景色のコトダマ Vol.2 生命力のひかり
【病室から校庭が見えた】
2016年5月に、腎臓がんの手術のために済生会中央病院に入院しました。手術は5月10日。初夏に向かう季節のときに、私は白い壁と薄いベージュのカーテンに囲まれた世界から出られなくなったのです。連休明けの混雑する時期で、個室はいっぱい。6人部屋になりましたが、幸いなことに窓辺のベッドを確保してもらいました。目の前に広がるのは都立三田高校のグランドです。少し寝返りを打てるようになると、私は飽きることなくこの景色を眺めるるようになったのです。
生徒が体育の授業をやっています。はじまるまで、ふざけています。はじまってからも、全体的にダラダラしていて、走るときはチンタラ走ります。整列もピシッとしていず、見ている私の方がイライラしてきます。それでも全く飽きずに見られるのは、なんとも言えない「エネルギー」を感じたから。見た目にはダラダラしていますが、それでも若い体に溢れた「生命力」はイキイキしている。体操服が白いだけでなく、彼ら一人ひとりが光の粒のように発光している。その光を浴びていると、私の細胞が喜んでいるような気がしたのです。あなたは、動ける。私もやがて、動けるようになる。そんな気持ちをガラス越しの景色にぶつけていました。
【命は、命に育てられる】
この景色が見えたのは、一回限りでした。天候の加減やこちらの気分もあるのでしょう。退院の日に、バッグに荷物を詰めるとき、窓辺から外を見る。いつもと変わらず、体育の授業が見えました。しかし、光はおろか、彼らがチンタラ、ダラダラしているかさえも見えません。ただの授業がです。3分眺めてたら飽きてしまう景色でした。
考えるに、6本のパイプを体に刺して見ているときは、目ではなく、私の細胞たちが、「ああいう生命力を取り戻したい!」と渇望しながら眺めていたのではないでしょうか。体育の授業ではなく、持て余すほどのエネルギーを見ていた。それに憧れ、身体中が「ああいう命に戻ろう」と動いていたそんな風に思えるのです。お母さんを見て子どもが育つように、命は、命に育てられるのです。
【太陽の下で育まれる生命力】
今はコロナ・ウィルスの影響で自粛が続いています。体に悪いところはありませんが、入院時のような謹慎生活を余儀なくされています。多分、都立三田高校の校庭にも生徒の姿はないでしょう。今、入院してもがらんとした校庭が広がるばかりです。
この事態が続くことを懸念します。子どもたちは、太陽の下で生命力を育んでいる。三田高の生徒が白い発光体に見えた私は、その確信があります。子どもにとっての「ひと月」は、大人の「一年」に匹敵するほど吸収力が高いといいます。その時期の大切さを、大人の目線だけで区切ってしまうのは罪なことです。
あの持て余すほどのエネルギーが、再び太陽に晒されて、真白く光日がくるように。5月6日の緊急事態宣言あけには。この運動場に生徒が戻ってくることを願ってやみません。
ちょうどその頃、私は手術から丸4年を迎えます。救ってもらった命が最後まで使い切れるように、私もまた太陽の下を歩ける日を心待ちにしています。