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建築界の高田渡、松村正恒 〜突撃!例の建築家の手すり ⑤


かつて九州は大分で、設計監理の名のもとに現場で掟破りのハンドメイド作業をしていたころ、休日には周辺の建物を、時には海を渡って見に行ったりしておりました。そんなとき、気まぐれに撮っていたスライドが先日発見されたので、奮発してデジタル化してみたのです。

そしてそこに、建築家の皆様がいろいろやらかしている今だからこそ、この方を知ってほしいという無級建築士(自称)の手掛けた学校の画像があったので、お蔵出ししてみます。ちなみに撮影日時、1998年2月1日。


松村正恒という建築稼(けんちくか)


さて、様々な手練れが手掛けた建物の手すりから、そのヒトとナリを探ってみようというこの企画、さらに建築業界のルーツがわからずともそれが見えるように、音楽の世界にいる人に例えたらだれかしら、とあえて考えるようにしております。

この方のポジションはやっぱりフォークっぽいな、では誰だろうね、と考えたのですが、ぱっと浮かんでこないので、であればと以前読んだご本人の著書(※)を改めて取り寄せて捲ったところ、すごく真面目な方なのだろうなあという第一印象があっさり裏切られる。駄洒落というか諧謔大好きなのです。例えば次の文章。 

建築と建築家 ー燕と雌鳥の対話から

 建築と建築家が世にはびこり、「社会を動かす」と悦にいり気炎をあげている、そんな手合いが近頃やたらと目につくじゃない。
 目の毒、気の毒。
 ある日のこと、盲目の老女が豪勢な文化会館に入ってきた。連れの男が目を輝かして説明する。すだれのような天井の上に屋根がない。「嘘よ」ああ在る在る硝子、今頃の人間の好みらしい。「暗いと物が見えぬのかしら、闇と淵の奥底が判らぬはず、それにしても暑さくらい分るだろう」広い、向こうにいる人の顔が見えない。高い、アレ烏のやつないてる、ケンチク・カー。

無級建築士自筆年譜 住まいの図書館出版局 より引用


こんな調子である。すさまじい批判精神を持ちながら、投げるのはスローカーブ。

これをなぞらえるなら、この方しかいないのだった。
フォークの仙人、高田渡。


この曲、今年の猛暑に個人的に欠かせなかった87円の格安レア氷菓、ガリガリ君の前回値上げのときのCMでも使われていたそうで。かつての公共料金値上げに際しての政治家の答弁をざっくり並べた歌詞だそうな。

でも、当時は値上げに対して政治もここまで慎重だったのですね。それが今やどういうことだってばよ。

そしてまた、この方の歌で忘れてはいけないのがこれ。

寒くなってきて外で寝られなくなってきた、ホームレスの歌なのです。放浪の詩人、山之口貘の詩と彼の声とつぶやくギター、じわじわ染みます。

松村正恒も、生まれた町の市役所に勤めながら、超低予算のなかでも標準設計に収まらず、子どもたちにとってどんな建物が必要なのかを考え抜いて学校を設計しております。
また、孤児のための建物の設計依頼を受けた際には、補助金の予算消化のためすぐ設計して2ヶ月で着工しろという県の押しに対して、そんな施設だからこそ隅々にまで気を配り愛情の限りを尽くすべきだろう、そんな了見があるか、と仕事を断ったそうな。

そして、1913年に生まれ、1993年まで生きた彼の設計した学校は、建物の寿命まで使われ、残念ながら解体の日を迎えたものも多い、のですが。
でも、彼の手掛けた学校では、時間を掛けて在校生やOBが校舎を磨き上げ、お別れ会を行っていたとのこと。「最高の学び舎をありがとう」という、そんな催しが開かれる、それだけでも設計者冥利に尽きると思うのですが、松村さんはそこに招かれて、その思いを語る機会を贈られていたそうで。
そんなケンチク・カー、現代に果たしているのかな。



声高でない、あまり日の当たらない人々へのふるまい、そしてそれを受け取った方からの温かなレスポンスが、お二人には共通しているように思うのです。

では、そんな松村正恒の手すりをみていきます。


江戸岡小学校(1953)


こちらの学校はすでに解体されて今はないのですが、ちらっと撮っていたのです、階段手すり。

手すりは丸みのあるフラットで徹底されておりますが、その手すりを支える手すり子部分は細く丸みのある◇型に加工された木材を、150mmピッチで並べてリズムを作っております。

壁と階段の色使いがレトロポップ

なんでこれを取り上げたかといいますと。

無級建築士自筆年譜 よりまたしても引用

先程より引用している本の、この写真にすごく惹かれたのですよ。今ならありえないと思う方、多いと思いますが。


でも、ここの階段の勾配、蹴上げ150mm、踏み面300mm程度のはずです。屋外では標準的だけど、屋内ではそうそうこの勾配は使われません。階段室って、勾配を緩くするととても広い面積が必要になるのです。

そして、この勾配で設計するということは、子供は得てして手すりを滑り台にするものである、という暗黙の考えがあったはず。でもこの勾配なら手や足の摩擦で速度をコントロールできるし、その際に間隔の詰まった手すり子の、細い部分を掴んだりして転落から逃れた子供も、きっといたと思うのです。

これ、設計して市町村を説得できる方、果たして現代に存在するのでしょうか、というくらいチャレンジングで子供思いの手すりです。


そして代表作ですね、いきましょう。

日土小学校(1958)


こちらの小学校、校舎の南東方向に川があり、それに面して建てられております。

その川に対して、松村が出した答えがこれ。


自分も川まで降りて撮るとは、若気の至りであります

ガチで越境。河川法違反。当然に河川管理所長ともガチバトル。
でも、故郷の子供たちを思うがゆえの熱い説得に、所長が涙を流して黙認することとして成立したそうで。この画像から、その熱量が伝わるといいのですが。

下のテラスは、コンクリートスラブに、鋼管で支えたコンクリート製の、低いどっしりした欄干としての手すり。きっと高学年くらいの子供が、腰掛けて使うことを考えてますね、これ。きっと、釣り糸を垂らしたくなりますな。

そしてこの建物の特徴たる二階の川上のベランダ。ちなみに図書室直結

非常階段の踊り場から

なんとも羨ましい半外部空間。ここで読んだ本の記憶、その風景や空気感とともに残っている子どもたちも多いのではないだろうか。

その手すりは、シンプルなスチールの縦格子を入れた、転落防止手すりの基本、高さ1100程度にこれまた細めの丸棒、なのですが。

テラスの方には、さらにそこにごっつい木材を挟み、さらにそこに鉄の棒を貫通して幅200mm程度の台を、高さ800mm程度のところにつくっています。
3,4年生くらいの子供が、そこに頬杖をついて、川面を眺めたりするのにちょうど良さそう。

1階レベルから見上げてみます

ちょっと前に一部で話題になっていた?木製ルーバーを発見。
こちら、南東側なので、日差しのコントロールが必要なのですね。でもこの材料、腐らないの?と思いますが、よく見るとちゃんとその上に、チープな鋼製の波板の庇があるのでした。ルーバーの木材、ペンキをガッツリ塗って、雨垂れがかからなければ、20年くらいは交換せずにいけそうかな。


非常階段は床がツーツー

いわゆるグレーチング床の非常階段の手すりは、2階ベランダとほぼ同じ仕様ですね。木製部はないですが。川面が見えて、ちょっとスリリング。
足元が全てグレーチングなのは、建築面積から外すためか、河川法から逃れるためか、どちらでしょうね。


室内もみてみましょ。

 こちらも色使いが綺麗

やはり緩勾配の階段に、平たい手すり。手すり子や親柱はスチールです。こちらも滑ってみやがれ、という設計者のいたずら心が滲んでおります。色は先程の江戸岡小学校と逆の配色で、床がピンク系、壁が水色系ですね。
階段の面が、中央部付近で削られてなんとなく曲線になっている感じが◎。


奥にあかるい玄関が

木製手すりのところもありました。一番下の柱、手すりの上側の面の塗装(だけじゃないな)がなんとも言えない削られ方をしております。歴史って感じですね。

他にも取り上げるべきところが多い建物ですが、手すり屋さんとしてのご紹介はここまで。


年に何回か、夏・冬・春の休みに合わせて見学会が開かれているようなので、ご興味の在る方は八幡浜市にぜひお立ち寄りいただければ。建築の良さとはいったいなにか、迷っている学生さんにもオススメできます。



余談

松村さんの経歴を見ていたら、土浦亀城事務所に就職するより前、武蔵高等工科学校に入学してしばらくして、アルバイトで同潤会にて測量手伝いと、江戸川アパートの現場見習いをしていたそうな。

自分とも接点があったのか、と思うと、感慨深いものがあります。調べて文章を書くことの、醍醐味ですね。





花田佳明先生が、日土小学校の保存再生に奮闘されていたときの記録がnoteにありました。ご興味のある方はぜひ。


松村さんの自筆年譜と作品集、内田祥哉氏の推薦文などからなる今回の参考図書。

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てすり屋のひとりごと 橋本 洋一郎(合同会社 湘南改造家)
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