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数学の普遍性と情緒の力学

最近はあまり表立って数学や岡潔を語ってはいないけれど、直接会って話しかけてくださる方々で「数学をやっている人」あるいは「岡潔を探求している人」との認識を持っていただいていることが多く、ぼくの書いている文章は自分が思っているよりも読んでいただいているのだな、と感じている。

現在は魂振りセッションを活動の主軸へと据えて、そちらへの比重を移している最中なので、数学や岡潔は余裕があるときに合間に進めているような形になっているが、決して辞めた訳ではなく、みずからの思考を高めてアップデートしていくに当たってはやはり数学や岡潔が鍵を握っているのは確かである。

特に、ぼくが興味があるのは「岡潔の」数学であって、もちろん「受験の」数学ではなく、そして「現代の(欧米スタンダードな)」数学でもない、極めて特異な数学である。ここで、「〇〇の」と冠を付けてさまざまな数学を区別することは重要なことであると考えている。ぼくは“数学一元論”のように数学を等質的に考えることには賛同できない(現代の数学はこのような等質数学=homogeneous mathematics と言えるのではないかと思う)。

仮に数学を技術的な側面にのみ限定してみれば、数学は等質的になる。しかし、それは等質的なのであって、普遍的とはちがう。数学には文化によって、民族によって、つまり背景に広がる自然観や死生観によって、多種多様な姿形がありうる。その可能性は常に開かれているべきである。

ところが、そうした数学は互いに通じ合うことができる。なぜか?それは、岡潔の言う『情緒』が数学の内容を本質的に司っていて、互いの数学が情緒によって論理を超えた場所で通底低音を奏でているからである。

表面上の技術や論理に囚われるばかりに、現代においては見落とされがちであり、数学という文化形態が成立するかどうかの肝心な要であるはずの根本元素、それが『情緒』である。情緒を無視すれば数学は等質的になるが、情緒の豊かな多様性に目を向けて、互いに異なる情緒が響き合う共通性に着眼したならば、そこにこそ初めて普遍性が出現する。

この視点に立つと、見えてくる景色がある。互いに異なる情緒が引き付け合うとき、そこにはある種の引力が働いているはずである。そして、その引力には強弱があると考えることができる。引力が微弱なものは互いにあまり干渉しないが、逆に引力が強力なもの同士は干渉が高く集団的な塊を形成する。そのような塊(根本元素の連続体)は「数学が民族によってちがいを持つ」ということを反映している。

ぼくが「岡潔の」数学に興味がある理由は、それが日本民族的情緒という塊(民族の種類を同値関係とする同値類について日本民族という種類を持つクラス)を【数学という形式】に表現している“代表元”になっているように思うからである。

ぼくの情緒は岡潔の情緒に強く引き付けられている。その引力の作用の仕方は、単に魅力というよりも魔力と言えるほどである。日本民族という同じクラスに属する者同士は、そのような魔力に干渉を受ける。

「岡潔の」数学とは多変数解析関数論に他ならない。特に不定域イデアルの理論はその金字塔である。岡潔に後続する者たちはこれを“代表元”として取り、「日本民族的情緒をいかに表現するか?」という課題に取り組むべきである。

これまでのことを簡潔に述べる。

数学には多種多様な種類があり、その種類とは数学の内容である『情緒』に依っている。
その情緒の中で、ある特殊な日本民族的情緒というクラスがあり、「岡潔の」数学を日本民族的情緒が数学という形式に表現された物の“代表元”として取る。
これを日本民族的情緒というクラスに属する情緒を持つ個々が継承・表現する流れを形成することにより、日本文化に新しく数学という文化形態が加わる。
また、これは岡潔が提唱した「ラテン文化を日本に移植する」という構想の一端を担うものでもある。すなわち、この大いなる企ては数学に限ったことではない。

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