「父の名は。」~あずまんが大王における「ちよ父」の機能~
日常系漫画の話をした。配信後記として、『あずまんが大王』について少し書こうと思う。
もちろん、「ちよ父」についてである。私は『あずまんが大王』以降の日常系漫画が、つねにどこか「ぶっ飛んだ世界観」を醸し出しているのは、この「ちよ父」のせいだと思っている。
画像を貼りたいのだが、版権的にあれやろ、という感じがするので、Twitterの謎botを貼っておこう。
とりあえず、赤くてネコ的な何かである。実際のキャラクターとして登場するのではなく、主要キャラの「榊さん」が見る夢の中に出現し、意味深な言葉を残しては榊さんを怯えさせる。
あずまんが大王の主要キャラは、ゆるふわな天然ボケで一斉を風靡した「大阪」を筆頭に、10歳で高校に編入してきた天才少女「ちよちゃん」、暴走系バカの「とも」、キレ芸的なツッコミポジションの「よみ」、コミュ障で長身の「榊さん」、スポーツ系バカの「神楽」の6人である。「ちよ父」はその名の通り、「榊さん」の夢の中で「ちよちゃん」の父親として登場してくるわけだ。
主要キャラの面々を見てみると、「まとも」な側の人間が意外と多いことに気づく。作中でも、ちよちゃん・よみ・榊さんは基本的にまともな側であり、「ボンクラーズ」と称する大阪・とも・神楽がボケを担当することになる。
おそらく、この構図が固定的なものだったら、『あずまんが大王』は秀逸な萌え四コマの一つではあっただろうけれども、今のようにカルト的な人気を誇ることにはならなかっただろう。やっぱり、ちよ父なのである。
注目すべきは、ちよ父という現象が、「まとも」な側のキャラたちの周縁で生じていることである。作中もっとも「繊細」な榊さんの夢のなかで、作中もっとも「理性的」なちよちゃんの父親として登場する。
作中もっとも繊細な榊さんの夢は、「作品における想像力の外縁」として機能する。要するに、スポーツのフィールドにおける「エンドライン」である。通常のフィールドは現実の学校生活に即したサイズなのだけれども、榊さんの夢によってそれが拡張されるわけである。テニスのシングルスとダブルスのラインが違う、みたいなイメージでぼくは考えている。
作中もっとも理性的なキャラクターであるちよちゃんの父は、本来であれば「理性にもとづく秩序」の頂点に君臨する存在であるはずだ。それがあれである。赤いネコのような何かが、ズレた言語体系・秩序体系を脅迫的に押しつけてくる。
象徴的なのが、ちよ父がちよちゃんにトマトを食べるよう促すシーンだ。
「ちよ トマトも食べろよ」
「うん トマトは大好きだよー」
「好きとか嫌いとかはいい。トマトを食べるんだ」
(ちよちゃんがトマトを食べる)
「どうだ?うまいか?トマトがうまいのか?」
「うん おいしいよ」
(トマトを凝視するちよ父)
「こんなに赤いのに……ちよはおいしいと言う……」
謎である。狂気である。榊さんの想像力によって、もっとも理性的なキャラクターの背後に、この狂気がつねに潜在しつづける。「まとも」と「アホ・バカ」という現実の対立構造を揺さぶりつづける存在として、ちよ父は君臨しているわけである。
あずまんがが単純なボケとツッコミ、ほっこりネタといった日常の枠に収まらないのは(すなわち「SF的」なのは)、「作品の枠が狂気によって突き破られる可能性」を仄めかす「ちよ父」の存在があるからである。
※
なお、これ以降は「作中もっとも理性的なキャラの父は理性や秩序の頂点に君臨するはず」という断定についての弁解なので、別に読まなくてよい。
念のため書いておくが、私は当然「父というものが理性的だ」などと言っているわけではない。ここで念頭に置いているのは、フロイトやらラカンやらの精神分析において構造的概念として抽出される「象徴としての父」である。ざっくりと敷衍すると(適当すぎてこれも怒られそうだが)、人間が表象機能、すなわち言語のように「ここにないものについて想起させたり思念したりする機能」を獲得するのは、母の「いる/いない」に対する意味づけを通してであり、要するに「母の不在の背景に父の存在を想定すること」である。「いる/いない」という差異に対して想定される、「背後の事情」を司っているとされるのが「父の名」である。なんか不毛に思えてきたので諸々省くが、要するにフロイトやラカンの精神分析においては、表象機能の究極的な審級として、象徴としての父が置かれるわけである。ちよ父の存在によって、あずまんがという表象の体系そのものが、つねにぶっ壊れの危機に瀕している、ということだ。
もちろん、精神分析のこうした構図そのものに偏ったジェンダー意識が介在していると指摘することはできるし、私がちよ父の説明に際してこのモデルを借用すること自体が偏見の発露である、ということもできる。
何の話だっただろうか。あずまんがは面白い。セトウツミも面白い。作品が面白いことに、余計な意味づけをするべきではないのかもしれない。
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