「問題」が「社会問題」になるために
「社会問題」と言われる多くの物事は、社会化されるまでは「誰かにとっての問題」でしかなかった。
「誰かにとっての問題」は、多くの人にとっては他人事でしかない。他人事である以上、多くの人の関心がその問題に向かないのは仕方のないことでもある。
とはいえ、そもそも世の中の物事の多くは他人事であり、誰もが他人事に無関心のままであれば、問題の当事者である「誰か」は一生苦しいままだ。
「誰かにとっての問題」は、往々にして当事者ではどうにもできず、解決するためには他人事である人たちの力が必要になる。
それは、他人事である当事者ではない人たちだからこそ、変えられる現実があることも意味する。
実際に、「誰かにとっての問題」の解決に携わる、たとえば社会問題解決型のNPOで働いている人たちやそれに対して寄付をしている人たちは、その問題の当事者性が高いわけではない。
その人たちにとっては、「誰かにとっての問題」であると同時に、「社会として解決すべき問題」であるという認識から、直接的・間接的に問題が解決するようさまざまな形で支援をしている。
そうして「社会として解決すべき問題」として社会的に認識され、当事者以外の人たちの力も得られるようになるために必要なのは、まず「誰かにとっての問題」が「社会としての問題」に変換されることだ。
「問題」は「社会問題」になることによって、認知・関心が高まり、関わる人が増え、その結果、解決にかかるスピードは加速しやすくなる。
では、どうすれば「問題」は「社会問題」になるのか。そこにメディアが介在する価値がある。
メディアが取り上げることによって、「問題」が社会に可視化され、「社会問題」として認識されやすくなる。
ここでいうメディアには、個人も含まれる。個人の「小さな声」がSNSなどで発信され、あわよくば拡散され、そこで既存のメディアが拡声器のような役割を果たせば、「大きな声」になって社会に届く。
自分は一メディアのプレイヤーとして、「問題」を「社会問題」に変換していくような情報を発信していきたい。
同時に、すでに認知されている「社会問題」を、より多くの人に「どう伝えるか」「どう理解してもらうか」ということにも取り組んでいく。
よく言われているように、人は情報に触れるとき、それによって認識や態度を変容するよりも、もともとの認識や態度を強化する傾向がある。
だから、人の認識や態度を変えることはとても難しい。そもそも「変える」という発想自体も、傲慢なのかもしれない。
とはいえ、たとえば「生活保護受給」という言葉に対して、すぐに「不正受給」といった言葉が連想されるような認識を有している社会は、健全とは言えない(個人的な実感として、いまの日本はそういう社会だと思う)。
「不正受給」は生活保護受給における問題の一つではあるとしても、第一に想起されるべきものではない。「不正受給」は金額で言えば生活保護費全体のおよそ0.5%と言われ、しかもその大半は故意ではない。
一方で、生活保護基準以下で生活をしている世帯のうち、実際に生活保護を受給している割合を表す「捕捉率」は10〜30%。それは、本来生活保護を受給すべきはずの70〜90%が生活保護基準以下で生活していることを意味する。
「不正受給」が想起されやすく、生活保護制度を利用しにくい社会であることが、「捕捉率」が一向に改善されずにスティグマを生む要因にもなっている。
ただ「不正受給」を想起してしまう人が多いのは、悪意にもとづくものではなく、「捕捉率」よりも「不正受給」に関する情報量が多いがゆえのものでもあると思う。
ここ数年、主にメディアの報道で生活保護受給を取り巻く世間的な認識が「変わってしまった」からこそ、それをまたメディアによって「変える」ことが、必要なことだと思っている。
生活保護基準以下で生活をしている人たちがいるという「貧困問題」は、「誰かにとっての問題」でありつつ、「社会として解決されるべき問題」でなければならない。
そうした合意形成を改めてつくるために、メディアが担うべき役割・責務は大きい。
「問題」が「社会問題」になるために、「社会問題」がきちんと「社会にとって解決すべき問題」だと認識されるために、まずは社会に蔓延る「無関心」を打破していきたい。
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