準普通人間

 自分のことを、特別だと思ったことはない。かと言って、普通であるとは思えない。じゃあ一体なんなのかと考えたとき、準普通という言葉を思いついた。
準という言葉には「なぞらえる。そのものではないが、その次ぐらいにおく(Oxford Languagesの定義)」という意味があるらしい。へえ。
そう考えると、準普通という言葉は結構いい表現かもしれないな、と思った。
普通ではないけれど、普通をなぞらえて。
 私は普通ではない、と思う。というかまあ、こうなると普通とは何かというめちゃくちゃややこしい話になってしまうけれど、それは置いておいて。普通を仮に、生きていくのに差し支えない、と定義すれば、普通ではないというのは明確だった。
 いつからとかはっきりしたことはわからないけれど、割と昔、幼い頃、かなり前から、生きづらさというものを感じていたと思う。それが性格によるものなのか、はたまた障害とよばれるものによるものなのか、それとも環境によるものなのかはいまだにはっきりとはわからない。ただ、漠然と、生きづらいなと思っていた。
 生きづらいと一言で言っても、それは人によって変わってくるものだ。私にとって生きづらいとは、生きることがどこか窮屈であると感じる、とでも言うべきか。とりあえず言えることは、現代人間社会に生きるには適さないという感じ。かと言って原始時代とかなら生きやすいのかとかは、知らんけどって感じだけどね、ほんと。まあ結局生きるのに向いてないってことだろうなと思う。そもそも生きるのに向いてるとかあるのかな。まあいいか。そんな感じ。
 趣味とか仕事なら、向いてないなら別のことしてみたら?とか言えるだろうけれど、生きるのに向いてないとなるとそうはいかない。生きるの向いてないなら死ねば?とはならないので。さあどうしたものかな。
 自分でも、この生きづらさの正体は何なのか、気になって考えたり調べたりした。発達障害なのか?という疑惑もあったので、知能検査を受けたこともある。いつも通っているクリニックの先生に相談して、そこのカウンセリングの先生に受けさせてもらった。パズルみたいなものから、言葉遊びみたいなもの、計算やクイズみたいなものを結構たくさんした。思ってたよりめんどくさかった。結果としては、知能的には特に発達障害という感じはないけれど要素の一部がちょっと低くて、アンバランスになっている、と言われた。そのちょっと低い要素を、一般的な基準より少し高いほかの全ての要素で補っているから生きづらさを感じることもあるのではないか、というのが先生の見解だった。まあ、ちょっと実感するところもあり、これは結構当たってるのでは?という感じだった。しかし、いっそのことあなたは発達障害です、とはっきり言われた方が楽だったのになあとも思った。結局、はっきりしたことはわからないままだ。
 時々、人生の意義って何なんだろうとか考える。それを見つけるのが人生だ、とか言うのは嫌なので、私の人生の意義は、生きづらさの原因を突き止めること、とでもしておこう。
 だから、今は生きづらくても、頑張って生きよう。この先にきっと、私の人生の意義があるはずだから。

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