コンテンツの“ポルノ化”と、「編集の目」が持つ意義
今さら「なろう系」の話をした。少し前の配信だし、これから書く内容も今さら感のあるものなのだけれども、ともあれ既視感のある内容も書いておくことで新たに整理されることがあるかもしれない。
「なろう系」が今やテキストベースのコンテンツとしてもっとも強力なジャンルになった理由については、もはやあまり立ち入って論じても意味は薄いように思われる。配信内にあるように、「不確定要素がないから脳死で読める」でもいいし、「カタルシスが約束されている」でもいい。要するに「インスタントに鬱屈や欲求を解消できる」ことがあらかじめ確定されている点が重要なのだ。
テキストベースのコンテンツにおいて、今もっとも重要視されているのは言うまでもなく「見出しやタイトル」である。ラノベに限らず、報道記事でもSEO記事でも同じことだ。「それを開いた後の効用を具体的に約束する」ようなタイトルでなければ、そもそもクリックを促せないわけである。
コンテンツの良し悪しは、この「約束」を実際に「履行」しているかによって判断される。ラノベの「追放系」のタイトルであれば、追放された者が追放した側に復讐を遂げているか。SEO記事で「原因と対策」の文字をタイトルに掲げていれば、解決の方途がその中で示されているか。そういうダイレクトさが求められているわけだ。そこに隙間があってはいけない。
すなわち「いいコンテンツ」とは、「ユーザーの欲求を最短ルートで充足させるコンテンツ」を意味する。要するにポルノなのである。
こういうことは方々で指摘されているので、ここからは少し観点を変えてみようと思う。「ポルノ的コンテンツは、編集者目線を必要としない」ということのリスクについてである。
どういうことか。いま、「コンテンツの人気」はプラットフォームの構造内で計測・表示することができる。「小説家になろう」もそうだし、むしろそうでないプラットフォームの方が少ないくらいだろう。
ここに必要なのは、コンテンツの作成者と受け手だけである。受け手が思いのままにコンテンツを享受していれば、自動的にそのコンテンツの優劣は決定される。編集者が必要ないのである。
作品そのものに対する編集者の役割は「一般意思の代弁」であり、編集の目は「世間の反応」を独自の仕方で内在化させたものだ。いま、プラットフォームそのものが「一般意思」を客観的に表示できるようになり、「編集の目」の存在意義が問われている。
客観的な数値をもとに「純粋な世間の反応」を示せるツールがある以上、「編集の目」は主観性によって濁った部分のある意見と見なされるだろう。編集者としての矜持、「自分が関わった作品で世に影響を与えたい」という思いそのものが、「作品をねじ曲げるエゴ」として解釈される。
これは、嘆くべき事態である。
作品を売るうえで、編集者目線が必要なくなる、というのはそうなのだろう。けれども、よい作品を作るうえで編集者目線が必要ない、というのは断じて間違っている。
「編集の目」の本質は、それが作品の「外からの視点」だという点にある。世間の反応を正確に反映しているかどうかは、実際のところ本質的な問題ではないのだ。閉じた作品に対して、「外からの視点」が介在することの意義は、数字上の売上から計測しうるようなものではない。
作品を作品たらしめるのは、この「外部」にほかならない。作り手が対峙していた世界の外部。受け手がこれまで触れてきた世界の外部。そういうものによってもたらされる「危機」や「揺らぎ」が、拡張の契機となるのである。
外部のない「コンテンツ」は、作り手にも受け手にも、上のような契機をもたらさない。もっぱらそれらは消費に供されることのみを目的としており、閉鎖空間での現状肯定ツールとして利用される。拡張の契機となる「外部」は、消化を滞らせる害悪ですらある。「なろう系では落ち込むポイントがあると批判が高まる」という大丘の指摘の通りだ。
「編集の目」に対する忌避感は、「外部によってもたらされる変化への恐れ」が表出したものにほかならない。それは誰だって、「そのままでいい」と言ってもらった方が気分がいいに決まっている。しかし実際、「そのままでいい」ものなどありはしないのだ。