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情緒の知性を開こう

段々と日差しの威力が強くなって来たと感じている、今日この頃。

氣づくか氣づかないかに関わらず、この世では今、とある(社会的な)現象が起こっているように思われる。それは、反知性主義と言われるものである。近代的な世界観への反発に誘発されて、科学の限界や、言葉の限界など、さまざまな限界が指摘される様になったことが、着々と広く学問の内外に広がって来ていることは間違いない。

確かに、科学や言葉には限界があり、我々はこれまで科学的に証明できることや、言葉的に表現できることへ、極端なまでに囚われて来たことは否めない。そして、この風潮に対して言わば逆風が吹き荒れることは、ある意味では自然なことなのかも知れない。少なくとも、そう捉えることはそう多くの人に奇異な感じを持たせることがなさそうだ。そこにやって来たAIコンピュータの波。

数学界もその波に飲まれることを余儀なくされる運命を悟ったのは、ぼくが未だ大学生の時である。

当時、ぼくは現代数学に対して違和感を持っていたものの、たった独りきりで感じているものが、果たして妄想なのか核心なのか、判断に迷っていた頃があり、そこで奈良女子大で開かれる極めて専門的な研究集会へ足を運んだことがある。ぼくは現代数学へ今まさに携わっている日本トップレベルの数学者たちが、どのような人がいて、どんなことを彼らは考えていて、なにを目指していて、そして数学界は今のところどんなことになっているのか、そういうことが知りたくて、奮起して研究集会へ足を踏み入れた。

数学者たちが話している内容については、何を言っているのやらほとんどさっぱり分からなかった。しかし、どういうことを目指していたり、どういう研究のアプローチを取っているのかであったり、何よりどういう人たちが数学界に居られるのか、そういうことはよく分かった。

そして、数学者たちが話すエニグマ(意味不明な暗号)のような内容に耳を凝らしているうちに、突然こんなことを彼らは言い出した。これから数学者になろうという人たちは、AIコンピュータとうまく付き合っていくことが必須になるであろう、と。それだけではない。この発言が暗に示していることは、これから現代数学はAIコンピュータに食わせることができるものでなければ、良い研究にはならない、そういう時代に入って来ると言っていた。

これは凄まじいことである。ぼくはこの研究集会へ参加したことを決定機に、大学院への進学は止めようと強く決意したことを覚えている。仮に晴れて首尾よく大学の先生になるなり数学界へ参入することが出来ても、一寸先は闇であることを確信したからである。すなわち、数学界に於いて知性は死にかけている

このように、反知性主義が意味することは、単なる知性への反発に留まらず、知性が巨大な波に飲まれ、今まさに死にかけている状況を指していることをも含んでいる。ぼくがこの状況を感知したのが20歳の時。いまから約5年前のことである。

それから、この趨勢に抗おうと独りきりで声をあげていた時期もあった。周りからは狂氣の沙汰に見えたこともあるだろう、真剣に耳を傾けようとする人も少なく、ぼくは段々と疲弊してきては声をあげることも控えるようになってきていた部分もあった。けれども、やはりもう一度、声を発して居たいと心が動き始めた自分が居る。

今度は嘆きや批判ではなく、建設と創造を共に。知性はまだ息を吹き返せる。思考を手放してはいけない。例えば松尾芭蕉の俳句は、知性の持つ独特な暗示力を巧みに用いて、思考によって感性を変革した。そうしてこそ、初めて文化というものが成立する次元の場が生まれる。科学的な証明や、言葉的な表現に限界が生じるのは、それを感性や文化と切り離して独立に扱うところから来る。問題の根っこは、科学や言葉とは別の領域に属する。

我々は、情緒の知性を開こう。そのために、思考を使おう。科学や言葉は必要なもの。但し、それは証明や表現のためであって、説得するためのものではない。

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