【超短編小説 #24】タイヤの擦れた三輪車
拓哉は新聞記事に目を止めた。
似たような名前を思い出している。
「まさや」だったか、「まさと」だったか…。
思い出せないもどかしさと同時に、妙に変なドキドキ感と緊張が入り混じった複雑な思いが胸いっぱいに押し寄せてくる。
海岸沿いに打ち寄せる、決して大きくない静かな波が定期的にしぶきをあげて迫ってくる感じだ。楽しいのか怖いのか、どちらかが勝負しながら迫ってくる、あの微妙な感じだ。
*
子どもの頃の記憶というのは、どこか鮮明に覚えていて、またあるところは全く思い出せないくらい忘れてしまっているもの。
自分の意志とは無関係に覚えていることと、そうでないことが共存していることは不思議ではある。
きっと心に残るほどの信号が視覚と聴覚によって強制的に送りこまれた結果かもしれない。
やんちゃな男の子だから三輪車で競争するなんてことは当たり前。
車の周辺をぐるぐると猛スピードで走り抜け、時には転倒して掠り傷を追うこともしばしば。
背丈が伸びて三輪車よりもはるかに大きな体になっても子ども心をくすぐることは変わらない。
仕様に耐えうる範囲を超えて、思いっきり急カーブしては車体を立て直し、ペダルから足を踏み外しても勢いよく三輪車をこぐエネルギーは子どもの特権でもある。
タイヤの外側はツルツルになるほど削れ、サドルもボロボロになっている。
*
あるとき、拓哉の親戚がちょこちょこ家に泊まるようになった。
2つ下の“男の子”はまるで弟が出来たかのように、カブトムシを取りに行ったり、隠れんぼしたりして遊んだ。
喧嘩することもなく、あの三輪車競争でさえも一緒に楽しんだ。
ある日、一台の車に知らないおばさんが乗ってやってきた。
拓哉は車が来ているのは知っていたが、いつものように積み木を組み立ててロボットを作って遊んでいた。
外から話し声が聞こえてくる。
耳を澄ますと喧嘩しているような感じの声で、男の子の泣き声も聞こえてくる。
「早く乗りなさい。」
おばさんはそう言うと、男の子の手をぎゅっと握り、車の中へ引き込んだ。
男の子のお父さんは車に一緒に乗り込む。男の子のお母さんと男の子の妹はただ泣きながら様子を見ていた。
拓哉は何が起きているか分からなかった。
車のドアが閉まったときに、拓哉の両親が車の中に男の子に向かって大きな声をかけた。
「これを持っていきなさい。」
そう言いながら、あの三輪車を車の中の男の子へ渡したのだ。
拓哉は自分の三輪車がなぜ男の子に渡されたのか不思議ではあった。
車は少し先にある脇道でUターンをするとスピードも落とさずに走り去ってしまった。
*
拓哉はしばらくしてから先ほど見た光景が離婚のために親戚の男の子と女の子が別々に引き取られたことを聞かされた。
ただ事情も理解できないまま、目の前で悲しい出来事が起こったことだけが脳裏に刻まれたのだった。
三輪車を失った悲しみよりも男の子と遊ぶことが出来ないということの寂しさの方が大きかった。
三輪車を見るとあの時のあの光景が蘇る。少し成長すると違った感情も湧いてくる。
「あの男の子はどうしているだろうか?」
隣の街に住んでいることだけは分かっている。
中学生になって自転車での活動範囲も広がると、隣町まで自転車で行けば、いつかどこかで会えるのではないかと考えることもある。
*
あれから何十年も経った。
拓哉は隣町まで家族と車で出かけた。
リサイクルショップの前を通る際、ガラス超しに三輪車が展示されていることに気づいた。
もちろんあれから何十年も経っているので、拓哉が小さい頃に遊んでいた三輪車ではないことは自明だ。
それでも車を駐車場に止め、店内へ入り、三輪車を眺めてみる。
タイヤの外側は擦り切れている。なんだかあの当時を思い起こす懐かしい感じだ。
「この持ち主も相当遊んだんだろうな。」
拓哉はそう思うと、三輪車のペダルに手を触れた。
不思議な感覚で、当時の記憶が蘇ってくる。
あの“男の子”と競争している様子だ。抜き去ったのにまた追い抜かれ、追いかけるようにスピードを上げて後ろから迫る。
三輪車の前で時がしばらく止まっていた。
「ご購入ですか?」
店員さんの声でハッとする。
「あ、いえ。」
拓哉はそういうと店員さんに涙を見られぬようにしてお店の外へ飛び出した。
車の中には妻子が乗っている。
いたずらに自販機でコーヒーを買って立ち飲みをする。
店内の三輪車をもう一度眺めた。
拓哉の目に止まったあの新聞記事。
自転車の二人乗りした中学生で車と接触する交通事故で1名が亡くなったと書かれていた。
そこには拓哉と遊んでいた“男の子”の名前が書かれていた。
大人の事情で起こったあの出来事さえも脳裏には色褪せた写真として残っている。
三輪車を見ると、もう一度遊びたくなる。あの当時の登場人物であの頃のように…。