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使える「おまじない」

 苦手なことが多く、若干神経質と自覚している井上は、同僚の紹介で会った占い師に、様々な場面で使えるおまじないを教えましょう、と言われ、そのまま話を聞くことにした。
「昔から『人』という字を3回手に書いて飲むと緊張しないって言われますよね?」
 井上が頷くと、占い師はもっともらしく言った。
「これから、私があなたに魔法をかけます。一種の暗示です」
 そう言うと、両手で何か念を送るような仕草をして、最後に「ハッ」と大声を出した。
「あなたは、これから克服したい何かがある時、手のひらにその内容を漢字1文字で3回書いて、飲み込んでください。例えば欲しいものを買うのを我慢したければ、『欲』と3回書いて、飲み込むのです」
 井上が頷くと、占い師は言った。
「漢字の解釈は若干、意味の幅があるので、思ったのと違う効果が出る場合もありますが、概ね期待通りの効果が得られます」
 占い師は、今日のおまじないのお代は不要です、効果があると思ったらまたお越しください、と言った。

 今まであまり占いやまじないなど信じてなかった井上だが、今回は実効性があるとなぜか信じる気になり、日々の生活で試すことにした。ある日、残業が長くなり、夜9時を過ぎても終わらず、空腹が気になった。外に買いに行く時間があれば仕事を終えてしまいたい。手のひらに「空」と3回書いて飲み込む。なぜか、空腹が気にならなくなった。これは使える、そう実感した。
 別のある日、猛暑の中、外出先で歩いて営業していると、さすがに気分が悪くなってきた。ここぞ、と「暑」を3回書いて飲み込んだ。不思議と、その後は暑さを感じにくくなったのだ。

 ほどなくして、占い師を紹介してくれた同僚から、女性との飲み会に誘われた。先方が婚活中だけど、結構イケてるから、お前、来てみないか、との誘いだった。正直、女性はイマイチ苦手で、あまりお付き合いしたいという気持ちがなかったが、世話になっている同僚だし、こちらに何かの義務が生じるわけでもないし、などと思い、金曜の夜に仕事を早く終えて約束の店に向かった。

「え〜、結構イケメンさんなんだ〜」
 初対面の井上に対して、紹介された女性はそんなことを言った。
「井上さんって、なんかモテそうですけど、本当に彼女いないんですか?」
 そうです、と応えると、さらに笑顔になって、語りかけてきた。
「なんか、営業さんてもっと軽い感じをイメージしてたけど、信頼できそうな真面目そうな感じがすごくいいです」
 自分の職種、法人営業をどんな目で見ていたのか、ちょっと不本意ではあったが、それでも顔立ちの良い彼女にそんな風に言われて悪い気はしない。紹介した同僚は途中、どこからか電話が来て、そのまま大事な用ができた、とかで退席し、結局井上と彼女の2人だけが残された。
「ねぇ、別の店、行きません?」
 彼女は自分の知っている店です、と言うと、2件目に歩を進めた。

 静かなカウンターのある店で、奥のテーブル席に向かい合って座ると、井上は急に緊張してきた。何のトラウマか、女性が苦手だという意識が芽生えてきた。思い出して、手のひらに「女」を3回書いて飲み込む。すると、それを見た彼女が聞いてきた。
「何やってるの?」
「いや… おまじないみたいなもの」
「それ、知ってるよ」
 ニコッと笑うと、彼女が悪戯っぽい目で聞いてきた。
「何書いたか教えて」
 井上が口ごもっていると、彼女が井上の右手を引き寄せ、自身の細い指で、漢字を書いていた。
「これ、飲んじゃんって」
 と言うと、井上の右手を口元に寄せて「ごっくんして」とかわいらしく言った。
「ついでにこれも!」
 テーブルにある濃いカクテルを井上の手に渡して、そのまま飲むように促した。既に酒がだいぶ入っていた井上は、まじないの効果か、酒の効果か、女性に対しての苦手意識が消えてきていた。
「ねぇ、連絡先交換したし、私達、もっと仲良くなれるよね?」
 そう訊いてくる彼女に、そうかもね、と無難な回答をすると、彼女はあれ?と首をかしげる仕草で、また井上の手を取ると、漢字を3回書いた。
「はい」
 そうして、また井上に飲ませると、小声で言った。
「私、今日終電逃してもいいかな」
 井上は、妙なゾクゾク感を感じて、彼女の手を取り直し、自分でも信じられない言葉を出していた。
「じゃぁ、この後、どこかで休憩する?」
 彼女は笑顔で頷いた。

 数日後、井上の同僚とスマホでメッセージを交換していた彼女は、感謝のマークと一緒にこんなことを書いていた。
「暗示にかかりやすそう、って言うから、例の占い師さん紹介して、大正解!」
 よほど嬉しいのか、報告が止まらない。
「井上さん、私の暗示にもかかっちゃったよ」
「あれね、気付かないフリしてたけど、何書いたか知ってたと思う」
「1回目が『遊』、2回目が『迷』だったんだ。私、考えたでしょ?」

*この物語はフィクションです。