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【サイケデリック学探究記】11698-11703:2023年12月26日(火)

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タイトル一覧

11698. 久しぶりの映画館での映画鑑賞に向けて/シロシビン・マッシュルームの収穫を終えて

11699. 今朝方の夢

11700. 仏教・神道の言語哲学とサイケデリック現象学の架橋に向けて

11701. 空海の言語哲学/海の音楽の心地良さ

11702. 宮崎駿監督の“The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”を鑑賞しに映画館を訪れて

11703. “The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”と自身のサイケデリック 体験を振り返って

11698. 久しぶりの映画館での映画鑑賞に向けて/

シロシビン・マッシュルームの収穫を終えて   

時刻は午前4時半を迎えようとしている。ここ最近は風の強い日が多く、昨日も夜に結構な風が吹いていた。そして夜明け前の今もまた風が強い。しかし今日は幸いにも夕方に映画館に行く際には風が弱まり、天気は1日を通して良いそうだ。今日は、宮崎駿監督の“The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”を映画館に見に行く。この作品については、以前ゼミの受講生の方が話をしていて、大変興味深いと思ったので、今日の鑑賞が楽しみである。自らの世界観やこれまでのサイケデリック体験と紐付けて作品を味わってきたい。最後に映画館に行ったのは、2022年に日本に一時帰国していた時なのでもう随分とご無沙汰である。今日は映画館の独特で楽しげな雰囲気を味わうこともできるだろう。映画という非日常感を味わせてくれるものが上映される映画館という場所は、自分にとって非日常感を感じさせてくれる素晴らしい場所なのだ。

今朝は午前3時半頃に起床し、2階の書斎に上がってきてから、まずはキッチンでシロシビン・マッシュルームの収穫を行った。昨日の段階ですでに今日収穫をしようと予定しており、無事に収穫を終え、11.3gほどの収穫になった。今、オーブンに入れ、これから長い時間をかけて完全乾燥をさせていく。今日収穫されたものは次々回のセッションで摂取しようと思っていた分量に加えたいと思う。今日収穫されたものを完全乾燥させれば、重さはおよそ1/10になるであろうから、1.3g完全乾燥のマッシュルームとなり、4.0gの分量にそれを加えれば、英雄の服用量を満たす形となる。今日の収穫を3周目の栽培の最後の収穫とし、再び4周目の栽培に向けてこれまでと全く同じ手順で準備をした。説明書には2~3回の収穫が可能とのことであり、無事に説明書に記載の目安の3回の収穫は実現できた。うまくいけば最大5回ぐらい収穫が可能らしいので、あとはこれから行う4周目の栽培でまた収穫できるかを試してみようと思う。第3回の栽培でもしっかりとした収穫量を確保することができたのはとても嬉しいことであり、まだ収穫量がそれほど落ちていないように思えるので、4周目の栽培にも期待したい。仮に収穫量が少なかった場合には、それはマイクロドーシングとして活用することも検討する。フローニンゲン:2023/12/26(火)04:37

11699. 今朝方の夢     

今、時刻は午前5時を迎えた。まだ今朝方の夢について振り返っていなかったように思うので、夜明け前の闇の深い世界を眺めながら、今朝方の夢について振り返っておきたい。今朝方は次のような2つほど夢を見ていた。

夢の中で私は、以前ゼミに参加していたある女性の受講生の方と海辺で話をしていた。その方はヨットを習っているらしく、ヨットの話をしてくれた。幼少期に一度だけヨットに乗ったことがあったので、その時の体験を思い出しながら話を楽しく聞いていた。話を聞いている最中に、波の音が心地良く辺りに響いていて、非常に寛いだ時間を過ごすことができていた。海の時間はとても穏やかで、心を深く落ち着かせてくれると改めて思う時の流れがそこにあった。ヨットの話をした後に、その方も関心を持っている神道の話になった。神道において、「霊」は「ひ」とも発音し、人同士が引かれ合うというのは、元々「霊(ひ)かれ合う」という言葉から来ていることを伝えた。すると、気がつけば私たちの横にゼミに参加している別の受講生がいて、その方が興味津々にこの話を聞いていた。私たち3人もまたお互いに霊が引かれ合ったからこうして出会うことができたのかもしれないという話をして盛り上がっていた。

その他に覚えているのは、大金がかかったサッカーゲームの大会に出場していた場面である。最近ではeスポーツという言葉があるように、ゲームもまたスポーツ化されている。その競技特性からすると、本当にアスリートと変わらないようなハードさがeスポーツには求められる。それはメンタル的にもそうだし、肉体的にもそうである。徹底した自己管理と自己鍛錬がeスポーツにも要求されているのだ。私は、小中高時代の友人(YU)と一緒にその大会に出場していた。出場者のうち日本人だったのは私たちだけで、私たちはチームを組んでいた。2人1組でエントリーするその大会は、世界からそのゲームの猛者が集まっていて、どこまで自分たちが勝ち上がっていけるのかがとても楽しみだった。いざ初戦の組み合わせが発表されると、初戦はオランダ代表との試合になった。実際にオランダ人の2人がオランダ代表を選択し、母国への思いも含めて、相当に手強そうだった。試合開始のためにブースに向かうと、その途中でフローニンゲン大学でお世話になっていたルート・ハータイ教授とサスキア・クネン教授に出会い、2人からはオランダ代表と戦うのは少し勝ち目がなくて無茶だと言われた。その試合にはこちらからも相当なお金を出していたので、その賭け金を見て2人は驚いていて、無謀な戦いはやめた方がいいと言われた。しかし、それが無謀ではなく十分に勝ち目があることを論理立てて説明すると、2人は納得した表情に変わり、2人はオランダ人であるにもかかわらず、私たちを応援してくれることになった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/26(火)05:30

11700. 仏教・神道の言語哲学とサイケデリック現象学の架橋に向けて

時刻は午前7時を迎えたが、まだまだ深い闇が辺りを包んでいる。今、オーブンでシロシビン・マッシュルームを乾燥させているのだが、先ほどマッシュルームの面をひっくり返す際に、あまりに小さいマッシュルームをパクッとその場で食べてみた。すでに3時間ほどオーブンで乾燥させていたので、香ばしい香りがして、味も美味であった。それは極々少量のため、知覚体験などは起こることはなく、マイクロドーシングの感覚で摂取した感じである。ひょっとしたら乾燥させたマッシュルームは、乾燥させた状態からでもアーモンドペーストやピーナッツペーストと和えて食べることができるかもしれないと思った。今後そうした摂取方法を検討する。

先ほど、仏教の言語哲学や神道の言語哲学をサイケデリック体験を紐解くことに活用できないだろうかと考えていた。仏教の言語哲学について井筒俊彦先生の研究が参考になり、神道の言語哲学については川面凡児先生の研究や小笠原孝次先生の言霊学学が参考になるだろう。かつてゼミナールで扱った言霊学学に再び戻ってきた感じである。ゼミナールの中では小笠原孝次先生ではなく、山腰明将先生の『言霊学事始』というテキストを扱っていたが、2人は同じ言霊学学の伝統を汲んでいる。やはり日本語の持つ奥深い性質、とりわけ超越的な性質とその力について非常に関心があり、それをサイケデリック体験と絡めて真剣に研究していきたいと思う。仏教の言語哲学、神道の言語哲学、サイケデリック現象学がどのようにつながるのかはまだ未知だが、それらがきっと組み合わさった形で学術研究ができるものと信じている自分がいる。言葉と現象は不可分の関係を結んでいて、言霊学学は言葉と現象の深淵な関係性を紐解く学問体系である。それをうまくサイケデリック現象学と絡めることができないか。その点をこれから考えていこうと思う。フローニンゲン:2023/12/26(火)07:28

11701. 空海の言語哲学/海の音楽の心地良さ      

午前中の読書を元にした考察が緩やかに進んでいる。今後の方針として、神道における言霊学とサイケデリック体験を関連づけていくだけではなく、仏教の言語哲学においては、井筒俊彦先生の言語哲学に加えて、空海の言語哲学を理解することは必須だろうと思った。慶應大学出版から英文書籍でまさに空海の言語哲学に関する論文集が出版されていることを先ほど知ったので、年明け以降にそれを購入しようと思う。本当に日々牛歩の歩みだが、それでいて着実に自分がサイケデリック研究の分野で貢献できる観点やアプローチが徐々に見えてきていることを喜ぼう。

空海は、瞑想や儀式を通じた直接体験を重視していた。空海の現象学的な思想から学ぶことは多そうである。空海の現象学的な発想は、サイケデリック現象学を組み立てていくときに鍵を握るだろう。空海が提唱した「真言」とは、言葉を通じた超越的な直接体験を示唆している。これはきっとサイケデリック体験を紐解く際の観点として重要なものになるはずだ。

意識。この摩訶不思議な存在に対して、空海はどのような意識論を展開したのだろうか。それについても気になる。空海の言語哲学に加えて、空海の意識論を探究していくことを通じて、空海の宇宙論に入っていこう。

毎朝綴っている夢日記について、今朝方も夢日記を書き留めていたが、それは自分が朝に記憶している限りの夢についての記録である。しかし、私たちはきっと覚えていない夢でもどこかに記憶しているはずであり、おそらく前々回のサイケデリック体験中に想起された他者の記憶として知覚していたものもまた、自分の夢の覚えていない記憶の可能性もあると思った。サイケデリクスを通じた変性意識状態とそれに対応する脳の特殊な状態が、毎日無数に見ている覚えていない忘却された夢を思い出させ、それが治癒や変容につながる知覚体験をもたらしている可能性についても検討してみたい。

今聴いている海の音楽はとても心地良い。その理由について考えていると、自分が母親のお腹の中にいた記憶と結びついている可能性があると思った。胎児として羊水の中に浸っている時の記憶は、スタニスラフ・グロフのモデルで言えば、母親と一体となっている最も安心した状態であり、それが海の音を聴いている際のリラックスにつながっているように思えたのである。またそもそも、人間の身体の半分以上は水でできており、脳に至っては70%から80%が水で構成されているため、海の音の振動が自分の脳や身体の水と共鳴し合っている可能性がある。それが心地良さの秘訣の1つだろうか。フローニンゲン:2023/12/26(火)10:14

11702. 宮崎駿監督の“The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”を鑑賞しに映画館を訪れて 

つい今し方、映画館から自宅に戻ってきた。今日は満月ということに外出して初めて気付いた。映画館からの帰り道は、満月のおかげもあって明るさを感じることができた。街の中心部のクリスマスのイルミネーションはとても幻想的で美しく、クリスマス2日目のこの日に外出する人はほとんどいないようだったので、イルミネーションに彩られた街をまるで独り占めするかのように大通りを歩くという贅沢を享受した。オランダでの8年の生活の中で、そう言えばクリスマスや新年をフローニンゲンで祝ったのは1回か、多くても2回しかないように思う。その期間は大抵日本に一時帰国していたか、あるいは秋に日本に一時帰国するようにしてからは、どこか別の国でクリスマスや新年を祝うようにしていたように思う。なので改めてまじまじとクリスマスのイルミネーションに彩られたフローニンゲンの街を歩くのは、もう何年ぶりか覚えていないほどである。そうしたこともあって美しさが増していた。さらには、仮に来年にアメリカに生活拠点を移すことになれば、これがフローニンゲンでの最後のクリスマスになるかもしれないと思うと、どこか感慨深いものがあった。そうした諸々の要因が重なって、とても神聖な雰囲気を感じながら街を歩いていた。

さて、先ほど街の中心部の映画館で鑑賞した宮崎駿監督の“The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”は本当に素晴らしい作品だった。ゼミの受講生の方が述べていたように、サイケデリック体験を彷彿させる世界がそこに描かれていたように思う。この映画について振り返る前に、この映画の内容と関係する話を書き留めておきたい。今日足を運んだ映画館は、フローニンゲンの街の中心部にある非常に有名な映画館で、数年前にはこの映画館に頻繁に通うことを検討していたような映画館だった。しかしそれを実行に移さなかったのは、非日常体験を味わいに楽しみな気分でやってくる市民たちのこの夢の劇場で、数年前に殺人事件があったのである。犯人は精神異常者で、映画館で働いていた老年の係員をナイフで刺し殺すという悲惨な事件があった。その事件の数日後にかかりつけの美容師かつ親友のメルヴィンからこの事件について教えてもらい、人の命が奪われた映画館に通うのがなんとなく気が引けてしまい、そこから数年が経っていた。今回オランダで初めて映画館に足を運び、作品が開始する前に席に座って巨大なスクリーンに映し出されるCMや映画の予告編を眺めながら、このリアリティは幾重にも複雑に重ねられた階層で構築されていて、多様な天国と地獄が渾然一体になっているのだという意識があった。今こうしたCMをぼんやり眺めている背後で銃の乱射事件があっても全く不思議ではなく、かつてアメリカに住んでいたときにはそのような事件がどこかの地域であったことを思い出していた。自分の目で知覚されるリアリティや身体で感じられるリアリティがどれだけ安心安全で幸福に彩られていたとしても、そのようなリアリティは一瞬で脆くも崩れ去り、地獄と化すのだというリアリティの容赦ない絶対的性質について思いを馳せながら椅子に座って作品が始まるのを待っていた。きっとその部屋にいた20人ぐらいの客は自分と同じようなリアリティ認識を共有していないだろうと思いながらも、おそらくそうしたリアリティ認識はこのリアリティの本質を突いているように思えた。フローニンゲン:2023/12/26(火)19:59

11703.“The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”

と自身のサイケデリック体験を振り返って

先ほどまで見ていた宮崎駿監督の“The Boy and the Heron(君たちはどう生きるか) (2023)”について、その内容を振り返っておきたい。ゼミの受講生が述べていたように、この作品で描かれていた世界は、自分のこれまでのサイケデリック体験と重なる部分が大いにあり、直接体験に基づく共感を得ながら鑑賞していた。覚えている範囲のことをざっと書き留めておくと、偶然今朝方の探究活動の際に読み返していたサイケデリクス関係の学術書の中で記述のあった、意識状態に関する泰斗チャールズ・タートの「多様状態モデル」に該当するような世界が作品の中で描かれていた。インテグラル理論に馴染みがあれば、チャールズ・タートの名前はどこかで聞いたことがあるかと思う。タートの多様状態モデルにおいては、私たちは1つの固定した心身状態を持つのではなく、心身共に実に様々な状態を持つことが可能な生き物であるとされる。夢の世界においては、その世界に対応するドリームボディとドリームマインドが存在しており、こうした形で多種多様な心身状態が覚醒中、睡眠中、変性意識中に立ち現れる。作品の中の主人公と登場人物たちは、そうした多様状態モデルを通じて複数のリアリティを行き来していたのが印象的である。また、この作品では現実世界のみならず、シャーマン的な世界モデルで言われるところのアンダーワールドやアッパーワールドが描かれていたことも印象に残っている。輪廻する地獄の世界や生命の誕生前の世界としてのアンダーワールドの描写、それに加えて天上界のようなアッパーワールドが見事に描かれていたことが脳裏に焼きついている。アヤワスカの儀式において、まさにシャーマンは意図的にそうした多様な世界に儀式の参加者を誘う。自分のかつてのアヤワスカ体験を彷彿させるものだったし、アヤワスカに限らず他の古典的サイケデリクスを摂取した時にも経験する知覚世界が描かれていた。

作品の中盤で主人公が地獄の世界に足を踏み入れようとしている時、地獄の門に「我を学ぶ者は死す」という言葉があった。サイケデリクスを摂取するというのはこれ以上ないほどに自分の真実を突きつけられ、自分について嫌というほどに深く学ぶことを余儀なくされる。そして何より、今の自我は一度完全に解体され、自我の死を要求される。何かそのようなサイケデリック体験の真髄を思い出させてくれる言葉だった。それ以外にも印象に残っているのは、物語の最後でアオサギが主人公が持っていた石について言及していたことである。作品の中でも不思議な力を持つ鉱石が出てくる。偶然にもオランダで合法的に販売されているシロシビン・トリュフは、その姿形が石に似ているため、「賢者の石(philosopher's stone)」と呼ばれている。アオサギは主人公が石を持ち帰ったことを非難して、「あちらの世界のことは忘れろ。普通みんな忘れるんだ」というようなことを述べていた。そう、普通の人はあちらの世界を見たことは覚えていないだろうし、あちらの世界があるなんてことも知らない場合がほとんどである。しかし作品中の主人公のように、サイケデリクスを摂取して多様なアンダーワールドやアッパーワールドをありありと鮮明に知覚してしまった者は、幸か不幸かもうそこで見たものを忘れることはできないのである。この作品はぜひまたどこかのタイミングで繰り返し鑑賞したいと思う。自分のサイケデリック体験を紐解く上でも傑作であった。クリスマスの静謐な雰囲気に包まれたフローニンゲンでこの作品を鑑賞できたことに深く感謝したい。フローニンゲン:2023/12/26(火)20:23

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