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朝香宮妃の夢、内匠寮の技 〜突撃!例の建築家の手すり ⑧


こちらの国際福祉機器展おまけネタの、更に続編です。


高輪ゲートウェイ駅ホームに降り立ったものの、保存が決まった築堤の石積はまだ見ることが出来ないとのことで、そのまま山手線に再乗車。
行き先は目黒で。

駅に降り立つと飛行機の気配。羽田空港への着陸ルートになったこのあたり、数分おきに大きな影がゆっくり降りていきます。

最近の旅客機は静かに飛んでいきますね


まずはA・レーモンド設計の聖アンセルモ教会(1954)に寄ってみます。駅から徒歩5分くらい。採光に工夫をこらす教会は夕方に来るのが良いのです。しばし座ってひとり過ごしまして。

目黒駅に戻って、このまま帰るのも勿体ないな、さて。と考えていたら、そんな自分にうってつけの掲示が。これは夕方にこそ見るべきですね。

これは会場にあったやつ

日本におけるアール・デコデザインの住まいの最高峰がお近くにあったのでした。ちょっと実家に寄ってから帰るわ、くらいの不敬な軽口を呟きつつ、教会と反対側の、駅から徒歩7分。門のところでちょうど17時、閉館までまだ約1時間あります。

旧朝香宮邸・東京都庭園美術館(1933)


設計は宮内庁内匠寮。でもこちらの住まい、今で言うところのプロデューサーがいらっしゃいました。朝香宮鳩彦王妃允子(のぶこ)内親王です。
でも、なぜそんなやんごとなき方が指揮をして、装飾バリバリの洋風宮家が主流だった時期に、抑制の効いたアールデコのこのシュッとしたデザインに?

お洒落な施主兼プロデューサー、朝香宮妃允子内親王


明治天皇の第8皇女であられる允子さま、久邇宮家を離れて朝香宮家を創設された鳩彦さま(明仁上皇の母方の大叔父にあたります)と1910年に御年18歳で結婚、2男2女を儲けます。
しかし1923年4月1日、運命のアクシデントが。朝香宮様のフランス留学中に、同じく留学中だっ北白川宮成久さま(一つ上の姉の夫君でもあリます)が、ご自慢の愛車、排気量4000ccのヴォアザン23CVでドライブしようぜ、とお誘いになる。そして案の定というべきか、スピード超過で立木に激突、北白川宮はお亡くなりに。後席の朝香宮さまと、北白川妃房子内親王も重傷を負います。

その治療のため、長逗留を余儀なくされた朝香宮さまのもとに、日本から允子妃殿下も駆けつけました。そしてその5ヶ月後、関東大震災により日本の住まいが大きく傷ついたこともあり、その後の2年間をパリで過ごします。

そこで、妃殿下が出会われたのがアール・デコのデザイン。植物をモチーフとした一品物のアール・ヌーヴォーを、抽象的な幾何学でアレンジしてプロダクトデザインとしても成立させたような造形と言ったら良いのでしょうか。ちょうど、フランスでそういったデザイン潮流が花開いた頃だったのですね。帰国間際には、アール・デコ万博とも呼ばれる、こちらの万博もご覧になられたそうで。


そして帰国前から温めていた構想を胸に帰国されたご夫妻は、新居の計画をじっくり進めていきます。なぜなら当時の宮内省には設計部があるのですね。
本場のアールデコを直に見聞してきた、最強のお施主様たる允子さまの意向を反映して設計できる、そんな腕利きの建築技師の部署を、内匠寮(たくみりょう)といいます。どんなリクエストにもそつなく対応できる手練れ揃いのハウスバンドみたいなものですね。

宮内庁内匠寮って?

ざっくり駆け足で引用してみます。

内匠寮の起源は、神亀5年(728年)聖武天皇の時に新設されたのが始まりである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8C%A0%E5%AF%AE

皇室の歴史おそるべし。

そして明治から大正の時代も、内匠寮は皇室の建築土木庭園機械担当として、100人の大所帯として日夜業務に励んでいたそうで。国会議事堂のデザインにも、いろいろあってメンバーが関わっています。

旧朝香宮邸内装建設時期では課長の北村耕造のもと、建築係、土木係、庭園係、機械係と4つの係に分かれており、技師と各係の技術者は合わせて100名を超えていた。朝香宮邸の建設では基本設計を洋行帰りの建築係技師である権藤要吉が担当したが、住居と事務所部分を一体化し、ロの字に構成した朝香宮邸の基本プランは内匠寮が1925年竣工の東伏見宮邸で設計したものが下地になっている。 ほかにラジエーターカバーやモザイクをデザインした大賀隆、照明や家具をデザインした水谷正雄など、優秀な技手が揃っていたことが知られている。

 

当時のメンバー、北村耕造と権藤要吉は、1930年に竣工した旧李王家東京邸、学習院西一号館も手掛けています。それぞれチューダーゴシック、ネオゴシックという様式に分類される建築で、どんな意匠であろうときっちり纏め上げる職人芸を感じさせます。
でも、アールデコのデザインは、お手本が日本にはありません。なので権藤さんは先のパリ万博見学から、欧州に米国まで、1年にわたり視察旅行に派遣されております。

でも、あたらしい意匠をいきなり表現するのに、付け焼き刃感は否めない。彼らはそこで、妃殿下のプロデュースに応えるために、各部の意匠のコアについてはパリの一流どころを頼る選択をします。全体のデザイン監修はアンリ・ラパン。そしてそのメンバーでもよく知られるのがこの方、ガラスの魔術師、ルネ・ラリック

例えるなら、粋なシャンソンを自宅で所望された姫君のために、バンドのセンターにエディット・ピアフをパリから呼んできたようなものですね。


そして、パリ万博から足掛け8年後、1933(昭和8)年5月に竣工したこちら。でも本当に残念なことに、同年秋に体調を崩された允子妃殿下は11月3日、手塩にかけたこの場所にて薨去されたのでした。

それではピアフさんの歌声に乗せて、旧朝香宮邸を見ていきましょう。

これ、玄関扉なんですよ・・・
綺羅びやかということばがぴったり

なおラリックの照明器具、いまでも買えます。ご自宅にひとついかがでしょうか。3つ分のご予算で、一軒家が建ちますよ・・・

こういった、建築の要所は本場のホンモノを船便で導入しつつ、細かいところは内匠寮メンバーがデザインした器具や什器で満たされているのが、この朝香宮邸なのです。でもそこには間違いなく、プロデューサーたる允子さまの美意識が反映されて、統一感を醸しております。

さて、手すりも見に行きましょうか。まずはメインの表階段から。

白い大理石の階段ですが・・・
腰壁も、その笠木や手すり壁もすべて大理石(色違い)だとは・・・
上がりきったところには照明塔が

手すりの触りやすさとか、関係ないですね。とにかく派手ではないが、豪奢な素材選び。
手すりとしては一応、平坦部に手を付けば姿勢は安定するか、とは思いますが、果たしてこれ、触れても良いものかw

ま、この階段は曲で言ったらサビの部分です、全力で行きますよね。

続いて、もう一つの階段を。ご家族の動線になる裏階段です。

手すり壁、つややかどっしり木製です

先の表階段と比べると、木は触れたら触れた分だけ美しくなる、ということを思い出させる素材使いですね。やんごとなき朝香宮様御一家が、上り下りのたびに触れたことで光っている笠木です。

それに比べて、表の大理石尽くしはあまり人の手の跡を残さない、汚れないのですが、こちらの深みのある光り方と比べると、ちょっと物足りないように思ってしまいますね。人の歴史が残りにくい。

見上げの段裏デザインも、しっかり凝っております
壁に穿たれた窓

これを見て、すごく懐かしい気持ちになりました。あ、そうか。

自分がかつて5階の単身者部屋に住んで親しんだ、同潤会江戸川アパートも竣工は1934年。こちらの1年後でした。アールデコの丸窓や、こういった桟の意匠が、あちらにもたくさんありましたね。

そして、今回はこれが主役でした。せっかくなのですが、ここはダイジェストで。

夕方だからわかる、天井を照らすひかりをご堪能くださいませ


そして残念ながら、こちらのもう一つの見どころである(だって庭園美術館ですから)、お庭から見る時間がなかった・・・というわけで、またいつかこちら、明かりが灯る寒い時期に来てみたい、と思います。



おまけ、というか本業の話


玄関のスロープ、直線型じゃなくてアーチ型でした。これ、どこのメーカーだか調べておこう。ご存じの方、もしいらっしゃったら教えて下さいませ。

これは初見でした。なるほどこういう需要が。

そして、こちらのエレベーター動線の作り方に感心。

タイル仕上げを見せつつ、ガラスの床で平らに増築部とつなぐ

既存のバルコニーを改修して、エレベーターのある新館との動線をつくっていたのですが、段差ができないようにするだけではなく、既存のタイルを埋めずに見せる、こういう解決をしておりました。これはあざやかな解法ですね。

断面マニアさんのためにもう一丁、あれ?無筋か?


次回は、味スタAWAYのついでに寄った、あの巨匠のところに参ります。


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てすり屋のひとりごと 橋本 洋一郎(合同会社 湘南改造家)
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