VOL.13寄稿者&作品紹介33 宮崎智之さん
前号(第12号)での〈寄稿者&作品紹介〉で触れた、宮崎智之さんのWeb連載『モヤモヤの日々』(晶文社)。昨年8月に書籍化されて、幅広い層の読者に届いています。noteやTwitterでも話題になり、吉本ばななさんが〈すばらしい日々の記録をありがとうございました😍読んでる間幸せでした!〉と宮崎さんに直接コメントしていたり。ページ数約500、厚さ(いま測ってみたら...)3センチ越えの大著なのに、滑らかに流れるような読み心地なのは、やはり宮崎さん特有の文章スキルに裏打ちされているから? ウィッチンケア第13号への寄稿作は、そんな宮崎さんの「書くこと」への思いが凝縮されている作品。じつは、今号では藤森陽子さんも「ライターであること」についての自己検証を綴った作品でして、ご活躍の分野に多少の違いはあれど、お二人の物書きとしてのありようを比べてみるのも、小誌の楽しい読みかたなのだと思います。あっ、宮崎さんは作中で、やはりWitchenkare VOL.13への寄稿者・矢野利裕さんとご自身の「書くこと」へのスタンスの違いについても言及していて、私(発行人)ものんべんだらりんと駄文を重ねていてはいかんのよなぁ、と精神がシャキッとした次第であります。
自分はなぜ「書くこと」を始め、それを続けているのか。作中の前半に印象的な箇所があります。少し長いですが引用すると、《外的動機だけで続けるには、書くという行為は過酷すぎる。これまで書き続けてきた事実とその過程を振り返ってみても、僕は外的動機とは無縁の何かしらの内的な理由があって書いていたと思うほうが自然である》。それに続けて《僕は誰かから求められなかったとしても、文章を書き続けていく可能性があるのだ》(原文ではすべて傍点あり)。世の中にはいろんな「書き手」が存在するので一概には言えませんが、この感覚がわかるかわからないかはかなり重要、と私には思えます。ある人は詩を口ずさみ、ある人は絵を描き...ある人は歌をうたい、楽器を奏で、踊り...ある人にとって、それは走ることだったり、石を削ることかもしれないし。私が好きなのは、そういう人たちが生み出したもの(この「もの」に傍点したい)が多いです。
↑のほうで宮崎さんのエッセイ(随筆)を“滑らかに流れるような読み心地”と書きましたが、その“滑らかさ”の裏側はこのように構築されていたのか、という、ある意味での“種明かし”も……一貫しているのは《僕にとって、書くことは一回性の行為にほかならず、その一点に賭けて書いてきた自覚がある》という「もの書きとしてのスタンス」で、それが矢野さんの書評(宮崎さんの著書『平熱のまま、この世界に熱狂したい』について)への返礼にもなっています。とにかく、これ以上一部分を抽出してなにか申し上げるより、宮崎さんのファンを始め、より多くのかたに全文を通読してもらいたい一篇。ぜひ小誌を手に取って内容をお確かめください!
小学生に対して哲学とは何かと説明するとき、「分からないことを増やすこと」と定義すると納得してもらえるという(梶谷真司『考えるとはどういうことか』幻冬舎新書)。実際に、人間は普通、自分が何について分からないのかを分かることができない。分からないことは、認知不可能であるからだ。分からないことの存在に気づいたとき、僕は文章を書く。文章を書くことで、少しでも分かろうとする。最終的に分からなかったとしても、歩行していく。
この態度には異論が出るかもしれない。しかし、分かったことしか書いてはいけないのであれば、文章を書くという営みは、とても貧しいものになってしまう。何が分からないのかが分かったという理解こそが、空白の紙に文字を埋めていく動力になる。空白の未来を漸進し、積み重ねられた過去との総体に一回性の揺らぎを加えていく。何が分からないのかを分かることができないという人間的欠落に、僕は常に意識を向けている。
〜ウィッチンケア第13号掲載〈書くことについての断章〉より引用〜
宮崎智之さん小誌バックナンバー掲載作品:〈極私的「35歳問題」〉(第9号 & 《note版ウィッチンケア文庫》)/〈CONTINUE〉(第10号)/〈五月の二週目の日曜日の午後〉(第11号)/〈オーバー・ビューティフル〉(第12号)
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