日本は1年に1ヶ月暮らすくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
アフリカ・セネガルに暮らして3年近く。それまでの30年以上、日本でしか暮らしたことなくて、海外に住みたいという願望もなかった。でも、妻の仕事の都合でいきなりセネガルに住むことになった。
それから3年近くが経ち、3年前からすると、まったくもって想像しなかった展開になっている。
もともと妻の仕事の都合というは、2年の期間限定のはずだった。自分のキャリアや子どもの教育のこともあるし、何より日本しか知らなかった自分は、海外生活もてっきり2年限定のものだと思っていた。
それがセネガルに住んで1ヶ月で、セネガル生活の心地よさを気に入ってしまい、3ヶ月経った頃には「できるだけ長くセネガルで暮らせたら…」と思うようになってしまっていた。
運よく妻の仕事の任期も延長したこともあり、合計4年はセネガルで暮らすことになった。
そして、日本へはこれまでに3回ほど一時帰国している。海外に住みながら大体1年に1ヶ月くらい日本に帰国するという生活を3年近くしてみて、いままさにタイトルのような気持ちになっている。
それはもちろんセネガルが心地よいからであり、同時に、日本が“よすぎる”からでもある。
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日本はセネガルと比べるまでもなく、衣・食・住どれをとっても整っていて豊かで、セネガルであるあるな想定外なトラブルもそうそう起こらない。
とくに食の豊かさは凄まじいレベルだと思う。食事の種類や選択肢が多い上に、一つひとつが美味しい。セネガルで暮らす日本人が日本に一時帰国すると、大体の人がふっくらしてセネガルに戻ってくる。
日本の食がそこまで豊かであることは外で暮らすまでわからなかったし、セネガルに住んで気づいたのは、日本のあらゆるものが“よすぎる”ということだった。
日本は1年に1ヶ月暮らすくらいが、ちょうどいいのかもしれない、と思うのは、何よりそうした「ありがたみ」を存分に感じながら、思いっきり堪能するためには、1ヶ月くらいがちょうどいい、と思うからだ。
そんなによすぎるなら、常時日本で暮らしたほうがいいのではないかとも思うけど、セネガルでの生活を知ってしまった以上は、そうも思わなくなってしまった。
セネガルは、衣・食・住どれをとっても整ってはないし、豊かでもない。かといって苦になることが多いわけでもなく、それなりの生活ができている。この「それなりに」というのが、心地よさにもつながっているのかもしれない。
日本での生活は満ち足りているけど、いろんな不足や不便がありながら、でもそれなりにやっていける生活も悪くない。「足るを知る」な生活だ。
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それと、もうひとつある。
先々月、日本に一時帰国をしているときに電車に乗っていたら、こんなアナウンスが流れてきた。
この電車は1分遅れての到着になりました、お客様には貴重なお時間、申し訳ございません。
セネガルで暮らす前の自分なら、何の違和感も持たないアナウンスだった。だけど、これを聞いてしばらく、いろんなことを考えてしまった。
このアナウンスが象徴する徹底具合、ダイヤルが整いすぎているがゆえの弊害、たとえばそれが乱れたときに多くの人がストレスを感じることがデフォルト化されている社会、また乱した当事者がいるとすればその人(あるいはその周囲の人)が感じること、思うこと・・・。
なんというか、しばらくなんとも言えない気持ちになってしまった。
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自分の生活の多くは、仕事や家事、そして子育てで占められている。なかでも最も重視するのは子育てだ。
海外に住んでいると、「日本は子育てがしづらい」と聞くことが多い。セネガル以外の国に住む人からも、そんなようなことはよく聞く。
僕自身は「子育てがしづらい」とか、そこまでは思わないけど、親としてどんな社会で子育てしたいのか、また子どもの視点からもどんな社会・環境で育つのがいいかを考えると、やっぱり日本よりもセネガルかなと思う。
整いすぎていて「こうあるべき」というのが強い社会よりも、整っていなくて「どうあってもいい」というゆるさが許容される社会。子どものことを考えても、後者の社会のほうが生きやすいんじゃないかなと思う。
僕が知る限りだけど、意外と同じように感じている人は多かった。
そんなこともあって、いまのところは、日本は1年に1ヶ月暮らすくらいが、ちょうどいいのかもしれない、と思っている。ただそんな生活を今後も続けられるかどうか、すべては妻の仕事やキャリア次第なのだけど。。