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その窓ガラス

 兵藤は、子供の頃から病弱だった。しかし今年に入り、さらに体調が悪い日が続いたので、病院へ通うも原因がわからないと言われ、そうこうすると住んでいるアパートが区画整理で立ち退きとなり、たまたま病院を出てすぐにチラシをもらったアパートが破格の家賃だったこともあり、引っ越すことにした。

 新しい住居は、家賃の割に快適で、広さも清潔さも十分だった。1つしかない窓からは、道路や周囲の家、集合住宅が見えた。コンビニや店舗は少し遠かったが、元より病弱でネット宅配に依存する生活なので、あまり困ることもなかった。現代では通販はもちろん、温かい食事も配達するサービスが充実し、具合が悪い中、あえて外を歩く必要はないのだ。

 兵藤は普段部屋に引きこもり、ネット動画や電子書籍を楽しんでいた。窓は気温の変動を嫌うためほぼ締め切りで、時々ガラス越しに外の景色や天気を眺めては、行き交う人々、周囲の住宅に灯りが点いたり消えたりする様子、空に上る月をぼんやり見ていた。

 そのアパートに引っ越してから1月ほど経過した。ある夕方、季節柄もちょうど良く、部屋との温度差も少ないだろう、たまには窓を開けようか、と兵藤は窓のカギに手をかけ、そのサッシをスライドさせた。外の空気が流れ込み、いつも見ていた道路や周囲の住宅が、少し違ったサイズで眼の前に現れる。
「ん?」
 なにか違和感があった。一旦窓を閉じる。そしてまた開ける。
「え?」
 やはりおかしい。窓を閉めると、隣の家の灯りは点灯し、路上には駐車している車がいた。しかし、窓を開けたそこは、どの家も照明が消え、路上には車も人もいなかったのだ。

「例の患者、その後どうだ?」
 未知の疫病を研究する施設で、主任が若手研究員に聞いた。
「幸い、気づかれずに生活しているようです。あ! 今1ヶ月ぶりに窓が開きました」
「気づかれたかな」
 主任は、「表示中」と書かれたディスプレイの動画を見て言った。
「今は周囲の住宅に灯りが点いている設定だからな。バレたか」
「ですかね…」
 若手研究員は、仕方ない、という顔になって言った。
「自分が周囲から隔離されていると知ったら精神的に落ち込んでしまうだろうという配慮で、特別地区に居住しながらも気づかれないようディスプレイが窓に埋め込まれたアパートを準備していましたが、まさかここまで気づかれないとは思ってなかったので」
「だよな。すぐに言い出せずにいたら、こんなに長い時間が経つとは」
 主任は渋面を作ってつぶやいた。
「配達員がみんなマスクをしていても、このご時世、あまり違和感がなかったんだろうな」

 兵藤は、一体何が起きているのかわからぬまま、窓ガラスの外側から部屋の中を覗いた。本来ガラスがそうあるべき透明ではなく、何も見えないことを知ると、自分が長い間、架空の外の景色を見ていたと、やっと気づくことができたのだった。

*この物語はフィクションです。