6959-6965: アートの国オランダからの便り 2021年5月24日(火)
タイトル一覧
6959. 今朝方の夢
6960. 道を見つける人・作る人
6961. 思い出の伝承/今朝方の夢の続き
6962. 虹の架け橋
6963. メタ的なカネや経済思想に対するメタ的な批判意識の涵養
6964. トランスパーソナル経済学の創出に向けた18冊の書籍
6965. 1000年後の人間社会と地球に資する研究を希求して
6959. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。今日から新たな週となる。早いもので5月も今日から最後の週となるが、依然として寒さが残っている。実際に今家の中では自動で暖房がついており、家全体を温めている。
昨日、オーナーのペイトラさんから携帯にメッセージが届いた。郵便受けに入らない書籍を預かってくれていたようであり、家の外の雨よけのある場所のテーブルの上に置いてくれたそうだった。
メッセージのやり取りの中で、先日訪れたオランダ国内のリゾート地の写真が送られて来た。その場所の名前を尋ねてみたところ、Zoutelandeという場所らしい。
オランダ国内の南西のZeelandという街にあるその場所は、オランダ内でも天気が良いらしく、写真に写っていた海辺の様子はとても美しかった。ぜひ自分もいつかそこを訪れてみたいと思い、Google Mapsのお気に入りに登録をしておいた。
一夜が明けて、今日からもまた自分の取り組みをゆっくりと前に進めていこうという気持ちで満ちている。だがその気持ちはとても静かであり、落ち着きがある。
今朝方は2つほど夢を見ていた。1つ目の夢は、どこか不穏な感じが漂っていた。
私の周りには数多くの投資家がいて、投資市場が大荒れになっており、投資家たちは保有している資産を売ったらいいのか、あるいは買い増しをしたらいいのかを考えあぐねているようだった。
その瞬間はちょうどどの銘柄も暴落していて、すでにポジションを精算している投資家からすると、買いのタイミングのようにも思われるが、価格がもっと下落する可能性もあり、うかつに市場に入っていけないような荒れ模様であった。私は依然としてポジションを持ったままであり、買い増しを考えているほどであったが、それについてはもう少し冷静になろうと思い、環境変化を待つ方針にした。
次の夢の中で私は、日本の見慣れないリゾート地にいた。そこは山を切り開いて作られた場所である。
私は小中高時代の親友(NK)と一緒にスポーツ大会に出場していて、2人とも順調に大会を勝ち進んでいき、決勝まで進んだ。決勝は場所が変わるとのことであり、決勝が行われる場所まで移動する必要があった。
私はその会場まで空を飛んでいくことにし、空を飛び始めてみると、周りの景色がとても美しいことに感動した。確かにその辺りは人間の手によって切り開かれているのだが、それは暴力的なものでは決してなく、むしろ愛情と配慮のある形で開拓が行われ、自然と人工的なものがうまく調和しているように思えたのである。
そうした景色を眺めながらしばらく空を飛んでいると、決勝が行われる会場に到着した。すると、決勝はランダムで決められた人たちとチームを組んで行うチーム戦のようであり、各チームの戦いが終わるのはバラバラのようだった。というのも、それはチーム戦という形を採用していながらも、結局は個人同士で戦い、個人同士の戦いがどれだけ時間がかかるかは千差万別のようだったのである。
一応各選手の対戦終了予定時刻のようなものが札として配られていて、私の札には、結晶の開始時間が18:15、終了時間が21:00とあった。終了時間が随分と遅いなと思い、また決勝の種目の説明を受けたときに、それはあまり面白そうではなかったので、私は決勝を辞退することにした。
会場を後にした際に、両親が会場まで迎えに来てくれることになっていて、電話をかけると、両親は決勝の場所が先ほどの会場と違うものであることを知らないようだった。実際に2人は先ほどの会場近くに今いるそうだった。
車の場合、決勝の会場はそこから距離があるので、私は両親に迎えは要らないと述べて、自分で空を飛んで帰ろうと思った。そこで再び空を飛び始めると、気づいた時には私は大きなバスの中にいて、そのバスが今は使われていない廃墟となった建物の立体駐車場を上に上がっていた。
バスの運転手はプロのレーサーのようであり、ハンドル捌きが見事であった。駐車場の一角が廃れて危険な場所があったのだが、それも見事に避けながら、バスは駐車場の最上部まで上がり、そこでバスが止まった。そこから私は再び空を飛んで、目的地に向かって行った。フローニンゲン:2021/5/24(月)07:30
6960. 道を見つける人・作る人
時刻は午後8時半を迎えた。今、洗濯機が最後の大きな回転を終えて、静かに止まった。それはピタリと止まった。
最後まで全身全霊で進み、パタリと終わりを迎えること。その終わりは静けさに包まれていて、幸福感に満ちたものですらある。自分の最期もそのような形なのだろうか。
実は、今日は朝の7時まで寝ていた。普段4時から5時の間に起床している自分としてはとても珍しい。特に昨日何かあったわけでもなく、昨夜もいつものように10時前に就寝していた。
そうした状況において長い睡眠をするときは決まって、自分が変容の過渡期にいる時なのだ。確かにここ最近、自分がまた大きな変貌を遂げようとしているのを感じている。それは日々の日記にも暗示的に現れているように思える。
長い睡眠を取って目覚めてみると、そこにはまた新たな世界があった。自己は再生を遂げ、世界が新しく見えるということ。ただしそれは劇的なものではなく、むしろ小さな感動が詰まったような体験だった。
自分の植えた草花が目を出したときにふと感じる感動。それに似たような体験だった。
昨夜、自分は様々な道を見つける人なのかもしれないということを思った。様々な学習領域や実践領域に乗り出している自分を見てそう思う。
自分が見つけた1つの道をもっと深めてくれる人は他にいるように思えてくるのだ。その道にもっと関心を持ち、もっと深く探究をしていく人がこの世界にきっといるはずである。
おそらく自分は道を見つける人なのだろう。そして、後から来る人がその道を少しばかり歩きやすくするようにする人なのだろう。
数年前に、自宅の目の前の通りを工事している作業員の仕事の様子を長期的に観察していることがあった。その工事は数ヶ月にも及んでいた。
ずっと観察を続けていたある日、その工事は突然終わっていた。そして作業員たちの姿はもう全く見えなくなっていた。
その後、晴れの日も雨の日も、雪の日も、多くの人たちがその道を過ぎゆく様を眺めながら、あの作業員たちの働く姿を思った。
彼らは知らないのだ。自分が作った道をどのような人が歩くかということを。
それでも未来の人々のために懸命に道路を整備していた彼らの姿に大切なものを見出す。自分は彼らと同じなのだろう。
道を見つけ、道を作る人。その道をもっと広く深くしてくれるにふさわしい人はこの世界のどこかにいるのだ。
それは現代でないかもしれない。未来かもしれない。
自分はこれからも道を見つけ続け、道を作り続けていく。人知れぬ形で働き続けていたあの作業員たちのように。フローニンゲン:2021/5/24(月)08:52
6961. 思い出の伝承/今朝方の夢の続き
つい今し方、洗濯物を干し終えた。2日に1回のペースでこまめに洗濯をしているので、干すのが億劫ではない。むしろ洗濯という行為の中にも尊さを見出す。洗濯も掃除も、その行為を通じて浄化感を感じる。
先ほど洗濯物を干しながら、昨日に思ったことについて改めて考えていた。それは、「他の人の思い出が自分の思い出になる」ということについてである。
自分は他の人の思い出を受け継ぐ形で生きているのではないかと思うことがよくある。自分は他の人の思い出を受け継いで、そして自分独自の思い出を作っていく。そしてその思い出はまた誰かの思い出となる。
私たちの人生というのは思い出の伝承過程なのではないかと思えてしまうほどだ。記憶というのも似たような性質を持つのかもしれない。
記憶も思い出も伝承されていき、それは目には見えない集合的な空間に蓄積されていく。そのようなイメージが浮かんだ。
この一連の日記は、自分の日々の思い出を綴っているものに他ならないのかもしれない。そうであれば、この一連の思い出の手記が誰かの思い出になるのだろうか。
そうであれば、この一連の日記にも意味があると言えるかもしれない。この一連の日記は、名前の知らぬ他者と自分を繋げてくれる思い出の手紙なのかもしれない。
この時間帯になって今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私はコンビニの中にいた。どうやら1つ前のスポーツ大会に出場していた夢の続きのようだった。
大会の決勝に参加することを辞退した後、近くのコンビニに足を運んだ。大会に参加して随分と運動をしたので腹が減っており、何か食べ物を買おうと思ったが、そのコンビニには口にできそうなものが一切なかった。
コンビニ入った段階でその予感はあったが、周りにその他に店がなかったのでしょうがなかった。結局私は何かを食べることをやめ、その代わりにスパークリングウォーターでも購入しようと思った。
水の置かれたコーナーに行ってみると、スパークリングウォーターが一切置かれていなかった。念のため店員に尋ねてみたところ、売り切れになってしまっているとのことだった。
結局私は水を購入することすらやめ、何も買わずにコンビニを出た。そのような夢の場面があった。
その他にも、エレベーターに乗っている夢を見ていた。そのエレベーターには大学時代の友人が2人いて、そのうちの1人のフィールドホッケー部に所属していた友人がふと、大学に入ってから身長が18cm近く伸びたということを教えてくれた。
確かに入学時には彼とあまり身長が変わらなかったが、いつの間にか彼の背が高くなっているなと感じていて、大学に入ってからそんなにも身長が伸びることがあるのかと驚いた。そんな夢も見ていた。フローニンゲン:2021/5/24(月)09:18
6962. 虹の架け橋
ふと時間軸が1000年先に伸びた。ただし、その時間意識は地球にとどまっていた。
仮に1000年後もこの惑星が存続していたとして、自分は1000年後の地球に対して、人類に対してどのような寄与を今この瞬間にしているのだろうかと考えた。
自分の日々の行動は、1000年後の地球と人類とどのようにつながっているのだろうか。そのようなことを考えた。
小雨が降り始めた。雨が静かに新緑の木々の葉を打っている。小さな雨粒。無数の雨粒。
今からもう4年も前のことになるだろうか。あの日自分は、フローニンゲン大学のコンピューターラボにいた。
そこで研究対象領域に関する知性を数式で表現し、その挙動をコンピューター上でシミレーションしていた。コンピューター画面に移ったシミレーション結果を眺めながら、改めて初期値のごくわずかな違いが、システムの挙動と最終的な結果に及ぼす影響の大きさに驚いた。
だがそれは知識としてすでに知っていることであり、新しい驚きではなかった。単純に自分が研究対象としているものに対して実際にそれが起こり、コンピューターの画面に映るその事象を目の当たりにしてその現象の実在を再確認した喜びがあっただけである。
しかし、その喜びの後に私は思わず黙り込んだ。そして静かな気持ち、いや神妙な気持ちがやってきた。
コンピュターに移るシステムの挙動を拡大してみたときにそれが起こった。システムの挙動をズームインしてみたときに、そこにシステムの1つの小さな動きを見て、初期値のみならず、システムの1つ1つの動きが最終的な大きな結果をもたらしたのだと気づいたのである。
確かにシステムの挙動はすでに初期値に裏打ちされているものかもしれない。その観点において、システムの動きは決定論的であると言える。だがそこに決定論的ではないものも確かに存在していると直感的に思ったのである。
システムの初期値が定められ、システムの挙動が決定論的であっても、システムの帰結は予測不可能な非決定論的なものなのではないかと思ったのである。研究対象としていたのは意思を持ち、他者やこの世界というそれすらもがオープンシステムかつダイナミックシステムな人間である。そんな人間の一生は、決定論的な側面もありながらも、それを遥かに超えたものであると思えたとき、静かで神妙な気持ちがやってきた。
また、シミレーションの中で示していたシステムの1つ1つの挙動というのは、私たちの日々の発言や行動と置き換えることができる。それがいかに些細で小さなものに思えても、それは途轍もない意味を含んでおり、それがあるからこそ大きな帰結がもたらされることがあるのだということを歴然と突きつけられたような感覚があった。
今日の取り組み。その瞬間のアクション。それはもはや当人の認識や意図を遥かに超えた超越的な意味と超越的な影響力があるのではないだろうか。
今日、今この瞬間に綴っているこの日記も、1000年後の人類と地球に対して何か超越的な意味と影響があるのではないかと思うと、また自分は前を向いて歩いていこうという気持ちになる。
形而上の世界と形而下の世界は、このようにして連続している。それらを繋ぐ架け橋のような虹のようなものが見えてくるかのようだ。
日々の自分の取り組みの1つ1つは、そうした虹の架け橋を作っていくものなのだ。フローニンゲン:2021/5/24(月)10:49
6963. メタ的なカネや経済思想に対するメタ的な批判意識の涵養
つい先ほど買い物から帰ってきた。買い物は良い気分転換になる。
今日もまた、バスカーの全著作物の集中的な読書を続けていた。買い物に行く前に、昨日から今日にかけて、バスカーの初期3部作を読み終えた。その過程の中で得られた気づきは多く、今後の探究の方向性が徐々に明確になっていくことに感謝をしていた。
先ほど近所のスーパーに向かっている最中に、カネのメタ的特性について考えていた。暗号資産を含めたデジタルマネーが普及していく中で、「貨幣」という言葉では不十分であるから、あえてカネという言葉を使っておく。
政治も教育も芸術も、およそ人間の活動全般に渡って、経済思想の影響を受けていない活動領域を見出すことが難しい。そこには必ずカネが関与していて、カネと経済思想というのは全人類を呪縛するようなメタ的な特性を持つものだということが見えてくる。
そうしたメタ的な特性を持つ存在が脆弱性や病理を含んでいることの恐怖を思う。自分の関与すべき領域はやはりこの点にあるようであり、メタ的なものに対してメタ的な批判を加えていくことが自分の役割のように思えてくる。
メタ的なものを変容させていく際には、発達理論の原理にあるように、同じ次元で表層的にそれに介入しても効果はほとんどなく、その対象をメタ的に捉え、メタ的に関与していく必要がある。いや、より厳密には、メタ的な視点を維持した状態で個別具体的な関与を積み重ねていく必要があるのだ。
言い換えると、絶えずメタ的な視点の自己を保持しておき、介入対象領域の個別具体的な知識と理解に基づいた個別具体的な関与をしていくことが真の変容には不可欠となる。
メタ的な批判をするための、メタ的な批判意識を涵養していくこと。その修練をこれから行っていく。
先日に書籍や論文を書くことは今後あまりないかもしれないと思っていたのだが、ふと学術論文をまた執筆したくなってきた。上記のテーマに取り組むことが1つの重要なライフワークであれば、そのテーマに対して少しずつ論文を執筆することを通じてアプローチするのがいいのではないかと思ったのである。
仮に今後数年以内に再び大学院に戻ることがあれば、そこでは上記のテーマに対して少しずつ小さい論文を執筆していき、同テーマに対する考察をじっくりと包括的に深めていこう。論文を執筆するというのはその格好の道となる。
既存の経学学派の思想を探究していると、どのような学派も固有の合理化を計り、イデオロジー的な神秘化を免れることはできないことに気づく。合理化·神秘化された思想そのものに光を当てて検証していくこと。それもまたメタ的な認識が必要であり、同時に各学派の思想に対する個別具体的な理解が必要となる。
やることは多く、その実現には長大な時間がかかるであろうが、その道筋は随分明確なものになっていることが救いである。この取り組みにやりがいのようなもの、かつ使命感のようなものを感じる。フローニンゲン:2021/5/24(月)16:58
6964. トランスパーソナル経済学の創出に向けた18冊の書籍
時刻は午後7時半を迎えた。今、穏やかな夕暮れ時の世界が広がっている。
利己的な活動に伴う限定的なエネルギー。一方で、利他的な活動に伴う無限のエネルギー。
そのような対比構造が見え、今自分の内側には後者のエネルギーが流れている。そのエネルギーに満たされる形で、何かに突き動かされながら日々の探究活動と創作活動に従事している。
人間社会に流れている血としてのカネ。現代においてそれは汚れており、汚れを生み出す構造的メカニズムの特定に強い探究意欲がある。そしてどのようにすればその血が浄化され、健全な形でこの社会の隅々に流れていくのであろうかと考える。
ここ最近は連日書籍を注文しているような気がする。今日は結局、トランスパーソナル経済学の創出に向けて、関連書籍を18冊ほど購入した。
いくつか自分の中で仮説のようなものがあり、その仮説に関連した学術書がないかと調べてみると、ことごとく良書があることに驚くと共に、先人の研究に敬意を表する。
本日購入した書籍の例として、ロイ·バスカーの社会科学の方法論に関する論考を午前中に読んでいると、既存の経済学はそもそもどこかその方法論におかしさがあるのではないかと思い、批判的実在論をもとにした新たな経済学の方法論に関する書籍を探してみたところ、2冊ほど良書があった。
そこからここ6年間ほど探究と実際に関与してきた暗号資産について考えが及び、新たな発想と機能に裏打ちさせた暗号資産についてもより深く理解する必要がある思って調べてみたところ、それに関しても良書を見つけた。また、世界を覆うカネの認識は、キリスト教神学と切っても切り離せない関係になっているのではないかと思っていたところ、そのトピックに関する良書を見つけることができた。
それ以外にもまだある。マックス·ウェーバーが世界の宗教における経済倫理に関する包括的な分析をしていることを知り、ケンブリッジ大学出版から良書が出ていることを発見し、宗教意識と経済思想の関連性に気づいていたところ、そのテーマに関する良書がルートリッジ出版から出ていた。そのような形で、結局下記の18冊の書籍を購入した。
ここからは、それらの書籍から派生させていく形で次々と関連書籍を読み進めていき、それらの書籍で言及されている理論や観点をメタ的に束ねていき、最終的には自分なりの観点を提出すること。それを実現させるべくこれからの探究を進めていく。
1.Economics and Language (Economics as Social Theory)
2. Beyond Rhetoric and Realism in Economics: Towards a Reformulation of Methodology
3. The Ontology and Function of Money: The Philosophical Fundamentals of Monetary Institutions
4. Money Code Space: Hidden Power in Bitcoin, Blockchain, and Decentralisation
5. Nature of Money: New Directions in Political Economy
6. Divine Currency: The Theological Power of Money in the West
7. The Time of Money (Currencies: New Thinking for Financial Times)
8. Capital and Time: For a New Critique of Neoliberal Reason
9 . Money: The Unauthorized Biography--From Coinage to Cryptocurrencies
10. God and Money: A Theology of Money in a Globalizing World
11. Theology of Money (New Slant: Religion, Politics, Ontology)
12. Max Weber's Economic Ethic of the World Religions: An Analysis
13. Political Economy and Religion: Essays in the History of Economic Thought
14. Economics And Religion: Are They Distinct?
15.Religion and Economics: Normative Social Theory
16. Economics as Religion: From Samuelson to Chicago and Beyond
17.Capitalism and Religion: The Price of Piety
18.The Enchantments of Mammon: How Capitalism Became the Religion of Modernity
フローニンゲン:2021/5/24(月)19:53
6965. 1000年後の人間社会と地球に資する研究を希求して
毎日が充実している。純粋にそう思う。
今、自分の内側に途轍もなく大きな利他的衝動が立ち現れていて、それに突き動かされる形で日々の自分の取り組みに従事できていること。それが毎日充実感を感じさせてくれているのだろう。
だが、そうした充実感を感じながらも、探究のテーマそれ自体は深刻なものである。人間社会において抑圧的に働いている現代の経済思想は、人間界だけではなく、地球という惑星に多大な負の影響を与えている。この問題についての探究を行っているがゆえに、純粋に心地の良い充実感とは言えないのではないかと思えてくる。
改めて、自我とカネの本質は似ていることを思う。どちらも虚構の産物なのだが、同時にそれは因果的力を持つがゆえに、バスカーで言うところのリアルなものでもある。厳密には、バスカーが提唱する3層のリアリティの階層の全てに関係しているのが自我とカネなのだろう。
私たちが自我をどのように捉えるかという点と、カネをどのように捉えるかという点の関連性を探る。自我とカネの認識もまた色即是空·空即是色性に気づくというトランスパーソナル的な認識を頂点にして、そこに至るまでの認識の段階的プロセスをまずは明らかにしていく。それについては、既存の発達心理学、とりわけ自我の発達モデルが大きな貢献を果たしてくれるはずである。
自我とカネの相対性(虚構性)に気づいたことが完全なる解放をもたらすわけではないが、それは完全なる解放に向けた重要なプロセスになる。まずはその論点に着手していく。
発達心理学の観点の身ならず、神学の観点からも既存の経済思想を再検討していこう。そして、トランスパーソナル経済学思想とでも呼べるような新たな経済思想の創出を模索していく。
人間から経済活動を奪うことは難しく、それは現在のパラダイムにおいては不可避であるが故に、全人類の幸福と自由、さらには生態系と地球の保全と治癒に資する新たな経済思想の創出を模索していく。
経済思想なるものが不要になることが究極的な姿なのかもしれない。そのような人類社会の実現に向けて、経済思想を彫琢し続けていくこと。経済思想をトランスパーソナルな次元にまで高めていくことに寄与していくこと。それは自分が果たすべき重要な使命のように感じる。
最後に、本日浮かんだその他のアイデアとして、本日購入した書籍の中で、人類の歴史と経済思想の歩みを対比させた興味深い書籍があり、それに加えてウィルバーの“Up From Eden”を参照して、人類の集合規模の意識の発達の歴史を辿りながら、それと経済思想の発展を比較していく。そして、具体的にどのような経済思想のもと、どのような経済施策が生み出され、どのような社会運営がなされていたのかを調査していく。
本日購入した書籍の1冊は、そのテーマの探究に資する。経済思想に関する一連の研究は、もはや現代人や現代社会の治癒と変容のためだけにあるのではなく、時間的展望をもっとずっと先に伸ばしたものになる。
今朝方ふと思いを馳せた1000年後の人間社会と地球。少なくともそこまで射程を伸ばした研究をしていこう。フローニンゲン:2021/5/24(月)20:10
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