ウーレイについて
息子が生まれてそろそろ四ヶ月になるけれども、いまだに彼に名前があることに慣れない感覚がある。
名前をつけたのはぼく自身であり、かなり考えた結果決めたものなのだが、生まれる前から準備された固有名と、実際に生まれてきた存在とがうまく結びついていない感じがする。
現状ぼくは彼のことを、泣き声を模した「ウーレイ」という言葉で呼んでいる。人格として扱っていないと批判されそうだ。しかしぼくの認識のなかで彼の存在は、訴えかけてくる「ウーレイ」の声を核として形成されているので、感覚としてはこれが一番しっくりくるのである。
ぼくが彼の名前を呼んだ回数よりも、おそらくぼくや妻の父母が呼んだ回数の方がはるかに多い。孫につけられた固有名を口にすることには、きっと何かしらを確かめるような感覚があるのだろうと思う。いや、別にそういうものがなくても、人間はその固有名で呼ばれるのが当然ではあるのだが。
自分の子に名前があるというのは不思議なことだ。自分や兄弟、親、その他の他人に名前があるのは所与のものとして受け入れられる。しかし私自身から生じた存在に、私自身が名前をつけるというのはどういうことなのだろう。それは横暴というかなんというか、「知らんがな」的な領域の話である。子の誕生を固有名によって言祝ぐ、ということを、世の親たちはすんなりやっているのだろうか。想像がつかない。
成長して言葉を獲得していくにつれ、「ウーレイ」は消えていき、ぼくのなかでの彼は固有名と結びついた人格となっていくのだろうか。そんな気もする。言葉によって、私の存在と彼の存在とが意思の主体として切り離されてはじめて、固有名を自然なものと意識できるように思う。
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