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セネガルでの学校・幼稚園に見る多様性

6月は、アフリカ・セネガルのカレンダーだと学年末にあたり、子どもたちが通う小学校や幼稚園では1年のサイクルが終わる。6月終盤には、毎年恒例のそれぞれの学年での歌や踊りの発表会があった。

ふだんは送り迎えをするだけで、そこから見える景色しか知らない。でも、発表会のような機会では、子どもが教室内でどんなふうに過ごしているのかが垣間見えたりもする。

うちの子どもは、6歳と4歳。6歳の子どもは人生の3分の1、4歳の子は人生の半分以上をセネガルで過ごしてきた。セネガルで暮らして3年近くなり、いろんなことにすっかり慣れてしまっているけど、発表会で子どもらが一緒に歌い踊る子どもたちをみると、そこに広がる多様性に改めて驚かされる。

子どもらが通う学校と幼稚園は、セネガル人の子どももいれば、海外からきた駐在家族の子ども多い。全体としてはアフリカ系が多いけど、欧州はじめ、いろんな国籍の子どもが混在していて、とにかく多様だ。

年齢と教室の中での言語がフランス語なこと、親の経済レベルなどの共通性はあれど、それ以外のことはまるで違う。見た目も体格も文化も価値観も母語も多様で、それぞれのクラスは、まさに多様性が具現化された世界だ。

親としては、とにかくこの多様な環境がいいなと思う。子どもの話を聞く限りだけど、お互いに理解できないことがあっても、それはそういうものとして受け止められているらしい。そこに否定も拒絶もなく、「多様であること」に疑いすらもない。多少どころじゃない違いも「そういうもの」として受け止められている。

だからか、他の親などに聞いても、セネガルの学校では特定の子どもが孤立することは少ないという。いじめも全くなくはないのだろうけど、僕が聞く限り、ほとんどない。それはそもそもクラスが閉鎖的でないこともあるし、何より多様性がデフォルトだから、日本でよくあるような「なにかしらの違うこと」がいじめの原因にならないことも大きいのだと思う。

日本だと、多くの人が多様性の大事さを頭では理解しようとしても、現実社会では身体がついていかずに難しさを覚え、結果としていろんな問題が生まれてしまっていたりもする。

でも最近思うのは、多様性はすでにあるもの、あったはずのものということで、本来はどんな社会も多様なはずだ。多様性という言葉がここ10年くらいで浸透し、それは何か新しい概念のように捉えられているけど、もともと日本にも多様性は十分あった。

それがわかりづらかったり見えづらかったりした、というか、わかろうとせずに見えないようにしてきた社会だったという話であり、本来、多様性は「気づくもの」なのだと思う。

同時に、子どもたちをみていて思うのは、多様性が尊重される社会の前提には、寛容性や柔軟性があるということだ。子どもたちが多様な教室で身をもって養われているのは、まさにこの寛容さや柔軟さじゃないかなと思う。それは当たり前だけど、違いを「認める」という上から目線のものではない。

「こうあったほうがいい」というのではなく、「どうあってもいい」ということ。それはたぶん、それぞれの人がありのままでいい、ということでもある。

そうした、子どもを通じて気づけたり考えたりすることはとても多く、それも子育ての楽しさだと感じたりしている。

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