これは「いい文章」についてのいい文章である
いい文章を書きたい、というモチベーションに駆られているとき、ぼくがしたいのは本当に「いい文章を書くこと」なのだろうか?
文章の良し悪しをめぐる議論は、つねに着地点を失ってしまう。「東京西側放送局」においてぼくらが行った議論でも、やはり「答え」のようなものが出ることはなかった。
とはいえざっくりと、3人の間の共通見解のようなものは見出されていると思う。文章の「うまさ」というのは技巧面での話であり、「よさ」は訴えかける力、といったところである。
ちなみに、これを収録する前に話していたときには、この「よさ」が「読み手の情動を揺さぶる幅」を指している、といった観点があったと思う。中田が示した観点だっただろうか。ポジティブ・ネガティブ問わず、とにかく大きな感情のエネルギーを読み手のうちに喚起する文章がよい文章である、という感じだ。善悪の彼岸、という感じがしてかっこいい。
読む側の感覚として、ぼくはこれに激しく同意する。あるときには思考に「気づき」を、またあるときには「危機」をもたらすような文章を、ぼくは読み手として求めているという実感がある。『推し、燃ゆ』についての回で話した「うちのめされたい」という感覚も、基本的にはこれに通じているのだと思う。
一方で、書き手としてのモチベーションを掘り下げていくとどうなるだろう。冒頭に掲げた問いに戻ってみたい。ぼくの話に限って言えば、「いい文章書きて~」と思いに駆られているとき、「誰かの思考揺さぶりて~」とは思っていない。大体「この思考のグルーヴぶっぱなして~」という感じである。射精みたいなものだ。
書き手にとって、いい文章とは射精である。しかし当然、そんなもの社会的には「誰得」にほかならない。一部の酔狂な人間がファンにつくかもしれないが、臭くて大概近寄れたものではないのである。
(ただし、この「酔狂なファン」の数もバカにならないので不思議なものである。読み手に射精を促す射精、といったものがあるのだろうか?……SNSによって加速する「蛸壺化」の動向においては、とくにこの傾向が強まっているように思われるのだが、これはまた別の機会に譲ろう)
書き手にとっての「いい文章」を、読み手にとっての「いい文章」に転換するのが「文章のうまさ」である。マスターベーションではなくセックスだ、なんてことは言い出さないので安心してほしい。要するに、リビドーを「形」として整える技術を「うまさ」というのである。
この技術には、概ね二つの方向が考えられる。禁欲的な均整力と、情動的没入への誘引力である。「アポロン的なもの」と「ディオニュソス的なもの」でもいいし、「インテリ系イケメン」と「ヤンキー系イケメン」でもいい。よくないか。
前者の方は、イメージしやすいだろう。ぐるぐるとドライブしている自分の考えの中で、相手にとりわけ伝えるべき点を洗い出し、そこがクライマックスとなるように組み立ててやる。ロジカルな展開・構成の力である。
これを鍛えるのは簡単だ。自分の文章について、他人から徹底的にボコられればいい。何度も何度も、もはや心を無にしなくては一文字も書けないくらいに。心が無になったとき、きっとそれまでの指摘が内面化されていることに気づくだろう。他者の目が自分の中に居座りはじめたとき、あなたは客観性を手に入れているはずだ。
問題は後者だ。呼吸をするように、何かに憑かれたように、「直感的に伝わる」文章を書く力。この類の「うまさ」に触れたとき、読む側は往々にして「天性のもの」を感じてしまうのだが、決してそんなことはない。文章に天性のものなど存在しない。
イメージに反して、「直感的」な筆致を成立させるのは、ひとえに「堆積したものの厚み」である。無意識に堆積する無数の言葉の用法、その手触り。言葉が切り取ってきた世界の見え方。こうしたものが、ひとつひとつの言葉を閃かせる。一文だけで、というよりワンフレーズだけで、明らかな違いが感じられる……それは才能などではなく、堆積なのである。
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