みが薄い人も多いかと思いますが、実は日本時計産業の歴史においては非常に重要な会社のひとつです。むしろ、屈指の名門と言って差し支えないでしょう。時計好きの方なら、現在ではエベル、ぺルレ、マーヴィン、フェスティナ等の代理店としてご存知かもしれませんね。

日本の時計産業は車やカメラと同じように、世界的にもある程度の知名度がありますが、「史料/資料」という視点で見ると欧米ブランドに比べ、非常に乏しく、絶望的なほど謎だらけで苦労させられます。そんな中、(株)ムラキについてはありがたいことに社史が存在します。しかも2冊!まず、それだけで時計業界内ではかなりのレアケースです。

右:「温故知新 ムラキ八十年のあゆみ」(1986) 、左: 「温故知新 ムラキ百年のあゆみ」(2006) ※ともに非売品、2冊セットではないので、揃えるのが大変でした…。

この2冊の社史は1986年に創業80周年を記念して1冊目が刊行され、2006年には創業100周年を記念して1986年からの20年分に焦点を絞ったものが追加で刊行されました。非売品ですが、セイコーミュージアムの図書室や東京大学図書館には収蔵されており閲覧が可能です。私はさんざん探し回ったあげく、大阪の古本屋から取り寄せました。この時点で、ピンセットにかかった費用を余裕で越えています…。二冊で500ページに迫るボリュームですが、まずはその社史を元に、村木時計店の大まかな歴史をご紹介します。

◆村木時計店の歴史

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・創業者の村木正蔵について
1876年、滋賀県伊賀町、彦根藩の旧士族、服部平の次男として誕生。5歳の時、同じ彦根藩で親密な関係にあった村木家の養子となる。当時は明治初期。旧士族は徳川幕府崩壊と共に平民となり、今までと違う職に就くことを迫られるなど、世の風潮が大きな変化を遂げている時代であった。正蔵は10代半ばの頃、行灯(あんどん)に貼られた紙に時計の絵があるのを見て、『僕はどうしてもこの時計の絵のお店へ行きたい』と言い、大阪市内の時計商、山田商舗に奉公に出ることになった。誠実一途で勤勉に働く正蔵は、すぐに頭角を現し、皆に頼りにされた。その働きぶりは、後に正蔵が店を去ることを惜しんで、主人が正蔵の独立をなかなか認めない程であったという。正蔵が独立したのは30歳の時であった。

・創業
1906年、正蔵は村木商舗を創業。掛時計、懐中時計等の卸売を主体に、時計材料工具類の大卸を始める。従業員15、6名。当時の国産掛時計は名古屋が生産の一大拠点で、各地の時計店では機械を丸ごと、もしくは部品で購入し組み立て、別に準備したケース側に入れて販売していた。また、大阪の時計商としてはいち早く舶来時計の輸入を手掛け、店を発展させていった。1921年には正蔵の息子である栄太郎が入社。翌年の1922年は個人経営から法人組織「村木商店」となる。新入社員時代の栄太郎は正蔵から時計材料部門、特に輸入材料工具の成績を挽回する仕事を命じられる。栄太郎は材料工具の知識と職人の作業過程を研究して、より合理的な材料を提案することに努め、わずか3年後には“時計の材料工具と言えば村木”と呼ばれるほどに成長し、市内の時計材料工具商のリーダー的存在となった。村木商店は1936年には「株式会社村木時計店」に改組した。昭和初期の主な商品は、まず国産のローヤル(ROYAL)ブランドの掛時計。時間持ちと耐久性に優れ、人気抜群であった。ケース側には特別にヤマハ楽器に製作させた物もあったという。舶来腕時計ではオメガ、エルジン、ウォルサム、ハーウッドなどを扱っていた。特筆すべきはロレックスを扱っていた事。仕入れ先はリーベルマン商会。当時日本では、ロレックスは全くの無名ブランドであった。後年、正蔵は「ロレックスの販売に最初に色々の苦労をしたのは村木だった。それが今日のロレックスの土台になっている。知っている人は少ないと思う。」と語っている。他にも時計修理用材料としては、インディアンブランドのゼンマイ、ドイツのキューパース時計油、同じくドイツのG.BOLEY時計用旋盤などを扱っていた。

・戦争
順調に発展していた村木時計店であったが、時代が太平洋戦争に突入すると、輸入貿易も絶え、業務を一時休止せざるを得なくなった。1941年には「村木航機株式会社」に社名を改め、陸海軍の指定工場としての業務を行うことになった。当時は様々な物資が配給制となり、軍指定工場にならなければ資材調達もままならない状況であった。具体的には、同年に「第一精機」と「光測社」を東京に設立。前者では精密旋盤を、後者では双眼鏡の製造を行い、軍に収めた。このとき、栄太郎の新人時代の材料工具部門の立て直しの経験が非常に役に立ったという。その後、戦争は激しさを増し、大阪市内の本店・支店は空襲で焼失。海外で展開していた京城、大連支店は閉鎖となった。東京支店は運よく焼けずに残った。

・戦後
戦後はすぐに社名を村木時計店に戻し、大阪の仮営業所と東京支店で再起を志すも、戦前のような輸入貿易はすぐには不可能であった。日本の貿易再開と舶来時計の輸入許可が下りるまでは、第一精機で小麦の粉ひき機、時計用のバンド、煙草のパイプ、安ライターなど、売れる物ならなんでも作り、辛抱の日々を送った。日本の貿易が再開されたのは1948年、舶来時計の輸入許可が下りたのは1953年であった。しかし、輸入再開後も輸入には「外貨割当制度」が適用されていた為に、「ぜいたく品」と見なされていた舶来腕時計は、政府の政策としても優先度が低く、とても自由な貿易と呼べる活動は出来なかった。やむなく村木時計店はわずかな外貨で時計修理用材料や工具を細々と輸入しながら、国産で、インディアンブランドのゼンマイ、グローブ時計油、GEM印の旋盤及び工具類の一手販売等を進めた。

・高度成長期
1951年、栄太郎の長男、栄一が入社。1952年、東京支店が独立して「村木時計株式会社」となり、社長には栄太郎が就任した。この2社体制は、業務上、諸官庁との折衝が増え、貿易拡大に向けて東京を基点とした体制を敷く必要があった事、加えて、傘下にあった多くの下請け工場を再建整理し、同時に海外の一流会社との取引を期するためであった。同年、本格的な貿易再開として、G.BOLEYの時計旋盤と、独キューパース時計油を再び一手輸入販売することとなった。1955年以降は、サイツ社の総代理店契約、アルブレヒト社のドリルチャック、ディキシー社の超硬工具、スフィンクス社のドリル、ベルジョン社の修理用材料及び工具など、次々と取引を拡大していった。特にサイツ社製品の総代理店契約は、セイコーやオリエントの腕時計の穴石として全面的に採用されたことで、一気に売り上げを伸ばし、会社を飛躍させる契機となった。その様子は「村木時計は石でもつ、尾張名古屋は城でもつ」というシャレが作られるほどであったという。しかし栄太郎はサイツ社の製品を国内時計メーカーに卸す以外にも、新しい事業の柱が必要と考え、1960年(昭和35年)には待望の舶来腕時計の取り扱いを再開。スイスのユニバーサル、ドイツのウルゴスの代理店となった。ユニバーサルは、その後の薄型ブームも手伝い、同ブランドの世界売上のうち、半分を日本で売るまでになった。また輸入工具や工業機械の部門を電子産業分野など、時計産業以外へと徐々に拡大させていった。これらの取り組みは、後のクオーツショックによる穴石需要の激減にも村木時計株式会社が対応することが出来た大きな要因となった。1961年、正蔵死去。1965年、大阪の村木時計店と、東京の村木時計株式会社が合併。1970年台以降は徐々に時計部門よりも機械工具とエレクトロニクス部門の売上が大きくなっていった。1981年、第三代社長に栄一が就任。1984年には社名を現在の「株式会社ムラキ」に改めた。

・バブル崩壊から現在
1989年、栄一社長が突然の死去。会長となっていた栄太郎が急遽社長兼任として現場復帰。1992年、第4代社長に栄太郎の五男、慶裕が就任。バブル崩壊による不景気の中、会社の各種構造改革に着手し、ほぼ現在の体制となる。1998年、栄太郎会長死去。2006年、第5代社長に木内義裕氏が就任。

※補足:2021年~、第6代社長に山本信司氏が就任。
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と、まあこんな感じです。時計好きとっては、これだけで、だいぶ気になる情報が盛りだくさんですねぇ。

1972年の時計技術関連の書籍に掲載された村木時計店の広告

◆エピソードの数々がアツい!

社史では、以上の会社の歴史の他にも実に様々なエピソードが掲載されていますが、これがまた、非常に面白いものばかりなのです。

例えば…

・会社のブランドマークの“ツボM”は当初“マルM”にするつもりだったが、商標を役所に提出したところ、丸善書店が登録済みであることが判明し、急遽、壺型に変えた。

・東京の時計材料組合が分裂し1年以上の大紛争になる事件が起きた時、若干23歳だった栄太郎が大阪代表として仲裁に送り込まれ、徹夜で両者を説得した。

・終戦後、朝鮮の京城、中国の大連の店舗を閉めざるを得ない状況になったが、地元の人々と良好な信頼関係を築いていた為に、引揚げまで非常に良くしてもらった。

・終戦直後の正蔵の談話:「私はいま無一文となりました。しかし、人間はもともと裸でこの世に生まれてきたのです。私は再び創業の時の心に戻ります。そして、村木の再建に努力いたします。村木を戦前以上の状態に復活させる覚悟です。私から離れて行きたいと思う方は自由に離れて行ってください。私はこれから、朝は1時間早く起き、夜は1時間遅く寝ることにします。一から出直す人生も、また面白いではないですか。」

・戦後、時計の仕事が出来ず困っていた中小の時計部品加工メーカー十数社で「ローヤル時計工業協同組合」を結成し、その指導的立場に第一精機がついたが、仲介者の不正、一部での不良品の発生などで、すぐに破綻。多額の負債を背負った。

・ユニバーサルの代理店時代、ユニバーサルは米ブローバ社の傘下にあったが、香港のウオン家がブローバ社をTOBする出来事があった。そこで、村木とユニバーサルの経営陣で協力し、ウオン家からユニバーサルの全株式を買い戻すことを画策、厳しい交渉の末に成功した。

などなど…。社史ではあるものの、伝記的にも読めて非常に興味深い内容です。NHKの朝の連続テレビ小説のような展開ばかりです(笑)。

次のエピソードなどは、セイコーマニアの方にとっても貴重なものではないでしょうか。1964年、栄太郎会長が叙勲を受け、セイコーの社長が祝辞を述べたエピソードを引用してみます。

村木会長と服部正次社長とは、互いに肩を抱き、杯を交わして、これまでの半世紀に及ぶ功績をねぎらい合った。思えば約五十年以前の大正期に、村木の店と服部の大阪店とは同じ大阪市内の博労町の至近距離にあって、二人は互いに新入社時代の若き青年として、店頭で初対面の話を交わした。以後、幾多の星霜を刻んで、文字どおりこの二人は、日本の時計業界の発達と共に歩んだ、企業とその人であった。服部正次社長は、祝辞を述べる間、終始村木会長へ目をやり、まるで我がことのように、心から嬉しげに微笑をたたえていたのである。しかし、服部社長はこの日の祝賀会の翌日入院し、間もなく不帰の客となられたのであった。思えば、祝賀会当日の服部正次社長は村木会長のために身体の不快をおさえ、万障を排し、旧友のために心のこもった祝辞を贈ったのである。服部社長は入院のあと、二か月して逝かれた。七十四歳であった。

「温故知新 ムラキ八十年のあゆみ」1986)

服部正次はセイコーの第三代社長で、在職中は東京オリンピックの計時や、世界初のクオーツウオッチの開発を指示し、セイコーの名を一躍世界に広めたとされる、カリスマ経営者でした。クオーツウオッチ発売が有名過ぎてあまり注目されませんが、それまでの機械式時計の品質と生産性を劇的に向上させたのも、服部正次社長の功績です。そして、その舞台裏には栄太郎との友情と、村木時計店経由でのサイツの穴石の功績もあったわけですね。

◆次回

という訳で、今回は村木時計店の歴史について調べてみました。

次回はさらに踏み込んで、「GEMの時計工具とその時代」について考えていきます。

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