4年間の留学と1年間の休学の意味
(English version is available here - On Empathy)
僕はオタクに憧れていた。
数学、俳句、古典、演劇、哲学、軍事もの、鉄道やその音に至るまで、何か一つ、熱中できるものを持っている友達に囲まれて過ごしたのが、僕の開成での6年間だった。他人の目なんか気にせず自分の世界に浸ったり、好きなものへの情熱を永遠に語り続けられる姿が好きだった――そして同時に彼らが羨ましかった。僕には何かこれというものが無かったのだ。一番嫌いだった言葉は「普通・平凡」。運動会や文化祭、テニス部や学校外の英語劇など、色々なことを楽しみながらやっていたけれど、オタクの友達ほどの情熱を持っていたわけではない。いつか、一生追い続けられるようなものを見つける、そんな運命的な出会いを夢見ていた。
アメリカの大学に留学しようと思ったのはたくさん理由があるけれど、高2の時点で将来何したいのか全くわからなかった僕にとって、色々な分野を試せるリベラルアーツ教育はとても魅力的に思えた。それはまだ見ぬ情熱との運命的な出会いをあと2年間先延ばしにするための時間稼ぎでもあった。きれいなキャンパスと優しそうな人たちに魅了され、ミネソタ州のカールトン大学に進学することにした。
そんな僕を待っていたのは、数々の「わからない・できない」だった。英語はちゃんと話せないし、ジョークも言えない(そもそも日本語でもあんまり面白いこと言えない)。最初の3週間は、自分が大学の授業に迷い込んだ幼稚園児みたいに思えて惨めだった。スラングやfuckの使い方も、 “what’s up?”への返事の仕方もわからない。そして何より、自分が何に興味があるのかわからなかった。焦燥感に襲われ、毎日少しづつ弱っていくような感覚に陥った。「誰か、今すぐ答えをください」とただ願いながら毎日の宿題をこなすだけで精一杯だった。
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2017年1月、僕はカリフォルニアの州都、サクラメントへ向かった。Visions of Californiaという、冬学期の10週間をかけて、日本ほどの大きさもある州をドライブして回る大学のプログラムに参加するためだ。歴史、地理、文学、芸術、経済、自然とのつながりなど、色々な視点から学際的に学ぶというのが面白そうだと思ったのだ。
カリフォルニア文学のクラスでジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』を扱った時のこと。大恐慌時代にアメリカを横断する家族の過酷な話で、貧しい者同士がなけなしの食料やたき火を分け合う姿が巻末にかけて描かれている。お金持ちや革命団ではなく、互いの痛みを知る者同士が助け合う姿は美しく、クラスメート達と優しさの重要性を確かめ合った。
しかし泊まっていたホテルを出た先に広がっていたのは、残酷な現実だった。サンフランシスコにはホームレスがとても多い。一つの通りに一人は必ずいるような状態で、東京とは比べ物にならない。文学のクラスで優しさがいかに大切かを話し合ったクラスメートは、一人を除いて全く気にしていないようだった。「ニューヨークにはもっといるよ」「仕方ないって」そんな声が悲しかったけれど何もできなかった。
ある夜の帰り道、前を歩く友達に続いて何かをまたぎ、それが人の足だったと一瞬遅れて気づいた時、背筋に悪寒がゾッと走った。自分は人の体の一部をまるで物を避けるように避けた、ということがただただショックだった。まるで失われた人間らしさを取り戻そうとするように、次の日から道に座り込むホームレスに5ドルを落としたり、コーヒーやパンを余計に買って渡したりするようになった。焼け石に水だとわかっていたけれど、それが自分にできる精一杯だった。毎回ホームレスの横を通り過ぎるたび、この残酷で不平等な世界と自分の無力さを痛感した。
クラスのディスカッションで「優しさ」を否定する人は誰もいなかったけれど、それを「行動」に変える人もほとんどいなかった。象牙の塔のように思えた大学から離れ、もっとリアルな世界を見るために一年間休学することにした。どこへ向かっているのか全く見当がついていなかったけれど、一度立ち止まって考えなければいけないということだけは明らかだった。
3年経った今でも、あの時の感情を昨日のように思い出せる。格差への怒りと自分への怒り。それは答えそのものではなかったけれど、見て見ぬフリできない、心の中のざわつきだった。
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もしお金や食糧を支給する慈善活動が貧困を解決しないとしたら、他にどんな方法があるんだろう?たまたまインターネットで見つけたのが、ソーシャル・アントレプレナーシップ(社会起業家精神)という考え方。よくわからなかったけど、「資本主義のメカニズムを使って、社会問題を解決する」くらいに解釈していた。バングラデシュでムハマド・ユヌスがグラミン銀行を設立して、女性が貧困から抜け出し自立する仕組みを作っているという記事を読んだ時、一人の経済学者が政策提言などではなく、自分の力で実際に貧困を解決しているという事実がただ衝撃的だった。
頭の中だけのアイデアでなく、実際の行動とインパクトにつながっているということに惹かれた僕は希望を見出した気分になった。どんな社会課題を解決したいのかハッキリとはしていなかったけど、ソーシャル・アントレプレナーシップという考えをもっと深く知りたいと思い、2017年の夏、アショカ・ジャパンでのインターンを決めた。
インターン中に、メリー・ゴードン、デイビッド・グリーン、ロザンナ・ハガティといった、優れた社会起業家について学んだ僕は、一人の人が生み出せる大きなインパクトに圧倒された。彼らの純粋なモチベーションやクリエイティブなアイデア、打たれ強さ、そして作り出しているインパクトに感動した。こんな人、存在したんだ、と。オタクへの憧れは薄れ、社会起業家のような、社会に変化をもたらす人になりたいと思うようになった。頭のいい批判家ではなく、チェンジメーカーになることを夢見て、メイン州のアトランティック大学(College of the Atlantic - COA)へ編入することにした。
COAで「チェンジメーカー」の精神を持ったクラスメートと出会い、彼らを友達として持てたことは本当に幸せだと思う。多くの友達は気候変動に対抗するため、クラス内でも大学外でも、高校生や政治家、NGOらと一緒に活動している。別の友達は、演劇を通してボリビアの女性差別と政府による抑圧に立ち向かっているし、他の友達はワシントンDCで貧しい家庭の中学生向けにサマースクールを立ち上げようとしている。大学内でご飯をちゃんと食べるだけのお金がない生徒向けの支援や、プラスチック削減のために大学のポリシーを変えようと活動している友達もいる。サイズや場所は違えど、多くの生徒が世界をどうよくできるか考え、行動しているのだ。こういうコミュニティの一員になりたいと思っていたし、パッションやビジョンを共にする彼らの毎日は僕を勇気づけてくれた。
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アショカ・ジャパンの代表がいつも言っていたのは、「心の声をよく聞いて、それに従いなさい」ということ。月並みな言葉のようにも聞こえるけれど、日本でそう言ってくれる大人はあまり多くないとも思う。自分の経験からアドバイスをし、より成功しやすい、より確実な道を示そうとする。それは優しさからくるものだと思うけれど、きっと若者に必要なものはアドバイスじゃなくて、自分を信じていいんだという勇気なんだと思う。僕はもう一度、自分の心の声とざわめきに耳を傾けることにした。
(これを読んでくれている友達には少し申し訳ないけれど)当時、自分の中に湧き起こる強い感情が向かっていた先は日本にいる友達だった。夏休みに東京へ帰って友達と会っても、社会問題や環境問題に興味を持っている友達は誰一人としておらず、アショカでのインターンやCOAでの日々が当たり前になっていた僕にとってはとても悲しいことだった。みんないい人だと分かっていながらも、どこか冷たいと思わざるを得なかった。なんで同じ社会で苦しんでいる人のことを気にせず生きていられるんだろう?地球が悲鳴をあげているのに、なんでインスタ映えの方が大事だと思えるんだろう?裕福な家庭で育ち、「エリート」として日本のトップ大学に通っている友達の、無知と無関心を恨めしく思った。
後になって気づいたのは、彼らは別に冷酷なわけではない、ということだ。アメリカの大学へ行く前の僕がそうだったように、「自分が動けば社会は変えられる」という考えに触れる機会が無かっただけなのだと思う。それにきっと僕の知らないところで、社会正義のために戦っている人はたくさんいるはずだ。個人への批判は無意味だと感じ、どうやったらもっと多くの人が他人の苦しみを理解し、自分に何ができるだろうと考えるだろうか?ということに興味を持った。別の言い方をすれば、どうすれば優しさに溢れた社会に、誰もがチェンジメーカーの世界になるだろう、と考え始めたということだ。
元々は「日本の若者の社会問題に対する無関心」にフォーカスしていたけれど、遠く離れた日本ではなく、「自分が大好きなこのCOAでどんな変化が見たいんだろう」とも考えるようになった。所属していたDiversity, Equity, and Inclusion Working Group(多様性委員会?)でよく話題になったのは、アイデンティティや多様性に関する対話が少ない、ということだった。そこで昨年の秋、10人の友達と一緒になってCultural Weekを企画した。学期末少し前に、月曜から土曜まで毎日イベントをやるという少し無謀な計画だったけれど、どのイベントも好評で、のべ150人もの人が参加してくれた。
大げさかもしれないけれど、僕にとっては奇跡のような体験だった。今までチームで何かやってきたことも、リーダーとしての経験もあるけれど、この時ほどチームの力を感じたことはなかった。そもそも勉強で忙しい上、1人でできることは限られている。6個のイベントを1人で企画するなんて絶対に無理だ。違う才能と情熱を持った人たちが集まったからこそ実現できたこのCultural Week。自分たちのバックグラウンドについて話し合いお互いの隠れた一面を知ったり、この350人の小さな大学にもこんなに多様性があるんだということを確認しあったりした。
冬学期にも別のCultural Weekでタレントショーやギャラリーを企画し、のべ130人が色んな形で参加し楽しんでくれた。COAには、日本の学園祭のような、恒例行事がない。今までなかったものを1から作ったということを誇りに思うし、とてもワクワクした時間だった。
もちろん本当の意味でインクルーシブ(=一人ひとりに配慮した)なコミュニティを作るための道のりは長い。けれどCultural Weekは、小さくとも確実な一歩だったと思う。そして僕の中のソーシャル・アントレプレナーシップの定義も少し変わった。「情熱を持ってチームで行動すれば、社会に変化を起こせると信じること。」
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10年前、僕はアメリカの大学に留学するなんて思いもしなかった。
5年前、大学の途中で1年間休学し、アジアを4か月旅するなんて考えもしなかった。
3年前、COAのような変わった大学は僕の選択肢に無かった。
1年前、今やっている卒業制作や、Cultural Weekへのアイデアは僕の頭の中に無かった。
でも、とても不思議だけれど、全部起こるべくして起こったようにも思う。勝手に目の前に現れた、とでもいうような。僕は分かりやすい直線の道を歩んできたわけでも、90度の急ターンをしたわけでもない。自分の心の声に従って、少しづつ角度を変えて進んできた。振り返ってみると点と点がつながって見えるけれど、いつも二歩先も見えない状態で、少し怖がりながら進み続けていたようにも思う。でも今は、自分も未来も常に変わり続けているのだと思えるし、不確定要素も変化への可能性だと捉えられるようになった。「運命的な出会いを経て自分の情熱を見つけ、生涯をその一つのことにかける」なんて考えなくていいのだと、日々の中で目の前に出てくるもの、変化するものと一緒に生きていけばいいのだと思うようになった。
そして、少しづつ変わっていく自分のように、社会も変わって行けるのだと信じられるようになった。もちろん世界は美しいもので溢れているわけではないし、愛と希望が全てを解決してくれるとも思わない。世界は理不尽で、残酷で、不平等だ。でもシニカルになっても、絶望しても、それを変えることはできない。皮肉や悲観的な言葉を聞いても人の心は動かない。気候正義の授業で読んだ、The Memory We Could Beという本で、筆者(Daniel Macmillen Voskoboynik)はこう言っている。「希望とは、頑なに楽観的な態度を取ろうとすることではない。希望とは、変化を起こせると信じ、実現するという、強い決意である。」
頭のいい人がどれだけ鋭い分析をしようと、それでワクワクすることはない。僕の心が躍るのは、人の決意と行動に出会った時、そして自分自身が信念を持って行動している時だ。アショカ・ジャパンでのインターンで、僕でもチェンジメーカーになれると思うようになった。そしてCOAでの2年間で、みんなで行動すれば社会は変えられると信じられるようになった。僕が夢見ているのは、一人ひとりがこの信念を持って、何か一つでも社会問題に対して行動している世界だ。優しさが頭の中だけではなく、行動として溢れている社会。それに少しでも近づけるよう、仲間を探して一緒に行動していこうと思う。
(I would like to see a world where everyone shares this attitude and takes action against the problems they care about—the world where the idea of empathy is translated into action.)
2020年3月
芦田陽一朗
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