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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12163-12168:2024年2月20日(火)

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タイトル一覧

12163. 今朝方の夢

12164. 今朝方の夢の続き

12165. 今朝方の夢のさらなる続き

12166. 感謝の念と畏怖を感じさせてくれる法相唯識教学研究

12167. 夢幻的世界観の醸成/『唯識三十頌』の丸暗記に向けて

12168. 持戒・発心・法施・無畏施

12163. 今朝方の夢

時刻は午前2時半を迎えた。今の気温は5度だが、寒さは全く感じない。起床してすぐにシャワーを浴びてさっぱりし、2階のキッチンに上がってシロシビン・マッシュルームの栽培キットを確認したところ、数本ほど収穫しても良さそうなものがあったので収穫をして、先ほどオーブンで乾燥を始めた。このように栽培キットの6周目もまだまだ収穫があることを嬉しく思う。もちろん最初の収穫に比べたら収穫量は落ちているが、まだ確実に収穫ができる状態であることに驚き、感謝をする。ここからさらに収穫量が低減していくことが見込まれるが、それであればマイクロドーシングあるいはミクロドーシングとして摂取していけばいいかと思う。2週間に1回のシロシビン・セッションは高服用量で実施することを続けていくが、その途中の期間においてはマイクロドーシングあるいはミクロドーシングを今後の収穫量に応じて検討していこう。新しい栽培キットからはまだ頭が出ておらず、ハーバード神学大学院からの合格発表と同じく、どちらも気長に待ちたいと思う。

今朝方は夢の中で、野球のメジャーリーグで活躍したある有名な野球選手と話をしていた。その方と私は友人関係で、年齢は確かに干支1つ分ぐらい離れているが、誕生日が数日違いということもあり、そんな共通点からお互いに親近感を持っていた。それ以外にも海外で活動を長くしてきたという共通事項がお互いを繋げているようでもあった。その方が私に無邪気な笑顔を浮かべて、最近趣味で作った3つの陶器を見せてくれた。その方は野球の腕前が超一流なだけではなく、手先も器用で、見事な陶器を作っていた。3つの陶器は小さいものは湯呑みぐらいの大きさで、一番大きいものでも手に収まるぐらいものだった。その方曰く、周りの人たちはそれらの作品の良さを認めてくれないらしかったが、私は何の忖度もなく手放しに褒めた。その方は初めて陶器を作ったということを考えた時に、それらはやはり力作だと思ったのである。なので私も笑顔になって大いに褒めたのである。自然と褒め言葉が出たと言っても過言ではない。私は特に一番小さい湯飲みぐらいの大きさの作品が好きだった。ふと脳裏で、「これは納豆を入れてかき混ぜるのにちょうどいいな」と思っていたら、自分はどうやら本当に食事中のようで、机の上に置いてあった納豆を実際にその湯飲みに入れてみようかと思ったほどであった。しかし許可なくそれをすると失礼にあたると思ったので、それをすることはしなかったが、手元の餅がまだ完全に乾燥していない湯飲みを覆っていたカバーに付着してしまい、カバーの底が少し破れてしまった。これはまずいことになったとぞ思ったが、すぐさまそれを謝ろうと思って湯飲みをその方に返したところ、その方もすぐに底面に気づき、私が謝る前にその異変に気づいて大変だと述べながら修復作業に取りかかり始めるためにどこかに行ってしまった。これは早く謝っておかないといけないなと思ったところで場面が変わった。

この夢に出てきた3つの陶器は、仏教でいうところの三身を思わせた。人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に現した姿としての「応身(おうじん)」。悟りの智慧を含め、仏となった報いとして得た種々の優れた特性としての「報身(ほうしん)」。そして、仏が悟った真実・真理としての「法身(ほっしん)」の3つがすぐに脳裏に浮かんだ。フローニンゲン:2024/2/20(火)02:58

12164. 今朝方の夢の続き

時刻はちょうど午前3時を迎えた。今日は午前や午後にオンラインミーティングもなく、朝から晩までひたすらに唯識思想に関する書籍を読み進めて行こうと思う。仮にハーバード神学大学院に留学することになったら、現地で日本語の文献を読むことは研究目的上の古書でない限りは極力控えたいし、自然と日本語からは離れていくと思うので、今のうちに先日届けられた日本語で書かれた唯識思想の専門書を何度もすり切れるくらいに繰り返し読んでおきたいと思う。日本語で唯識に関する知識を獲得していくことは、後々英語やサンスクリット語、チベット語、中国語で唯識思想について研究するに際して必ず役に立つはずである。そうした近い将来の研究を見据えて、渡米前のこの時期にしっかりと日本語でも唯識について知識を獲得しておきたいと思う。とりわけそれは言語的類似性ゆえに中国語での文献読解の手助けになるだろう。

先ほど夢について振り返っていたが、まだ覚えている場面が他にあるのでそれについても振り返っておきたい。

夢の中で私は、室内の野球場にいた。そこでは日本人の元メジャーリーガーたちが楽しそうに練習をしていた。その風景を脇で見ていた私も、彼らがまるで子供のように無邪気に野球を楽しんでいるのを見てこちらも楽しさを感じていた。彼らの大半はもう現役を引退していたが、中には現役時代と変わらない体を維持している人もいれば、随分と体重が増えてしまっている人もいた。体重が増加している人であってもさすがは元メジャーリーガーで、そのプレーには輝くものがあった。そのような場面があった。

もう1つ覚えているのは、母が流暢な英語で自分と話をしていた場面である。見慣れない個室で、母はソファーの上で寛いでおり、母に日本語で話しかけたところ、それに対して流暢な英語で応答されたので驚いた。そこからは私も英語で話をすることにし、母の話を聞くと、何やらこれまでお世話になっていた美容師さんを変えて、新しい美容師さんに髪を切ってもらうことにしたらしかった。その背景には、以前の美容師さんが母と音楽に関する趣味が合わないことが発覚したことが原因にあるらしかった。たかが音楽の趣味ぐらいでと思ったが、母にとってはそれが大事なようで、その美容師さんは母の音楽の趣味についていけなかったので美容師を変えることにしたそうだった。そのような夢を見ていた。

最初の夢に関しては、兎にも角にも楽しんでいる人を見ることによって楽しみの感情が伝染することを教えられたように思う。自分もまた日々の自らの取り組みを純粋な子供のように大いに楽しんでおり、その姿を共有することもまた何か社会貢献につながるのではないかと思わされた。後者の夢については、その公案が意味することを掴むのは難しい。ただ母がネイティブと思わせるような本当に見事な英語を話していたことには驚かされたことは印象的である。夢の中の母が自分の女性性のシンボルだとしたら、女性性を司る自己の側面における英語発話能力が突如として飛躍したことの現れだろうか。そのようなことを考えさせられる。フローニンゲン:2024/2/20(火)03:14

12165. 今朝方の夢のさらなる続き

今朝方収穫したシロシビン・マッシュルームも順調にオーブンでの乾燥が進んでいる。今日はその様子を眺めながらの唯識研究に多くの時間を充てていきたいと思う。朝の身体実践と創作活動を終えたので、午前4時を迎えようとしているこの時間帯から唯識思想に関する専門書を読み進めていこうと思う。久しぶりに日本語の書籍を連日読んでいると、日本語が大地に染み渡っていくかのような感覚になるのが不思議である。今は少しばかり英語の書籍からは離れているが、再び英語の専門書に戻った時には、この期間が熟成発酵期間となり、また自分は英語空間に存在する無限の文献から養分を大いに汲み取っていくであろう。

先ほどすでに今朝方の夢について振り返っていたように思うが、夢にはさらに続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。

夢の中で私は、現在開催しているゼミに参加しているある受講生の方と1つの部屋をシェアして生活していた。実際には部屋は2つあり、1つは仕事や勉強をするための部屋で、もう1つは寝室やキッチンがある部屋だった。どちらもともに広々としていたので2人でシェアする分には何も問題なく、むしろ1人でそれを使おうとすると広すぎるぐらいであった。私たちは年齢も近く、価値観もかなりの部分を共有していたので共同生活は順調であった。ところが、私たちの部屋に少し年上の女性が引っ越してくることになり、そこで少し問題が起こった。その女性もきちんと契約書を家の所有者と締結しているため、邪険に扱うことはできなかったのだが、彼女がやたらと私たちに部屋のスペースや使い方に関して細かなことを要求してくるため、それに困っていた。一応彼女の要望をまずは聞き、部屋のどこをどのように使いたいのかを確認していった。最後まで彼女がこだわっていたのは仕事部屋の机の位置であり、彼女は日当たりが良く、明るい場所にこだわっていて、そこにはすでに私たち2人の机があったので、彼女の要望をどこまで叶えるのかについて悩まされた。彼女は引き続き細かな要望をするものだから、ついに私は嫌気が差して、その家を出ていくことにし、1人で生活を始めることにした。すると気分がとても晴れやかになり、やはり自分は他者に気を遣わず、ひとり気ままに生活していくことを好んでいるのだと改めて思わされた。そのような夢を見ていた。

この夢にあるように、自分には二面性があり、人に全く気を遣わないという側面と人に気を遣いすぎるという側面がある。それらの中庸を歩めればいいのだが、なかなかそれが難しく、そうした両極端の側面が表に出てくるのを防ぐために、他者と共同生活をすることはおろか、できるだけ人と関わらないようにしている。今もそうした行動特性があるなということを改めて気付かされ、今後もそれはあまり変わらないのではないかと思う。ただし、唯識思想を学び始めてから、まずは身近な他者との関係性からもう少し自分の心の特徴を観察することに努めている。まずはそうしたスモールステップから実践を始めていき、無理に人間関係を広げず、それでいて人間関係を閉じすぎないようにして、ごく少数でいいので深い人間関係を築いていくようにしていきたいと思う。フローニンゲン:2024/2/20(火)04:08

12166. 感謝の念と畏怖を感じさせてくれる法相唯識教学研究       

研究したいことがたくさんあることの幸せ。それに想いを馳せるだけで幸せな気持ちになる。今の自分はサイケデリクスと瑜伽行唯識学派の研究に専心しており、学術的な業績を積んでいくことに関してはとりわけ後者の研究に勤んでいきたいと思っている。サイケデリクスについては今のところすぐに論文を執筆するような予定はなく、むしろサイケデリック実践と文献調査を基にしてサイケデリクスに関するコンサルティングを企業や国に対して提供することや、一般の人に向けた啓蒙活動に従事していくことを活動の主にしている。一方後者については兎にも角にも学術的な業績を積んでいくことに主眼を当て、研究の過程で得られたことを多くの人に共有していこうというスタンスを持っている。そのようなことを考えながら、いつか唯識思想に関するサンスクリット語の原典やチベット語と中国語の翻訳書を豊富に揃えている研究所で唯識思想の研究に従事したいと思った。世界の大学のどこかにそのような場所が存在することを期待する。少なくとも、貴重な文献にアクセスできるネットワークと力を持った大学は存在しているはずであるから、最もネットワークと力を有するその大学に所属して、思う存分サンスクリット語の原典やチベット語と中国語の翻訳書を読み込んで研究三昧を送りたいものだという思いが湧き上がっていた。そうした研究に向かう前段階として、昨日に書き留めていたように、まずは日本における法相唯識教学の研究を深く行いたい。飛鳥時代まで遡り、そこから明治時代にかけて長大な時間をかけて発展してきた日本の唯識思想の歴史的発達過程を研究してみたい。それくらいの時間スケールで研究を進めていくのは今回が初めての試みのような気がする。逆に言えば、仏教はそれくらいの時間スケールで研究に当たらせてくれる自分にとってはかけがえのない存在なのだと思う。

1000年を超えるオーダーで研究活動に勤しむとき、自らの小ささを感じ、それが無我に向かっていく歩みを後押ししてくれるのではないかと思う。すなわち、表向きは唯識に関する学術的な研究なのだが、深層的にはそれは自己の成長実践につながっているのではないかということである。飛鳥時代や奈良時代の文献を紐解くとき、自分はその瞬間にどのようなことを感じ、何を思うだろうか。1000年以上も前に生きた人が残した書物と触れるとき、先人が残してくれた言葉1つ1つに感謝の念を感じるに違いない。またきっと畏怖心も芽生えるだろう。感謝の気持ちと畏怖の気持ちを持ちながら学術研究ができることに素晴らしいことはないのではないかと思うし、そうした学術研究が自分の心の成長につながらないはずはないとも思う。サンスクリット語だけではなく、漢文の読解能力を高めることに向けても意欲が高まってきた。今日の研究活動も将来の壮大な研究に向けての着実な一歩となる。フローニンゲン:2024/2/20(火)06:17

12167. 夢幻的世界観の醸成/『唯識三十頌』の丸暗記に向けて 

今朝は午前2時頃に起床し、そこから読書に没頭していると気がつけば午前9字半を迎えようとしていて、同時にまだ9時半であることがうれしくなった。今日も夕食前までまだまだ唯識思想の勉強ができると思うと、それだけでもう幸せな気持ちに包まれ、自己がとろけてしまいそうになる。

ここ最近は2週間に1度のシロシビン・セッションが影響してか、阿頼耶識に変化が見られ、蓄えられていた種子の顕現と浄化によって、阿頼耶識自体の浄化が進んでいる印象である。それは毎日見る夢の世界とその内容の観察から言える事柄であり、少し不思議な現象としては、この数年以内に見ていた夢が覚醒時においてまるで走馬灯のように駆け巡る瞬間があるのだ。大抵その現象が起こる時は心身がリラックスしている時で、ジムで筋力トレーニングをしていたり、自宅で瞑想実践をしていたり、入浴をしている時やコーヒーを飲んでホッと一息ついた時に生じることが多い。また、これまで見てきた夢が覚醒意識の最中で回想される頻度が高まれば高まるだけ、夢の世界が物理的現実世界に流れ込んできて、両者が溶け合っていくような感覚が増す。その結果として、夢幻的世界観が醸成されていく。この世はまるで夢の如しという世界観である。ここからさらに継続してシロシビン・セッションの実践を続けていくことで、この世界観がさらに深まっていくのではないかと思われる。この世は夢の如しものであると述べたが、夢のようではなくて、それが本当に夢であることに気づいた時、すなわち世界即夢の認識が完全に立ち上がった時に、自分は夢から真に目覚めるのかもしれない。

それ以外に考えていたこととして、瑜伽行唯識学派のエッセンスが詰まっている『唯識三十頌(中国語訳)』を全て暗記しておけば、いつでもどこでもその内容を回想することができ、そこに立ち返ることでその瞬間の自分の言動を含めた全てを客体化し、心の成長につなげていくことができるのではないかと思い、『唯識三十頌』を丸暗記することにした。わずか30の詩、文字数にして600字ほどなのでそれほど暗記は難しくないだろう。写経と音読を通じて丸暗記することを試みてみよう。中国語の漢訳が1枚のPDFでまとまっているものを見つけたので、それを近々近所のコピー屋で印刷し、四六時中それを眺めるようにすればさらに暗記が進むだろう。こうして暗記された唯識の教えは、サイケデリック実践における体験の道標になることは間違いなく、体験の導入と進展及び解釈に大きく資するだろう。精神統一の意味合いも含め、また唯識思想の体現化のためも含め、早速裏紙に写経をすることから始めてみよう。その際に1つ1つの言葉を口に出していき、音読をしながら写経することを意識したい。フローニンゲン:2024/2/20(火)09:27

12168. 持戒・発心・法施・無畏施

時刻は午後2時を迎えた。午後も引き続き唯識関係の書籍を読み続けている。ちょっと一息ついて、ここまでの読書の中で考えていたことを少しまとめておきたい。

仏法を学べば学ぶだけ、確かに自らの救済と心の成長の道がより鮮明になってくる一方で、自分の小ささに嫌というほど気付かされて苦しくもなる。そうした苦を眺めていると、釈迦が述べたように、人間は本当に様々な苦を経験して生きる存在なのだとわかる。この苦を引き受けながら、ゆっくりと着実に苦からの解放に向けての学びと実践を継続させていき、同じように苦しんでいる人たちの救済に向けた取り組みをしていきたい。凡夫から菩薩への道を歩き始めたらもう後には一歩も引いてはならないということ。脇道に逸れることなく、愚直にその道を歩いていくこと。その決意を「持戒(じかい)」と呼ぶ。自分はその決意を持った。そしてそもそも、凡夫への目覚めを通じて、菩薩に向かうという心が起きたことはまさに「発心」であった。この発心と持戒を初心として忘れることなく日々精進していきたい。

もちろんある特定の個人を救うことは極めて尊いことだが、自分がこれから大切にしたい取り組みは特定の個人というよりも、大乗的な発想で、できるだけ多くの人を救いたいという思いがある。自分を含めた多くの人が、悩みや苦しみから解放されるような取り組みに従事していく。今後の情報発信も協働プロジェクトも全てその思想に基づいて行っていく。逆に言えば、ある特定の個人の救済はそれを専門とする人に任せ、当面自分はそこには全く関与しないようにする。また、布施の概念において、自分は人に財を施すよりも、仏法探究や直接体験から得られた真理を施すという「法施」を出し惜しみなく全身全霊で行っていきたいと思った。それは自分の言葉で語ることを通して実現したく、自分の言葉で誰かの心が少しでも安らかなものになるのであれば、それは「無畏施」としての意味を持つだろう。とにかくゆっくりと、凡夫から菩薩への道を他者と共に歩んで行きながら、多くの人の悩みと苦からの解放に尽力したいという気持ちで一杯だ。そんな生き方を通じて力尽き果てるのであれば自分の人生は本望だと言える。フローニンゲン:2024/2/20(火)14:15

 

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