「大学の授業で月30万円」の記事が今さら炎上しているワケ
東洋経済オンラインの2015年の記事がなぜか燃えている。「「仕事が楽しい」の本当の意味を教えよう」と題された記事であり、楽しさの正体を探るための思考実験として「月給30万円もらえるとして、定年まで大学に通いたいと思えるか」という問いが発される。記事の筆者は「そんなん楽しくないよね、まだ仕事する方がいいでしょ」というスタンスを取っているが、Twitter上では「30万ももらえて大学とか天国やん」といったリアクションが溢れている。
記事の要旨としては、「つらいことのなかで、たまにある嬉しいことが原動力になる」というものである。とくに珍しくもない啓発型の主張であるが、これを引き立たせるために、「つらくも楽しくもない退屈な時間」の例として「大学の授業」が引き合いに出されているわけである。
反論の対象となっているのは「大学通って30万円なんて誰もやりたがらないでしょ」という仮定であるが、この部分の是非についてはあまり論じる意味はないだろう。大学の授業を楽しいと思う人もいるし、退屈だと思う人もいる。記事の筆者が「退屈だと思う人」だけをサンプルにしていた、というだけの話である。
それよりも、何やらゾワゾワとしたものを感じるのは、「つらいことばっかのなかで嬉しいことが原動力になるんやで」という暴力的にポジティブな主張である。「嬉しいことが原動力になる」ことが、なぜ「つらいことばかり」の状況で起きうるのか、その論理的必然性は特段示されていない。なんとなく、「たまにある嬉しいこと」のなかに、「労働の辛苦の一切」を回収してしまっているわけである。
この暴力性は、労働を称揚する啓発型セミナーやらマネジメント指南書やらに散見される性質だ。これらの暴力的なポジティブさに共通しているのは、内在的視点の欠如である。理不尽な扱いを受けるストレス、日々責任を全うしなければならない重圧、そういうものの生臭さを脱臭し、平べったい「仕事のつらさ」として包括してしまう。
この記事において象徴的なのは、仕事のつらさと楽しさの関係性を、「部活」になぞらえて説明している点である。そのときはつらくても、後になって振り返れば「やっていてよかった」と思える。仕事も同じだというのである。
重要なのは、この視点が「振り返ってみれば」という、きわめて遡行的な見方になっていることである。そのときの生々しい吐き気やら胃痛やらめまいやら、そういう肉体感覚に紐づいた「つらさ」は、当然色あせている。それはもはや自分を脅かしてくることがないからである。一方で、自身の人生に意味を与える「喜び」「楽しさ」は、ライフストーリーを紡ぐなかで脚色され、強く美化されることになるだろう。なんとなく残る「つらい記憶」は、これらを強調するためのスパイスに過ぎなくなる。
もちろん、最終的に「よかった」と思えるのであれば、それでいいのかもしれない。しかしこの種の論法が、労働の辛苦を肯定するための手管として頻用されている場面はあまりに多い。遡行的な視点にもとづく「つらさの脱色」は、誰より経営層にとって都合のいい価値観を形成することになる。
繰り返すが、最終的に「よかった」と労働者が思えるのであれば、win-winの関係を結果的に構築できたことになるのだろう。けれども今後、「よかった」は成り立つのだろうか? それは経済的安定があってはじめて成り立つ感覚なのではないか。つらいことばかりで、それでも「やっていればいいこともある」と言われ、結局大きな成功体験を得ることもなく、老後の資金も作れずキャリアを終える。そういう予感が私たちのうちに蔓延している状況で、もはやこの「遡行的視点」は説得力を失っている。
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