抽象数学との別れ
2022年の10月頃、広島尾道にて数学の話をした記録があるのを見つけて、久々に自分で見直してみた。「どんなことを話したっけな」と思いながら話を聴いていくと、テーマを-数学と感情-に定めて、その時に考えていたことのあれこれを自分なりに話していた。それなら、今と同じテーマを扱っている。今のほうがもちろん見識も深まって内容も洗練されているが、この時の不器用ながら一生懸命になんとか頑張って話している感じもなかなか良いと思った。
今にして思えば、10代の終わりがけの頃に岡潔の語る独特な数学の世界に接した時には既に、現代の抽象数学とは根本的に相容れない極めて異質な数学の道に足を踏み入れていたのだと思わざるをえない。
岡潔は現代の抽象数学に拒絶の意志をはっきりと表明し、岡潔の創造した不定域イデアルの理論がカルタンらの手により層の理論として翻訳されて広く受け入れられるようになっても、「これは私の理論ではない」と言って退けた。
数学が感情から離れて成立するという認識そのものが既に幻想に過ぎず、知的に透明な論理体系の構築を目指す現代の抽象数学の先にいったい何があるというのか、さっぱりわからない。と言うよりも、数学とはそもそも何なのか、本来どうあるべきなのか、と問うことすらなく、自分たちが何をやっているのかという明確な自覚を欠いてただ数学を形式的に拡大しているだけ、というのが実情なのではないかと思う。ぼくは大学時代に、数学を専攻して現代の抽象数学を学ぶうちに、だんだんとそういうことに気づいていった。一旦気づいてしまえば、元に戻ることはできなかった。となれば、数学はもはやそういうものになったと諦めて数学を辞めるか、もしくは岡潔の指し示した『情緒の数学』という道を目指してともかく前に進むか、道はどちらかに絞られた。20代の前半はこの両方の道を行ったり来たりして葛藤苦悩し、24歳のおわりがけになって遂に後者の道を選択した。ぼくは数学を諦めなかったのだ。
しかし、ほとんど道なき道である。クロネッカーがデデキントに宛てた手紙の中で「青春の夢」を語ったように、この道は「ぼくの青春の夢」である。夢は希望のようでもあり、人生の目的のようでもあり、使命のようでもある。
ぼくの他にいったい誰が好んでこんな困難な道を歩こうと思うだろうか。現代の抽象数学という巨大な船に乗っかっているほうが遙かに楽である。でも、実はその船には穴があいていて、今にも沈みそうな状況だとしたら?もう既に根本のところでは破綻しているとしたら?ともかく船から勇気を持って海に飛び込み、小さくてもいいから別の生き延びる道を死に物狂いで見出すしか、他に道はない。
数学は今、そういう状況なのではないかと思う。危機的な状況である。岡潔をしっかり読めばわかることだが、難解なのか、目を背けているのか、関心がないのか、あまりにも話題にのぼらない。ので、やはり発言や発信をしていくことにした。まずは危機感だけでも共有できる人を増やしたい。なぜなら、これは数学に限らずあらゆる学問芸術に通底する非常に広範囲に及ぶ大問題なのだから。
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