サマーソニックでKendrick Lamerを観て、落胆した
「きれいごと」で塗り固められた、日本のエンターテインメント業界。そんな現状に落胆する気持ちが、ケンドリックのライブを観て、強まった。
この後に続く長文が、いろんな人に届くといいなと思ったので、あえて尖った冒頭にしてみた。
「カッケー」「やべー」「エグい」みたいな感想ではなく、なんで「カッケー」と感じるのかを、できるだけわかりやすく情報を整理して書き記したので、読んでもらえたらうれしい。
世界最高峰のラッパーといわれるケンドリック・ラマー。人として、そしてアフリカ系アメリカ人として、生きるなかで直面する困難や抱える問題を歌い、多くの人の共感を生み、支持されている。リリース作品は、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアなどのチャートでは1位や2位を獲得。さらに、優れたジャーナリズムを讃えるピューリッツァー賞の受賞や、大学のカリキュラムとして使用されるなど、幅広い功績を残す。
ケンドリックは、リスナーにずっと本音で「現実」を突きつけている。
例えば、自身が生まれ育った、強盗・殺人・麻薬取引などが多く、アメリカで最も危険な都市のひとつとされる場所での悲惨な日常のこと。その地で、酒・暴力・ドラッグ・犯罪などの同調圧力を避けて生きるむずかしさ。社会や警察の、アフリカ系アメリカ人に対する扱いへの怒りや、その代弁者としてあがめられるプレッシャーなど。さらに、自身が音楽で成功する一方で、妹が10代で妊娠、地元の友人が殺害されるなど、身近な人を守れていないことへの罪悪感も歌われている。
また、あるテレビでコメンテーターが、「ケンドリックのメッセージは悪影響だ」という否定的なコメントを発したことがあった。そのコメントの音声を、ケンドリックはアルバムで使用している。コメントが流れたあとに、『DNA.』という曲につながる構成だ。この演出は、先日のライブでもそのまま使われていた(コメントの音声が流れた)。この大胆さは、日本の大衆向けのエンターテインメントでは、受け入れられないと思う。
「現実」と向き合った、覚悟のある表現にはパワーがある。ヒップホップというアートフォームを通した、その表現に格好良さを感じ、ぼくは魅了されている。日本に生きる日本人で、英語のわからないぼくが、アフリカ系アメリカ人であるケンドリックのメッセージを完全に理解することは不可能ではあるが。
一方で日本のエンターテインメントは、「楽しさ」や「素敵さ」などの、ある種の「ファンタジー」要素が求められているように感じる。その良さはあると思うので否定はしないが、あまりにも偏っている。生きる大変さや社会の抱える問題に目を背けて、現実逃避するだけでは、なんの解決にもならない。
この「きれいごと」で塗り固められたものが蔓延している状況を、ぼくは気持ち悪く感じてしまうのだ。
日本のヒップホップにも、メッセージ性のある格好良い作品はたくさんある。そういったものが、脚光を浴びるようになる日は、果たして来るのだろうか。期待はできないが、希望は捨てずに、これからの発展を願いたい。
ケンドリックのライブで感じた熱が冷めないうちに、勢いで想いをつづってみた。最後まで読んでくれた方へ感謝したい。普段、ヒップホップにふれていなくてもわかるような表現を心がけたので、なにかが伝わっているとうれしい。
(2023年8月24日にTwitterへ投稿した文章を、少し修正して掲載)