【サイケデリック学・意識哲学探究記】第26回のシロシビン・セッションの振り返り(12095-12107):2024年2月11日(日)
タイトル一覧
12095. 第26回のシロシビン・セッションに向けて
12096. 第26回のシロシビン・セッションの朝に見た夢
12097. 唯識思想と批判的実在論を用いた考え事/華厳思想への関心
12098. かつてのアヤワスカ体験/サイケデリック研究に対するハーバード神学大学院の懐の深さを感じて
12099. 達観と諦念/宗教と教育の問題
12100. 親友のメルヴィンの在り方から考える奉仕と現代社会の問題について
12101. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その1)
12102. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その2)
12103. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その3)
12104. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その4)
12105. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その5)
12106. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その6)
12107. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その7)
12095. 第26回のシロシビン・セッションに向けて
時刻は午前4時を迎えた。今の気温は8度と比較的暖かく、ここからは気温がほとんど変化しない形で、日中の最高気温は9度とのことである。2月も中旬に入ろうとしていて、寒さのピークは過ぎたようだ。氷点下になると、暖房があってもどうしても室内の気温が下がってしまい、それに対して自分は問題ないのだが、栽培しているシロシビン・マッシュルームに対して支障が生じるので、氷点下がやって来ることはもうないかもしれないことはとても喜ばしい。先日購入した新たな栽培キットにも愛情を注ぎ、これからすくすくと育ってほしいと思う。
今日は第26回のシロシビン・セッションを行う。前回が如何せんかなり深い体験をしたこともあり、そしてそこで実存的恐怖のようなものを体験したこともあり、今回の服用量をどれくらいにするのかは悩ましい問題であった。しかし前回から今回にかけて2週間ほど内省を繰り返すことによって、前回の体験を恐怖と捉えるのではなく、むしろ自らの我執に気づかせてくれる重要な学びを得る機会だったと捉え、仮に同じ現象に直面しても今回は大丈夫なのではないかと思った。なので今回もまたテレンス・マッケナが提唱した「英雄の服用量」である乾燥させたマッシュルームを5.0gほど摂取しようと思う。それを超えると前回のような状態になり得るかも知れず、その体験は重要だとは言え、今回は5.0gに留めておく。
今回のセッションでは、とにかく唯識を念頭に置いて臨みたい。自らの存在を構成する8織について何か1つでも気づきを得ることができたら幸いである。また、我執を司る末那識が少しでも浄化されることを願ってやまないし、阿頼耶識に眠る種子の中で浄化が必要なものが浄化されていくことも願っている。今日のセッションを含め、ここからセッションを重ねていくことを通じて、最終的には唯識の教えにあるように、8織を転じて智慧を得ることを目指していく。自分がセッションを通じて得られた智慧をとにかく多くの人に共有していくこと。それが自分にとっての善行なのである。シロシビン・セッションを含めたサイケデリック・セッションは自分にとって、善行を積む実践としてある。
今日のセッションでもまた存在即意識、意識即存在の体験をするだろうか。それはまさにヴェーダンタ学派の「サッチダーナンダ」という言葉が意味していることである。存在は即意識なのであって、意識は即存在なのだ。今日のセッションでは、唯識思想を意識して臨むこともあり、Spotifyのプレイリストの“Buddhism Music”をかけようと思う。仏教の世界観を体現した6時間超の穏やかな曲を聴きながら、今日もまたできる限りの学びを得るようなセッションになればと思う。フローニンゲン:2024/2/11(日)04:26
12096. 第26回のシロシビン・セッションの朝に見た夢
夢を見ない深い眠りの意識状態としてのコーザルの意識状態から、徐々に覚醒に向かっていく際のサトルの意識状態で見ていた今朝方の夢。そこに隠された公案は何か。そんな問いを持って今朝方の夢について振り返ってみたい。
今朝方は夢の中で、実際に通っていた高校の校舎の中にいた。高校1年生を過ごした1階の廊下を歩き、教室に向かうと、そこに別の高校に通っていたはずの小中学校時代の双子の友人の弟の方がいた。私は彼の隣の席に座り、話しかけてみた。すると、彼は私が隣に座ったことに気づかなかったようで、声をかけられたことに驚いて、手に持っていた水をこぼしてしまった。その水が私の右半身にかかり、彼の左半身にかかった。彼は慌ててタオルを出してくれ、お互いに水を拭き取った。こちらも突然話しかけてしまって申し訳なかったと思い、タオルで水を拭き取った後は軽く雑談を楽しんだ。彼と雑談をした後に、そう言えばと思って教室を離れ、思いついた用事をしに目的の場所に向かった。その道中、突然先ほどいた教室も含め、1階の全ての教室から生徒が忽然と姿を消した。全員が姿を消したわけではなく、それぞれの教室に1人か2人生徒が残っていて、彼らはみんな意識が乗っ取られてゾンビのようであった。教壇には得体の知れないお化けのような存在もいて、私に危害を加えてくることはなかったが、教室に残ったゾンビ化された生徒を監視しているようだった。奥の教室から靴箱のある外に近い教室に向けて歩いていると、ゾンビ化をなんとか免れた親友(SI)と遭遇した。彼は大丈夫そうで、今学校全体で起こっているこの奇妙な現象の解明に向けて奔走しているようだった。私は、おそらく先生たちがいる職員室のある校舎にこの状態を生み出している存在がいるのではないかと推測しており、その存在を撃退しに行こうと彼に述べた。すると彼は勇足になり、私の案に賛同してくれたのはいいものの、ひとり勝手に職員室のある後者に向かって走り去った。彼に置いていかれてしまい、ポツンとその場に立ち竦んでいると、向こうから小中高時代の女性友達(NI)がやって来て、私の安否を知ってか、笑顔で手を握って来た。どうやら彼女は私のことを心配してくれていたようである。彼女の笑顔を見た時、そう言えば彼女のお父さんが彼女と彼女の姉が幼少期の頃に2人に対して優しく接している場面が脳裏に浮かんでいたのを思い出し、その話を彼女にした。彼女のお父さんが、セイロン島に生息する不思議な鳥の鳴き声を、「ぱふぉ、ぱふぉ」と表現していたのが印象的で、幼かった彼女と彼女の姉はお父さんのその物真似にケラケラと笑っていたという微笑ましい出来事を目撃している自分がいたのである。その話を彼女にすると、彼女はその出来事を懐かしく思い出したようで、幸せな気分になっているようだった。そこから私たちは、廊下をジェットスキーのような器具を使ってものすごい速さで滑っていき、校舎の外に出ようとした。延々と続くかと思わせるような長い廊下をしばらくそのような形で進んでいると、小中学校時代の運動神経の良かった女性友達(HK)にぶつかりそうになったが、彼女はとっさにジャンプして私たちを交わし、私につかまっていた友人の彼女と私は、「最後はやっぱり運動神経が大事だよね」とお互いに述べ、思わず笑みがこぼれた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/2/11(日)04:45
12097. 唯識思想と批判的実在論を用いた考え事/華厳思想への関心
つい先ほどトイレの中で、唯識思想をもとにしてこの物理的な世界で生きる自分を取り巻く存在論について考えていた。唯識思想と完全に合致するわけではないかも知れないが、まずは兎にも角にも、私たちが物理的な世界で認識するものは8つの識が織りなす映像に過ぎないというのはどうやらその通りのようである。5感だけに限ってみても、それらを活用して物を物全体として捉えることはできず、捉えれたのはある感覚あるいは複数の感覚の組み合わせによって入って来た情報に過ぎず、情報は形なき非物質である。目を開けて広がる世界は全て映像であり、それはどこまでいっても映像の域を出ない。映像世界の中で物に触れたり、匂いを嗅いだりした時に、そこで私たちが得るのもやはり情報としての非物質的な存在であり、得られる情報の量や質は全て私たち固有の8つの識の質による。そうなってくると、本当に私たちは情報世界に生きているということが見えてくる。もちろんながら、物の立場に立てば、すなわち物の存在論を考えてみると、確かに物は物として私たちの経験世界(the empirical)の中に存在しており、個人の経験世界を超えた現実世界(the actual)にも存在しているはずである。ここでの物の存在もまた当然ながら不変の固定的な存在ではなく、常に変化を続けている存在である。いずれにせよ、物そのものの存在を否定するのではなく、空的かつ可変的な存在として物の存在を認め、しかしながらそれを認識する私たちはどこまでいっても物との出会いは自らの8つの識を通じた情報的な域から外に出ることはできないのではないだろうか。物の一端を情報的に切り出す形で私たちは物と出会い、物と触れ合うようである。もちろんそこから推論や直観を働かせて、物全体を想像することはできるが、それもまた情報的な思考であり、識が生み出すものなのだ。これらの説明は全て唯識論とロイ・バスカーの批判的実在論に則ったものであり、脱線はしていないように思える。
昨夜、唯識思想の探究をここから全身全霊で進めていきながら、唯識思想はとりわけ個人の心の世界の詳細精緻な分析に強みがあるため、逆に仏教の宇宙論としての華厳思想に関心を持った。実は数日前にも、『華厳経(Buddhāvataṃsaka Sūtra)』の英訳書を早速求めている自分がいた。仏教の意識論と宇宙論の双方に途轍もなく大きな魅力を感じている自分がいる。こうした魅力に目覚めたのもまたきっとこれまでの歩みの積み重ねの結果もたらされたものなのだろう。華厳に関してどのような学術研究がなされ、どのような箇所に研究余地が残されているのかも含め、まずは華厳経の英訳書と、華厳に関する論文集で何か良いものがないかを探してみて、来月また専門書を購入したいと思う。フローニンゲン:2024/2/11(日)05:48
12098. かつてのアヤワスカ体験/
サイケデリック研究に対するハーバード神学大学院の懐の深さを感じて
つい今し方、モーニングコーヒーを淹れた。いつもコーヒーを淹れるのは至福の時間であり、コーヒーを味わう時間も至福だが、それを準備している最中もまた至福である。自分の嗅覚という感覚を通じて得られる嗅覚的識がそうした幸福感をもたらしている。今日のシロシビン・セッションは前回同様に、午前10時前から下準備を始め、10時を少し超えた時にはシロシビンドリンクを飲み終えておきたいと思う。これから先ほど淹れたコーヒーをゆっくりと味わっていこう。協働者の方からいただいた象印の赤いマホービンは大活躍で、かつては自宅でコーヒーを淹れると、寒さによってすぐに覚めてしまっていたが、コーヒーを熱湯で温めたマホービンに入れ、コーヒーカップも熱湯で温めると、そこからずっと温かいコーヒーを飲むことができる。フレンチプレス1杯のコーヒーは、毎朝3時間から3時間半ぐらいかけてちびちびと味わっているのだが、そうしたことが可能になるのも象印のマホービンのおかげであり、それをプレゼントしてくださったある協働者の方のおかげである。ここでも自分の日常を豊かにしてくれることをもたらした存在として他者がいることに感謝の念が芽生える。
先ほどコーヒーを淹れながらふと、自分のサイケデリクスとの出会いとそこから運命的な人生の進展について懐古していた。最初にアヤワスカと米国西海岸で出会って以降、肯定的な意味での数奇な人生が始まったように思う。いやひょっとしたら、自分の人生は生誕の時から変化に富むものだったのかも知れない。誰しもの人生も大なり小なりの変化は必ず存在していると思うが、自分のこれまでの人生を振り返ってみると、やはりそこに大きな脈動を感じる。動的に生きて来たこと。それもまた自分の業なのであり、その結果として今の自分がいる。
今日のシロシビン・セッションではかつてのアヤワスカ体験にまつわる現象や記憶が再想起されるかもそれない。そんな直感があったことも不思議であった。これまでの25回のセッションでは、かつて5回ほど摂取したアヤワスカの体験に関する記憶は忘却の彼方にあり、それがふと今日のセッションでは何かあの時の体験が今日の体験に影響を与えるのではないかと直感的に思ったのである。
どうやら日本でもアヤワスカについては随分と認知が進んでいるようである。昨年の秋にハーバード神学大学院(HDS)に訪れた時にも、プログラム説明会の参加者の中でアヤワスカについて知らない人はいないような状況であったし、多くの人が少なくとも1度はアヤワスカを摂取したことがあるような状況であった。現在のアメリカではそれくらいにアヤワスカの認知が高まり、摂取体験者の数が増えていることが窺える。
今日はこれから唯識思想の研究に着手するのではなく、来週の木曜日に行われるHDSのオンライン面接に向けた準備をしたい。書類選考の段階で、志望動機書の中にサイケデリック研究への思いの丈を全て綴り、それを受け入れてくれたハーバード神学大学院の懐の深さに感謝の念が湧く。数百人の出願者の中で、宗教思想の観点からサイケデリック研究をするという明確な目標を全面的に打ち出して志望動機書を執筆したのは自分だけだったのではないかと思える。そうしたユニークさに注目してくれた可能性もあるし、そもそもハーバード神学大学院がサイケデリック研究に温かい理解を示してくれていることが感じられてとても嬉しく思う。フローニンゲン:2024/2/11(日)06:18
12099. 達観と諦念/宗教と教育の問題
今、自分の人生がまた大きな力を兼ね備えて新たな動きを始めているのを深層的に感じる。大海の表面の波は常に穏やかだが、大海の深層部で地殻変動が起こっているかのようなのだ。それが自分の日々の学術研究と実践を後押しし、また人生を違うステージに引き上げようとしている。自分の人生に何が起こってもそれに感謝すること。人生に関するコントロール不可能性を承知し、それを受け入れ、自らの人生に起こる全ての出来事を劇場内の刹那的イベントとして受け入れること。中には決して楽しめるような出来事ではないものもあるだろうがが、それでもそれを楽しみとして感じられるような心を育んでいくこと。そもそもこの宇宙は常に遊戯に従事しているのだから。そんな宇宙の中にいる自分が遊戯に従事しなくてなんとなろう。自らの死も愛する人の死ですらも、宇宙の遊戯的な現象として生じるという肯定的な達観と諦念。この世界で起こる悲惨な出来事に対して冷酷になるだとか、無関心になるだとか、そのようなことを述べているわけではなく、そうした出来事に囚われず、振り回されず、達観と諦念でそうした出来事を眺め、どうすれば人々が幸せと感じる出来事がこの世界の中で生じるようになるのかを考えていくこと。そのためには1つ1つの出来事に感情が揺れ動かされていてはダメであり、不動の精神に立脚した達観と諦念をもってこの世界に対して善行を投げかけ、少しでもよりより世界を作ることに注力する方がより建設的ではないだろうか。多くの人は非建設的なのである。世の中の出来事が全て宇宙遊戯の産物であるという世界認識を持たず、達観と諦念がないから出来事に逐一振り回されるのである。そうした人々に救いの手を差し伸べ、個人の救済に加えて社会そのものの救済に向けて活動していくこと。そうした意味で自分は活動家なのだ。
そのようなことを考えた後にふと、世界の偉大な諸宗教はいずれも目指すべき場所は同じであり、思想の究極的な到達点はいずれも同じであるにもかかわらず、人々の解放と社会の救済にことごとく失敗し続けていることについて考えていた。人類の歴史の中で宗教が誕生してもう数千年になるが、宗教思想の最終到達点はいずれも人々と社会に解放と幸福を実現するものなはずだが、この数千年間の営みの中で過去一度として集合規模でそれが成功したことがないことについて考えていたのである。人は生まれた瞬間には発達段階0からスタートし、そこから長大な時間をかけて心を育んでいく。生まれた瞬間から宗教思想の究極的な到達点を体現する形で人々がこの世界に誕生してくるのなら、最初から人々は解放されており、社会は常に幸福さで満ち溢れているはずなのにというユートピア思想が浮かぶ。宗教の失敗は、宗教心を育み、自己理解と世界理解を深めていくための宗教教育の欠如と失敗に由来しているのだろうか。今後遺伝子工学などが発展し、テクノロジーの発展と相まって、生まれた瞬間から悟りの境地に達しているデザイナーズベイビーなどが誕生してもおかしくはないが、それまでは宗教と教育の問題について真剣に考えなければなるまい。そんなことを考えていた。フローニンゲン:2024/2/11(日)06:33
12100. 親友のメルヴィンの在り方から考える奉仕と現代社会の問題について
一昨日のことだっただろうか、スペインのマドリードに在住のオランダ人のバスさんが家のオーナーのフレディさんの仕事の手伝いに毎月1度マドリードからフローニンゲンにやって来て、家の敷地内でバスさんに遭遇したので少し立ち話をしていた。バスさんは先般の能登半島で起きた地震について心配してくれていたようで、その話をしていた。その時の話を思い出しながら、自分は改めてオランダ人の親友のメルヴィンの在り方と取り組みに深く敬意を評した。今回の能登半島での地震を受けて、オランダにいる自分にできることは限られていて、少額ではあるが気持ち分の寄付をした。災害時においては物資の支給は不可欠であり、非常に重要な役割を持つことは承知であり、お金を寄付することも重要だとわかっているが、本来自分が大切にするのは物やカネの提供ではない。あくまでも人々の心の支えになるような、少しでも心が豊かになるような奉仕活動なのである。その点において、親友のメルヴィンの取り組みは本当に素晴らしい。メルヴィンの店で雑談をしていたり、髪を切ってもらう時には、時折客だけではなく様々な人が店にやって来る。客ではない訪問者の多くはホームレスで、メルヴィンと二、三言葉を交わして出ていく。彼らはメルヴィンと話をするだけで元気になったかのような表情を浮かべ、満足して店を出ていくのである。
メルヴィンは月に必ず1日はホームレスだけを対象にして、無償で彼らの髪の毛を切るという取り組みをもう何年も続けている。ふとした時に手に取ったフローニンゲンの地方雑誌の中にメルヴィンの取り組みが写真入りで掲載されていたことがかつてあった。どのような経緯でメルヴィンがその取り組みを始めたのかについては過去に既に話を聞いており、改めてメルヴィンの思想と在り方に感銘を受けたのを覚えている。彼にとっては、ホームレスの髪の毛を無償で切るということが1つの奉仕活動なのであり、最近は無償でライフコーチングを数人の人に提供しているようだ。メルヴィンの取り組みと先般の能登半島での地震に対する自分のリアクションを振り返ってみて、改めて自分もまた物やカネの提供以上に、人々の精神に関与していく奉仕活動にこれからより一層力を入れていきたいと思った。自分の場合は兎にも角にも、不断の学問研究を通じて得られた知識と発想の枠組みを多くの人に共有することを最大の奉仕活動として位置付けたい。物やカネを提供することではなく、それは他の人に任せ、とにかく多くの人たちの心が少しでも穏やかになり、豊かなものになるような奉仕活動としての智慧の共有に力を注ぎたいのである。そのためには自分がまずは智慧を身につけていかなければならない。智慧の体現者への道のりは遠いが、その道中で得られたわずかばかりの智慧をその都度多くの人に共有していきたい。今日のシロシビン・セッションはそこに向けた貴重な実践であり、その実践で得られたことを書き留めた日記もまた何かしらの智慧の共有になることを祈っている。本来、この現代社会には既に物とカネは満ち満ちている。問題なのはこの世界で物とカネに偏在があることであり、必要な人にしかるべき量の物とカネが行き届いていないのだ。その問題の根幹には、人々の心の未熟さがある。とりわけ物とカネを大量に所有する人たちの我欲と我執が、本来であればこの地球上の人々が苦しまないで済むだけの物とカネの分配を妨げている。心。すなわち意識の問題。それが自分が全身全霊をかけて解決するべき問題なのだ。フローニンゲン:2024/2/11(日)06:58
12101. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その1)
時刻は午前10時を迎えた。今日は曇り空に覆われた日曜日の世界が広がっている。日曜日の穏やかな雰囲気はいつもと変わらない。先ほど、09:55にクエン酸が豊富なレモン汁と和える形で4.4gの乾燥シロシビン・マッシュルームを摂取した。セッションはこれから本格的に始まるが、体験内容の振り返りの前に準備のプロセスを書き留めておきたいと思った次第である。
今朝は午前4時頃に起床し、いつものように夢の振り返りをしたり、朝の創作活動に従事したりといつもと変わらない過ごし方をした。大抵いつもはそこから学術研究に取り掛かり始めるのだが、目下、ハーバード神学大学院(HDS)のオンライン面接を控えているので、学術研究を脇に置いて、面接に向けての準備をした。実は今回の出願に際して、既にHDSでの生活についてあれこれ考えていたことを日英合わせて8万字ほどの分量で色々と考えを吐き出していた。その中に書類審査を晴れて通過した時のことを想定して、オンライン面接の中でどのようなやり取りがなされるかを想定して、自分なりの考えを既に書き出していた。それを参考にしながら、8万字のごった混ぜのファイルではなく、改めてオンライン面接のためだけのファイルを新規に作成し、そちらに日本語を排して英語で面接での想定質問や自分なりの回答を書き出すということを行っていった。3人の面接官のどなたが自分の面接を担当してくださるのかは不明だが、既にハーバードのキャンパスで会って話をした3人について彼らのバックグラウンドをさらに深く知っておくことが礼儀であり、それは面接の内容に深みをもたらすと思ったので、3人の自己紹介がなされているアドミッションブログを参照していた。そのような形で時間を過ごしていると、あっという間にいい時間になったのでシロシビン・セッションに向けて準備を始めた次第である。
今日のここからのセッションでは、“Buddhism Music”の6時間を超すプレイリストの曲をランダム再生していく。そしてベッドの上での発汗を防ぐために、寝ている時と同じ格好の半袖半ズボンでベッドの中に入るようにする。シロシビン・ドリンクを飲み終えて17分経った今、知覚変容が始まったようなのでここで筆を止め、1階の寝室に行き、セッションを始めたいと思う。今日のセッションが実り多いものになることを願いながら、どのような知覚体験があっても受け入れる気持ちを持とうと思う。フローニンゲン:2024/2/11(日)10:13
12102. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その2)
つい今し方、第26回シロシビン・セッションを終え、夕食を摂り終えた。いつものセッションの振り返りのように、焦らず自分のペースで、自分の言葉でゆっくりと今日のセッションを振り返っていこう。自分も全ての人もゆっくりと自分のペースで生きて欲しいという言葉がまず出てくる。自分ではない誰かのペースに合わせるのではなく、自分のペースで好きなようにゆっくりと。それでいいのだという思い。それしかないという思い。
前回のセッションと同様に、今日のセッションもまたとても危険なものだった。自らの小ささを痛感させられ、我執の強さをこれでもかと突きつけられ、自分の醜さをこれでもかと突きつけられるセッションだった。そして肉体が溶解し、純粋意識と化した時、我執を司る末那識がまたしても自分の肉体と自我の鎧に固執し始めて辛い体験があった。純粋意識としての目撃者の自己は混乱する。このまま純粋意識としてい続ければいいのか、それとも末那識の思いを汲んで自らの肉体と自我に戻るべきかを。そんな葛藤があった。それは熾烈な葛藤だった。今の自分の限界はもうここなのである。自分の末那識は本当に力強い。だがその存在を否定してはならない。末那識を否定してしまうと、それは新たなシャドーを生む。末那識に愛情を注ぐこと。愛の眼差しを向けること。それが今の自分には本当に重要なのであり、それがとても難しいことなのだ。自分の末那識に愛を向け、感謝の気持ちを持とう。それしか方法はないのではないかと思う。
自らの阿頼耶識。これもまた業が深い。「まさかそんな種子があったとは!」と叫びたくなる瞬間があったし、諸々の業を通じた種子の塊や相互ネットワークを知覚し、それはもう自分の意思で浄化したり、変容させたりなどということを超越していた。自分の巻いた種は自分で責任を持って引き受けること。それが「自業自得」なのである。これまでの人生を通じて成してきた所業の報いを前回と今回は嫌というほど受けた。今日のセッションの途中まではなぜかとても心が平穏で、穏やかな心で体験が進行していた。ところがである。そこから急転直下し、末那識の暴走が始まったのである。今となってはもう末那識に愛情を向けることができるが、体験中は末那識を叱責してばかりだったように思う。そして自我にも叱責ばかりしていたように思う。正直なところ、末那識も自我も悪くないのだ。彼らの役割も思いもこれまで気付くことができず、それを汲み取ることができなかった自分自身が悪いのである。今、悪いと述べた存在と、悪いと仕向けた対象は誰だろうか。あぁ、それも末那識と自我なのだ。そんな自己反省が何回も何回も続くことになる。
やはりまだ怖い。今日も結局まだ怖かった。自分が自分でなくなることが本当に怖かったのである。完全に日本語が機能停止となり、これまでの人生で日本語で経験した、そして日本語で紡ぎ出してきた自己ナラティブが全部崩壊し、水に流れていくことが本当に怖かった。そして立ち上がってきた英語で構築された経験と自己ナラティブもまた貧困なるゆえに、いとも簡単に宇宙の彼方に水に流されていき、結局自分は何者でもなくなった。本当に、本当に。自分が自分であることを定義づけることができなくなったのである。それこそが完全なる実存的恐怖であった。自分の器にはまだそれは耐えられないのだ。今日は大丈夫だと思っていた自分がいる。それも過信であり、傲慢だったのだ。謙虚にならなければならない。本当に自分はまだまだである。人生はこれから始まるのだし、これから始めなければならない。フローニンゲン:2024/2/11(日)18:36
12103. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その3)
自分には何も語る資格はないし、資格なども最初からこの世界には存在しないということ。自分もまた空なる存在であり、何かを語る資格もまた空なり。虚無主義に傾斜する偽りの空を避けること。真なる空としての「真空」を説いた龍樹の言葉に虚心坦懐に耳を傾けること。仏道の道。どうやら自分には本当にそれしかないようなのだ。無限の懺悔道と無限の感謝道。その双方を歩き続けるしかない。懺悔だけに傾くのでも、感謝だけに傾くのでもなく、絶え間ない懺悔と感謝の中道を歩くのだ。
「受け取るばかりの人生はやめにしろ。与える人生を歩け」そのような言葉を痛切に受け取った。そうした言葉をまた「受け取った」自分が本当に情けない。いつも自分は受け取ってばかりだった。自分は何か人に与えたことがあるのだろうか。両親、祖父母、叔父、親友たち、その他自分を支えてくれた人たちに自分は何かを与えたことがあるのだろうか。自分がもう自分でなくなるところまで自我が崩壊滅却してしばらくしてからそのようなことばかりをずっと、ずっと考えていた。最後の数時間はそればかり考えて、泣きじゃくっていた。これまでの人生は一体何だったのだろう。受けるばかりの最悪な夢。人に与えることのない最悪な夢。自分のこれまでの人生はそんな泡沫的な夢だったのだ。悪夢から出発しよう。これからは少しでも人に何かを与えるような人生を送りたい。そうした人生もまた夢なのを知っている。「人生は夢の如し」ではなく、人生は夢に他ならないのである。人生は夢の「如し」なものではなく、本当に本当に夢なのである。自分も他者も夢の世界で夢を見続けて生きているのだ。それが夢だとわかって、夢の世界の中で人に何かを与え続けるような人でありたい。それはもう自我の願いではなく、純粋意識の思いだった。
give、give、give。仮に他者がそんな自分に何かを与えてくれることがあったのなら、その厚意を無碍にしてはならない。そんな時は素直に感謝の気持ちを伝えて、与えてもらったものを有り難く受け取らせていただけばいいのだ。これまでの人生は本当に何だったのだろうか!人から与えられてばかりの、人に何も与えることのない我欲の塊としての、強欲な自分の人生は一体何だったのだろうか!それについて反省するばかりの時間がセッションの終わりは続いた。その時の自分は幾分冷静でありながら、止まらない涙の中にいた。
ふと思い出した4人の親友。両親。母方の叔父。亡くなった祖父母。今まだ生きている父方の祖母。お世話になった学校の先生。お世話になった人たちと会いたくなったし、手紙を書いて感謝を伝えたい人たちがたくさんいることに気づいた。自分の救いはもういいのである。誰かが救われることだけに主眼を置きたい。自分の救いは二の次である。次回の一時帰国は、これまでの人生でお世話になった人たちに謝罪をするため、感謝の意を伝えるための旅になりそうだ。懺悔道と感謝道。その両者の中道から離れようものなら、自分はもう地獄に堕ちてしまえばいいのである。フローニンゲン:2024/2/11(日)18:51
12104. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その4)
自分は自分以上に地獄に堕ちるべき人間を他に知らない。自分以上に地獄に堕ちるにふさわしい人間もまた知らない。自分は必ず地獄に堕ちる。それでいいのだ。そのように自分は生きてきたのである。地獄に堕ちることが確実であることに対して自暴自棄になってはいない。むしろもうそれは確実に定まったことなのであるから、それを引き受けたのである。自己暗示でも何でもいい。これまで自分が人や世界に対して行って来たことは、地獄に堕ちるにふさわしいのである。地獄行きが決まった自分がするべきこと。それはもう簡単である。やるべきことがはっきり見えたのである。一生をかけて懺悔と感謝を捧げて善行を積んでいくだけなのだ。与えることなのだ。本当に自分はしょうもない人間である。自分にできる唯一のことは他者に笑顔になってもらうことと喜んでもらうことしかないようなのだ。それしかないのである。今朝方かどこかで智慧を共有するなどと述べていた馬鹿は一体どこの誰だろう。その馬鹿は地獄に堕ちる存在である。そうした存在としての自分は、他者から受け取るよりも与えることができるような人間になって欲しいと思う。地獄に堕ちていいから、最後には人と世界に何か少しでも与えられるような人間になってくれ。そんな願いで一杯であった。
これまでの行いの報いによってもう地獄行きが覆らなくてそれでいいのだ。そのような生き方をしてきたのだから。むしろ地獄行きが決まって新しい生き方が見えたからいいではないか。それを喜べばいいではないか。今から生き方を変えればいいのだ。必ず決まった地獄行きを引き受けて善行の限りを尽くしていくこと。我執の強い自我が尽きるまで。自我滅却まで善行に次ぐ、善行を積んでいこう。自我が他者に与える行為で溺れ死ぬまで与えていこう。他者と世界に少しでも笑みと喜びの表情が生まれたら、それ以上に望むことはもう何もない。そうなれば人生にもはや悔いはない。人々が笑って喜ぶ姿を地獄から見たい!その願いだけは叶えてくれはしないだろか。フローニンゲン:2024/2/11(日)19:04
12105. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その5)
地獄に堕ちることが決まったことを引き受けて何か吹っ切れたようだ。もう一点の迷いなしの気持ちである。当然また日常に戻れば、自我は迷うはずである。しかし、その迷いも徐々に和らいでいき、迷いなき人生を歩めるような日がいつかやって来るだろうことが何となくわかる。
ちょっと気分が落ち着いたので、「インテグラル・サイケデリックラジオ」のパーソナリティのお相手の早田航さんはどうしているかなと思って、航さんのブログ(https://watarusoda.wordpress.com/)を眺めた。ブログの「61. 変性意識は何度でも続く」に目が止まった。まるで航さんから受け取った手紙であるかのように、その記事を開けた。『そういうことです』という言葉をどうやら私から航さんに掛けたらしいことが書かれていて、確かにそのような言葉を思わず呟いた自分がいたなと思った。「そういうことだし、それでいいんです」としか言いようがない気持ちがあったあの日のあの瞬間を思い出す。そして自分はまた今日、『そういうことです』と自らに対して言われたような気がした。本当に、そういうことで、それでいいとしか言えないのである!そういうことであって、それ以外にはもうなかったのである。それでいいだ。あれはあれでよく、これはこれでよく、それはそれでいいのだ。
毎回膨大な書物を受け取ってくれる近所の玩具屋の店員のティム。彼は気さくなオランダ人の好青年だ。いつも自分がやって来ることを楽しみにしてくれているようで、新しく覚えた日本語の単語を使って片言の日本語で話しかけてくれる。この間は、「コヅツミ(小包)」というなかなか難しい日本語を使っていたので驚いた。最初ティムは、「コツミツ」と述べていて、「骨密?」と思って笑いそうになったが、笑いを堪え、なるほど“parcel”のことを日本語で言おうとしているのだなと思って、「コヅツミ」だとわかった。そんなティムが、「これら」と「これ」という日本語の違いを横にいたこれまた顔なじみの女性の店員に嬉しそうに伝えていたのがとても微笑ましかった。自分は本当にこの街にやって来て、そしてここで生活できて本当に幸せだと思う。親友のメルヴィン、家のオーナーのフレディさんとペイトラさん、同じ敷地内の別の家に住んでいるインド人のサハルと息子のフィン、そして現在インドネシアに半年ほど滞在中のマーク。それからジークンドーの師匠であるロビンさんとジムで自分のパーソナルトレーナーを務めてくれているエリーザ。さらには行きつけの玩具屋の店員たちといつも立ち話を少しする近所のオーガニックスーパーの店員たち。そんな心優しい人たちに自分は毎日囲まれて本当に幸せである。こんなに馬鹿で、地獄に堕ちる業を積んだ自分に対して優しく接してくれる人がこんなにも周りにたくさんいるのである!彼らに少しでも笑ってもらえるように、喜んでもらえるように、自分の言葉と行動と態度を改めていこう。フローニンゲン:2024/2/11(日)19:22
12106. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その6)
もう何が何だか分からなくなる瞬間が2回ほどあった。全部が混沌と化し、本当に自我(ego)だけではなく、自己(self)までも滅却することがあり得るのだなと思った体験があった。井筒俊彦先生の言葉で言えば、「言語阿頼耶識」から自分を支え、自分を定義付ける言葉が何1つとして現れてこないことの最大級の恐怖。今こうして日本語で文章が書けているのは本当に奇跡的なことであり、有り難いことなのだ。自分が唯一扱える日本語と英語が0(ゼロ)になり、言語阿頼耶識から何も言葉が浮上してこないことのあの絶対的虚無感!前回のセッション同様に、今回も精神的な死に加え、肉体的にも死ぬかもしれないと思った。しかしそれでも自分はこのセッションを続けていかなければならないのである。何のため?目的?仮に目的を挙げるとすれば、無事に地獄に堕ちるためであり、地獄行きを引き受けて懺悔と感謝の念を持って絶えず善行を積むためである。自分は凡夫であり、矮小な人間で、何の能力もない人間であるから、シロシビン・マッシュルームの力が必要なのである。彼らには本当に感謝の念が尽きない。
セッション後、確かに今日も過酷で辛い体験であったが、2階に上がってキッチンに置いてある旧栽培キットと新栽培キットに深々とお礼を述べた。もう旧栽培キットの方からは新しい生命は誕生しそうにないが、新栽培セットと合わせて、宮崎駿監督の『となりのトトロ』の作中にあったように、トトロが庭で植物の芽が出るための踊りを踊っていたように、それと同じようなことを新旧栽培キットの前で行っている自分がいて、そんな自分に自分は微笑んだ。今回もそしてこれまでもお世話になっているマッシュルームはシビレタケ属に属する。そんなシビレタケ属のマッシュルームを食して、地獄に行くことを悟って感謝して、涙して、そんなマッシュルームたちのさらなる生命の発展を祈って無心で踊っている自分に痺れた(シビレタ)ではないか!
そのようなことを思った後にふと時刻を確認すると、時刻は午後7時半を迎えていた。今日のセッションの前には、木曜日に迫ったハーバード神学大学院(HDS)のオンライン面接に向けて準備をしている自分がいた。ハーバードは地獄行きの自分を引き受けてくれるほどに懐の深い存在なのだろうか。とにかく与えることだ。とにかくGiveなのである。木曜日のオンライン面接の時にも感謝とGiveを。そして仮にHDSに招いてもらえたならば、そこでも感謝とGiveだけなのだ。とにかく自分にできるのは感謝を捧げることと、誰かが少しでも笑って喜んでもらえることに寄与していくことだけなのだ。それ以外にはないのである。ここからの学術研究も全ての実践もそうなのだ。感謝とGiveなのだ。笑いと喜びなのだ。
夢である。この人生はうたかたの夢の如しではなく、まごうことなき夢なのである。覚醒?目覚める?寝ても覚めても私たちは無限に続く夢の中を生きているのである!“Have a sweat dream”ではダメなのだろうか。これまで自分はとんでもない間違いを犯していたようだ。自分も他者も目覚めないのである。決して目覚めることのない深い、深い夢をみんな生きているのである。目覚めなき永遠なる夢を少しでも幸せな夢にするだけでよくはないだろうか。夢から覚めさせることもまた強欲のなす業ではないだろうか。夢に次ぐ夢。人生は夢だったし、夢であり、夢であり続けること。あぁ、これが輪廻なのかもしれない。なるほど仏教か!仏法の中に実は夢としての人生を幸せに終わらせて夢ではなくさせ、輪廻から解脱させるための智恵と方法が書かれていることを自分はもう気づいているようだ。自分はもうそれに気づき、それが何なのか薄々知ってしまっているようだ。フローニンゲン:2024/2/11(日)19:43
12107. 第26回シロシビン・セッションの振り返り(その7)
もうそろそろしたら振り返りに区切りを付けて、ゆっくり入浴をして、早めに就寝してぐっすりと寝よう。
なぜこうも毎回学びが多いのだろうか。自分のような浅学無能な人間にはその学びは汲み尽くせない。だからやり続けるのだ。だからこの実践が苦しくても、仮に肉体的に死にそうになっても続けるのだ。自分の命も人生も他者に捧げているのである。毎回その誓いを大きくする。
「あっ!」という言葉が漏れた。今摂取しているシロシビン・マッシュルームは別名“Golden Teacher”と呼ばれるものなのだ。それは「黄金の先生」なのである。それは自分にとって光としての先生なのだ。自分のように迷い多き人間にとっての導き手となる光としての先生なのだ。冗談でも、過大表現でも、過小表現でもなく、シロシビン・マッシュルームと仏法に全て書かれているのだ!真理は全てそこに書かれていているのである。全ての相対的な真理と全ての絶対的な真理とそれらを超越した超越的真理の全てがシロシビン・マッシュルームと仏法に隈無く完全に内包されているのである。あとはそれを紐解くだけなのだ。この作業は、この試みは骨が折れるし、心が折れそうになるし、死にそうにもなる。でも自分はそれを選び、シロシビン・マッシュルームと仏法に選んでもらったのだ。導いてもらったからにはそれに応えていかなければならない。シロシビン・マッシュルームと仏法と出会わない人生もあり得ただろう。しかし今世ではそれはあり得ず、自分は出会ってしまったのである。出会ったご縁に感謝をし、それに導かれるままに学びを続け、他者と社会に与え続けていくのである。もう同じことを何度述べたか分からないが、与えてもらうだけの人生は今日でおしまいである。明日から、今夜から、この瞬間からはもう与えることに全身全霊をかけた人生を歩もう。
前回のセッションは完全乾燥させたマッシュルームを5.3gほど摂取して、無限の淵に沈んでいき、宇宙大の膨大な情報に圧倒された体験をしたので、今日は1g弱分量を減らして4.4gほど摂取し、地獄行きを悟るという体験をさせてもらった。自分の体重からすると、4.0gほどで十分なようだし、何なら3.0gでも十分なように思えた。次回仮に地獄行きを宣告されること以上のものを望むのなら4.0g摂取することにし、それを望まずもう少し落ち着いて静かに内面探求をすることを望むのであれば3.0g摂取することにしたい。親友のメルヴィンに教えてもらったクエン酸豊富なレモン汁を刻んだマッシュルームに加えることは本当に強力である。今日も完全乾燥させたマッシュルームをみじん切りにし、そこにレモン汁を加え、その上から白湯を加えて10分ほど時間を置いた。そんな形で始めたのが今日のセッションである。セッションのログを付けているエクセルの方に次回は3.0gにしようと書き留めておきたいが、地獄以上のものを望む自分もどこかいるような気がして、ひょっとしたら性懲りもなく4.0g摂取するかもしれない。最後に、BGMとして流していた“Buddhism Music”は格別であった。このプレイリストは次回も活用することを検討したい。フローニンゲン:2024/2/11(日)20:06
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