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学問の理想

数学専門教室のイメージを膨らませている。ぼくは学問と生活が近しい関係にあることが健全な姿だと思っている。なので、それを現わすような場所をつくりたい。具体的には、畑で農作業とか、ごはんを作ってみんなで食べるとか、散歩をしたり、火を囲んで語り合ったり、そうした中で本音を語り合い、時に本氣になって各々の思いをぶつけ合い、情(こころ)を広々と伸ばして勉強も人知れず進む。学問を生活の中で自然と楽しむこと、それが最も大切なことだと思う。

数学専門教室は塾のようでありながら、いわゆる塾は全く目指さない。塾らしからぬこと、勉強しようとせずとも”人知れず、自然に”勉強が進むこと、学問を生活と共に樂むことを理想とする。そういう新しい雰囲気の中でしか、新しい文化は生起しないと思うからだ。ぼくの目的は、文化をつくることにある。

もちろん、文を書いたり本を読んだり、独りで集中することの大切さはいくら強調しても過ぎることはない。深いところへ到達するには、必ず独りで潜っていく必要がある。ただ、今のように「座って勉強しましょう」などと他人が(例え先生であれ)強いることでは決してない。人は何か面白い事を閃いて思い付いたり、「集中したい」と思えば言われなくともそうする生き物である。ぼくは「勉強したい」、「集中したい」というのも一つの本能だと思っている。

この塾らしからぬ塾(のようなもの)はやはり、田舎の風景の中に在るのがしっくり来る。岡潔は『 知の根底は情である 』と言ったが、これは本当だという確信が日毎に高まっている。畑で農作業を共にする、ごはんを共に食べる、散歩を共にする、火を囲んで共に語らう、など(これは例である)、そういう《 情(こころ)の響き合い 》があって初めて、知の成長がありうる。

今、先生と生徒の間に情(こころ)の交流はあるだろうか。試験に使える単なる知識(岡潔は「死蔵されている知識は無い方がよい」と言われた)やテクニックを教え込んで、それが果たして教育なのだろうか。それで人は学問を樂しむ情(こころ)を育むことができるだろうか。情の交流なくして知の成長はありえない。これが【 師道 】と云う物の実態であろうとぼくは思う。

ぼくには高校時代に数学を習った師匠が居て、この人から師道を受けた。師匠との情(こころ)の交流が最も大切だったのであって、知の成長は二次的な副産物に過ぎない。だから、もし師匠が数学でなく他の事をやっていたら、ぼくはそれをやったと思う。しかし、どちらにせよ学問を樂む味を覚え、勉強は好きになって居たに違いない。それほどに、情(こころ)の次元は知よりも遥かに高いと思われる。数学のような知の端的なものでさえ、情がとにかく大切なのである。

教育は、学問と生活が近しい関係にある、健全な雰囲気の中で行われるものであると云う理想を元に、新しい文化をつくると云う理念を現していく場所の構築を目指している。

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