加藤シゲアキ『オルタネート』は至高の文学作品だったのか
「話題の本について話してみよう」ということで、加藤シゲアキの『オルタネート』についての感想会を実施した。
言い出しっぺは私だったのだが、正直感想会のために読む作業がなかなかにしんどかった。興味を持てるかわからない状態で、400ページ近い小説を読むことをタスク化するのはよくなかったかもしれない。
エンタメ小説として、プロットはよく練られていた。SNS上で、AIを通じたマッチングが常識化した近未来。人間を対象化し、その「性格」や「相性」までも合理的に「測定」しうる状況において、メインキャラクターの三人はそれぞれ、そうした「対象化」に独特のスタンスを示す。
世間による「対象化」のまなざしを恐れ、オルタネートと距離を置く「蓉」、反対に技術にもとづく「合理的測定」を信奉する「凪津」、オルタネートという制度そのものの外部に位置づけられた「尚志」。それぞれのキャラクターは、SNS時代の「対象化」あるいはテクノロジーの「合理性」に対して、私たちが直面しているギャップを象徴している。
と、書いたのだが、別にそんなことは『オルタネート』においてはテーマになっていない。特に考察していて面白いテーマもないのだと思う。もちろん、「この点がこれを象徴していて」式の批評はいくらでも可能だろうけれども、それをすればするほど作品の実質と乖離していくことは間違いない。
おそらくこの本の正しい読み方は、中田が示した「世界の狭さが描かれている」という観点から読むことなのだろう。SNSという一見開けた世界が問題になっているようで、描かれているのはごくごく身近で些細なことにヤキモキする主人公たちの姿であり、「思春期特有の視野の狭さ」がそこにはある。
つまり、物語そのものに感動するのではなく、「広い世界に触れているようでも、実際はこれまでと変わらないじゃん」という作者の皮肉を感じるべきだ、というのが中田の趣旨である。なるほど「作品の意義」を見出そうとするのであれば、たぶん「オルタネート」の最大の意義はそこにあるのかもしれない。
直木賞の選評で、桐野夏生が言っているのは中田と同じことなのだろう。
不思議な作品だ。最初に読んだ時は、不自由な繭に閉じ込められた気がしたが、後でこの作品は、むしろ繭の輪郭を描きたかったのかと思った。
「繭の輪郭」という洒落た比喩に、思わずなるほど、と思ってしまう。が、なんだか胸のあたりにつっかえるものが残る。
そもそも作品にとって、その「輪郭」があることは当たり前のことだ。作品に「閉じている」ところがなければ、それは作品として成り立たない。文体やテーマの統一感であってもいいし、物語として完結している、というのでもいい。作品が作品である限り、そこには何かしらの「閉域」が存在しているはずである。
もちろん、桐野氏や中田もそんなことは理解したうえで、その輪郭がとりわけ「不自由」あるいは「狭窄」であるということに、作者の力点があると見ているわけである。
この観点からすると、オルタネートのあらゆる欠点、すなわち描写の単調さ、とってつけたような舞台装置、稚拙な概念遊び、こうしたものすべてが「あえて」のものに読めてくる……たとえば放送内では、大丘と中田が「世界のどこにもない言葉」に意味を与えてしまうことの是非を論じあっていた。「世界のどこにもない言葉」に意味を与えることは、作者と作品の関係から捉えればこれ以上なくサムい演出である。一方で、中田が言うように、それは「高校生っぽい」しぐさでもある。「高校生ってこういう夢想するよね、でもそれ全然オリジナリティないよね」ということを伝えようとしていると、中田は考えているわけだ。
正直なところ、「世界の狭さ」を表現するために、作者が「あえて」稚拙な表現やサムい演出を取り入れていたのか、というところはわからない。直感的には、カウントダウンなどの「サムい演出」は「あえて」のように思える。ただ、表現的なところを「あえて」そうしているようには、なんとなく思えないのである。
そうなると、私たちは400ページにもわたり、「高校生の視野の狭窄さを露見させるためにあえてなされた幼い筆致」を追っていかなければならない、ということになってしまう。書き手としても、これだけの分量を「あえて拙く」書き上げるというのは相当しんどいはずである。それだけのことをして、描き出されるものが「高校生の視野の狭さが普遍的であること」だというのは、なんとも苦行のようではないか。
長々書いたが、結局は嫉妬なのかもしれない。「あえて○○をすることで、××を表現している」なんて解釈をしてもらえるのは、書き手としてはとても幸せなことだからである。