6944-6952: アートの国オランダからの便り 2021年5月22日(日)

タイトル一覧
6944. 今朝方の夢
6945. 今朝方の夢の続き/部屋の模様替え
6946. 部屋の模様替えを終えて
6947. 反実仮想/引き受け
6948. 己のダルマ/名前が示唆する究極的な役割
6949. 愛しい存在者たち
6950. 声と天命/地上と天上との触れ合いと戯れ
6951. 天上への道と地上への関与に向けて
6952. トランスパーソナル経済学の創出に向けて

6944. 今朝方の夢

時刻は午前6時に近づいている。今辺りは少し曇っていて、天気予報を確認すると、今日は夕方まで断続的に雨が降るようである。しかも幾分強い風を伴うそうだ。

昨日に、郵便受けに入らない大きさの書籍が何冊か届けられ、それは近隣の人が受け取ってもらう形にはなっておらず、指定の預かり所で受け取ることになった。

いつものようにその場所は、近所のコピー屋である。天気の様子を見て、今日の午後にでも散歩がてらコピー屋に足を運ぼうと思う。


今朝方の夢を静かに振り返っている。起床直前に印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、日本の見慣れない田舎のレストランにいた。友人たちと何か運動をした後のようであり、お腹が随分と減っていて、みんなで一緒に昼食を摂ることになった。

ところがそのレストランは店員がおらず、どのように注文をしていいか不明であった。私は席をふと立ち上がり、トイレに向かった。そのトイレは男性用なのか女性用なのかわからず、どうやら兼用のようだったので、その中に入ると、中の空間は随分と広かった。

個室がいくつかあり、そのうちの1つに入ると、隣に誰がいるようだった。雰囲気として女性のようだった。少し私は気まずさを感じ、男性の自分が隣にいることを気づかれないようにしようと思った。

すると、右隣の個室にも誰かがいて、下の隙間下からハイヒールが見え、またしても女性だった。2人の女性に両脇を囲まれることになり、気まずさが増し、さらに息を潜めておこうと思った。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は小中高時代の親友(SI)と、山をサイクリングして楽しんでいた。その日の天気は良く、サイクリングには持ってこいであった。

2人とも立派なマウンテンバイクに乗っていて、それは変速のギアが充実しており、山を登っていくのも苦ではなかった。その山には山の神がいるという噂があって、私はサイクリングの間中、どこか山の神をずっと感じているようだった。

車の通りもほとんどなかったので、友人と私は目的地まで競争することにした。スタートの合図もなく、私が突然速度を上げて走り出し、友人も私に負けまいと速度を上げてきた。

山を流れる川が視界に入った時、友人が私を追い越した。私は彼の後ろにぴったりつく形で、彼を風よけにして力を温存しておこうと思った。そして最後の勝負所で一気に速度を上げて彼を抜き去っていこうと考えた。

すると、目の前に2つに分岐する別れた道が現れた。私たちは右側の山道を登っていく必要があったのだが、なぜか彼は川につながる左側の道を選んでしまった。その道も後ほど右側の道と合流することになるのだが、それは随分と遠回りだった。

勢いよく左側の道を友人は降りていってしまい、また後ほど合流しようと私たちは互いに叫んだ。そこからは1人で山道をサイクリングすることになった。

太陽を遮るような木々が生い茂った山道に入ると、とてもひんやりとしていた。車道は引き続き車通りが少なく、サイクリングしやすかった。

山道のカーブはとてもうねっていて、見通しが悪かったこともあり、そこからはゆっくりマウンテンバイクを漕いで行こうと思った。すると、あるカーブを曲がったところで、小学校低学年の少年がヘルメットをかぶって倒れていた。どうやら自転車を漕いでいて転倒してしまったようだった。

彼は山の上から下っている最中に、スピードを出し過ぎて転倒してしまったようだった。幸い命に別状はないようだったが、怪我をしているように見えた。

最初彼の姿を見た時、すぐに助けようと思ったが、周りに数人ほど駆け寄っている大人がいたので、私が手助けする必要はないように思えた。この急な斜面でスピードを出して転倒をしてしまうと、大怪我をするか、最悪命を落としかねないと思った。そこから私は安全運転を心がけようと思い、同時にふと、山の神の存在を思った。フローニンゲン:2021/5/22(土)05:21

6945. 今朝方の夢の続き/部屋の模様替え

時刻は午前7時を迎えた。小雨がぱらつき始めた。それに加えて、今日は少々風が強い。

先ほど朝風呂に入り、ゆったりとした気分の中、穏やかな意識状態にあった。そこで今朝方の夢を再度振り返っていた。

すると、早朝に書き出したこと以外にも思い出すことがあった。夢の中で私は、日本のどこかの城下町にいた。ある旅館に私は1人で宿泊していて、ちょうどその日は観光に出かけようと思っていた。

すると旅館の外の通りに、長机が置かれていて、数人の比較的若い男性がそこに座って何かを考えていた。彼が何をしているのか気になったので話しかけてみると、どうやら日本の最難関大学の文系数学の入試問題を解いているようだった。

私はとても興味を持ったので、どのような問題を解いているのか見せてもらった。すると、わずか1行で記述された整数問題だった。

その問題を解く際に素因数分解を活用することは容易に想像されたが、そこからどのように問題に着手していけばいいのか悩む難問かつ良問であった。その問題に取り組んでいると時間を食ってしまいそうだったので、私は彼らに挨拶をして、観光を始めようと思った。

すると、どうやらその問題の回答時間がやって来たらしく、答え合わせの時間となった。その長机には、灘高の出身者が8人いて、彼らのうち2人が正解しているようだった。2人のうち1人は、東大の医学部に現役で合格し、もう1人は浪人しながら同大学の理科二類を目指しているそうだった。

てっきり私は彼らはもう大人だと思っていたのだが、確かに出会ったときには彼らはもう大人だったのだが、問題に取り組み始め、それを回答した瞬間に高校生ぐらいの年齢に戻っているようだった。

何か不思議な現象を目撃したなと思って私は観光を始めようと思った。一歩足を踏み出すと、「答えは40かぁ···」と私は呟き、その答えが自分で出せるかどうか、もう1度自分で観光しながらその問題を解いてみようと思った。そのような夢を見ていた。


朝風呂に入る前に突然、部屋の模様替えをしてみようと思った。それは大がかりなものではなく、机の配置を変えてみようと思ったのである。

オーナーのフレディさんが作ったスタンディングデスクがある辺りを仕事場として使っていたのだが、スタンディングデスクが窓に面しておらず、窓の外の風景を眺めながら日々の取り組みに従事したいと思った。

以前の家でも、窓に面した形で机を配置していて、1日の中で絶えず変化していく外の風景を眺めながら仕事をすることは、精神衛生上とてもよかった。そうしたこともあり、この日記を書き終えたら、軽く掃除機をかけて、机を移動させようと思う。

スタンディングデスクは固定されているので動かすことができず、大きな食卓を動かし、その机を仕事机にしてしまおうと思う。窓の外に広がる緑や空を見ながら活動に従事する生活。それが再び始まろうとしている。きっと自分はそれを欲していたのだろう。フローニンゲン:2021/5/22(土)07:26

6946. 部屋の模様替えを終えて

時刻は午前8時半を迎えた。早朝にふと思いついた部屋の模様替えを、先ほど早速行ってみた。

2階全体に掃除機をかけ、ラグマットとヨガマットの位置を変え、大きな食卓を移動させた。これまで食卓として使っていたテーブルがこれからの仕事机となる。

教会の窓を思わせるような開放的な窓に面する形でその机を配置してみた。物の配置を変えただけでこれほどまでに心が変わるのかと驚く。環境心理学や生態心理学の概念を持ち出すまでもなく、環境が心に与える影響の強さを思う。

今、程よい違和感がある。というのも、これまでの2ヶ月弱の間、スタンディングデスクは壁に面していて、しかもその部分の天井は低かったので、少しばかり圧迫感がある中で自分の取り組みに従事していたからである。

一方今は、開放的な窓に面して仕事に取り掛かることができ、心が大いに開放的になっている。今この日記を書きながら、ふと顔を上げると外の景色が広がっているということ。それがとても尊く、とても有り難いことのように感じられる。

食卓のスペースが広いこともあって、探究活動と創作活動も行いやすい。ここから外に広がる緑と空を眺めながら、自分のライフワークに打ち込めることを改めて嬉しく思う。


昨日改めて、自分が大切に思うことは心底大切にしていこうと思った。また、自分が探究したいことは、その衝動に身を任せて脇目も振らずに探究を推し進めていこうと思った。


自分のペースで周りを気にせずに活動に打ち込むことができているということ。それにただただ感謝するばかりである。


先日、自然を取り上げたドキュメンタリーを見ながら、つくづくこの世界に男女、雄雌が存在していることの神秘さを考えさせられた。この世界はどうして2つの性を生み出したのだろうか。性というものについて考えていると、ますますその奥深さが見えてくる。

2つがあってこその何か。2つが出会い、交わってこその何かがある。別々の存在としての2つが1つになること。それについて考えると、本当に神秘的な事柄が見えて来そうなのだ。


小雨がパラパラと降っている。今朝は曇り空であるが、天気が良い日には、仕事机の置かれている場所には朝日が差し込む。それがとても楽しみである。

明るく開放的な場所で仕事に取り組むことによって、ここからまた活動に微細かつ巨大な変化が現れるであろう。フローニンゲン:2021/5/22(土)08:46

6947. 反実仮想/引き受け

部屋の模様替えをし、仕事机を窓に面した形で配置したことによって、それが大いに自分を刺激している。自分の内側に目には見えないエネルギーのようなものが無尽蔵に流入し、自己はそれに裏付けられて活動に従事している。外の景色を眺めながら活動に従事することがこれほどまでに自己のあり方を変えてくれるのかと驚く。


「今日が晴れだったらなぁ···」そんなことを呟く自分がいた。基本的にどんな天気であっても、自己はこの世界の1人の遊戯者として絶えずその瞬間にあり続けているのだが、今日は机を外の景色を眺められる場所に変えたが故に、晴れの世界を眺めることに憧れたのだろう。

反実仮想的な発想がそこにあったのだ。そこでふと、人間の発想というのは実は絶えず反実仮想的なのではないかと思ったのである。

バスカーが指摘するように、私たちの大多数は「デミリアリティー(半リアリティ、部分的リアリティ、虚構的リアリティ)」の中を生きており、そこは反実仮想に満ちた世界である。いや厳密には、そこで生起する発想そのものが反実仮想的なだけではなく、その世界そのものが反実仮想的なのである。


そのようなことを考えていると、窓の外の車庫に止めたトラックに誰かが近づいて来た。見ると、オーナーのフレディさんの協働者のバスだった。今日は土曜日なのに仕事だろうか?そんなことを考える。


苦難を改変することなく受け入れて進むこと。呪縛的·宿命的苦難をありのままに引き受けて生きること。

今の自分が、いやこれまでの自分を含めてずっと自分にはそうした課題と生き方があった。その課題を課題のまま引き受けて生きていくこと。それをこれからも続けていく。


真に自分にとって重要な活動に従事できているということ。自分にとって大切ではない事柄には一切煩わされずに日々を生きることができているということ。それに感謝をする。

自己を深め、この世界に関与するための探究や実践に自分の時間を存分に充てることができているという幸運とその責務。そこには必ず責任のようなものがある。責任無くしてはなし得ないものがあるのだ。

少なくともここからの2年間は、集中的な探究活動を1人行っていく。それは1人で行わなければならないものである。

学び合いの大切さ、そして協働の大切さは重々承知である。だが、自分にとって最重要なもの、至高的な重要性を持つテーマは、究極的には1人でその探究を推し進めていく必要がある。


マークの愛猫のムースではない黒猫が敷地内に入って来た。彼ないし彼女は、1人で花壇の周りを歩いている。彼ないし彼女は自分の写し鏡のようだ。

あの黒猫は私。私はあの黒猫。そして私は、あの黒猫と私を今この瞬間にあらしめている全存在の基盤そのもの。フローニンゲン:2021/5/22(土)11:24

6948. 己のダルマ/名前が示唆する究極的な役割

自分はこの広大な宇宙における1つの超新星のような存在なのだろうか。この広大な宇宙で人知れぬところで爆発し、また新たな形で誕生する超新星。それが知覚されてくるかのようであり、自分の姿はそれに重なる。


正午を迎えようとしているフローニンゲン。少し晴れ間が見え、世界がほのかな明るさで彩られている。

書くこと。作ること。自分にはやはりそれしかないということに戻ってくる。

書くことに関して言えば、とにかく表現したいことを表現したいままに表現することができるこの一連の日記という形式とその存在そのものに多大な感謝の念を持つ。日記がなければ一体自分はどうなっていたのであろうか。

この数年間の日々、そしてその積み重ねは、そのようなことを思わせる。日記を綴り続けて来たことによって初めて存在している今の自己。

日記は自己が立脚する時代精神や環境との相互作用によって執筆されるものであり、同時に日記という実践形式によって固有に形取られる自己が確かに存在するということを感じる。そして今となっては、自分はもうそうした自己を超えているのであるが、超越的な自己は依然として日記を必要としている。

日々を記すことがなぜここまで重要なのだろうか。それは相対的な自己も絶対的な自己も、絶えずこの瞬間という時間によって紡ぎ出される瞬間瞬間に存在しているからだろうか。

いや、絶対的な自己、すなわち超越的な自己は時間を超えて存在しているはずなのだ。そうなってくると、日記というのは時間を超越する働きを持っているものなのかもしれず、また相対的な世界と絶対的な世界を繋ぐ媒介的役割を担っているのかもしれない。そうであれば、日記を綴るという行為の重要性がますます増してくる。

自分はもう書籍や論文を執筆できないかもしれない。今後も書籍や論文を執筆していく機会があるかもしれないが、それは自分のダルマを全うすることではない。日記を綴り続けていくこと。それが己のダルマを全うすることである。


名前の意味に立ち返り、真に名前に立脚する形で生きていくこと。付与された名前の深層的な意味を紐解き、その意味が内包する役割を全うするために生きていくこと。それについて改めて考えが及び、少しばかり自分の名前について調べてみた。

1つ1つ漢字の意味を辿ってみると、色々と発見があった。「加」という漢字は文字通り、何かを加えるという意味がある。常に自分は自らの内側に何かを加えていき、それを統合させる過程の中で生きている。それはまさにインテグラル理論の発想を体現した生き方のようである。

多様な視点や存在者を加えていくこと、包摂していくこと。そのあり方はこの漢字に集約されている。

「藤」という漢字はその意味というよりも、その読みである「ふじ」が派生した「不二」という漢字と「不死」という漢字に思いが巡る。ある時をきっかけにして、トランスパーソナル心理学や霊性学に目が開き、その探究を始めた自分。

それは自分の中での「不二」すなわち非二元の目覚めであり、同時に今の自分は非二元性へ他者が目覚めていくことを支援することに関心が向かっている。

また、「不死」に関して言えば、この世界の仮初め性を認めながらも、それだけであってはならない思いがある。仮初めの世界にあって永遠なるもの。不死のものを守ること、そして未だ隠された永遠なるものをこの世界に顕現させていくこと。その試みを行っていくことが自分の役割のように思える。

「洋」という漢字には広く大きなさまという意味だけではなく、外国とりわけ、西洋という意味があるようだ。広く大きなさま。今の自分は依然として矮小な存在である。

自己の矮小さを日々突きつけられながら、自分は多様な存在者、すなわち多者(the Many)をより抱擁包摂していけるような広く大きな存在になれるだろうか。

Big Mind & Big Heart。それを体現することができるだろうか。

両親から付与された名前の意味に則って生きようと日々修練すれば、いつかそれらを体現することができるかもしれない。「洋」という漢字の2つ目の意味。外国とりわけ、西洋。

あぁ、やはりそうであったか。自分はやはり西洋世界で生き続けることを宿命づけられているのだろう。

もう日本で生きることができないことは随分と前から知っている。これは母国で生きることを忌避していることを意味しない。むしろ全く逆であり、母国を深く愛するが故に、母国ではもはや生きられないのだ。

愛する母国への関与と貢献を果たすためには、自分は西洋に居続けなければいけないのだ。それはもう宿命なのだ。


「平」という漢字が最後にやって来た。それは安らかさと穏やかさを意味に持つ。また、静める、静まるという意味を持つ。

自分だけではなく、多くの人たち、そして生きとし生ける全ての存在が安らかさと穏やかさを持ってその命を全うして欲しいという願い。その願いの前に大きな障壁が立ちはだかっている。

この世界は途轍もなく乱暴で、大きく歪んでいる。歪みを是正し、乱暴さを沈めていくこと。

平和と平穏さの実現。それが自分の名前の最後の漢字が示唆することであり、それが自分の果たすべき究極的な役割に思えて仕方ない。フローニンゲン:2021/5/22(土)12:05

6949. 愛しい存在者たち

自分に何があるのか。自分にあるのは幸運だけなのかもしれない。

言葉にすることは難しいが、絶えず幸運と恵みのような何かが自分を見守り、自分を包んでいる。


つい今し方買い物から帰って来た。どうやら明日と明後日は祝日のようであり、両日共に近所のオーガニックスーパーが休みとのことだったので今日足を運んだ次第である。

早朝の天気予報から修正があり、午後にはもう雨が降ることはほとんどなく、曇りの状態が続いていた。とはいえ、突発的に小雨が降るのがオランダの天気の特徴のため、雲の色や形などを観察し、雨が降らないであろうタイミングで出かけた。

スーパーに行く前に近所の郵便局に立ち寄り、3冊の書籍を受け取った。1冊は、ウィルバーにも影響を与えた永遠の哲学の探究者であった思想家のフリッチョフ·シュオンの書籍である。もう2冊は、現代ピアノ曲とジャズピアノ曲の楽譜である。

シュオンの書籍はまさに永遠の哲学に関する世界の諸宗教の横断的比較研究に関する書物である。先日に届けられたシュオンの書籍と合わせて本書を読み進めていきたい。

書物を受け取ってから近所のスーパーに向かう途中で、市民の憩いの場のノーダープラントソン公園を通り抜けた。天気は曇りであるが、人々は思い思いの時間を楽しげに過ごしていた。

公園の中心にある屋外のカフェで談笑する人たち、バスケコートでバスケを楽しむ若者たち。バスケコートの片隅にあるものを見つけた。私は思わず、「メルヴィンが言っていたのはこれか!」と心の中で小さく叫んだ。それはひっそりと置かれた2台のチェス盤である。

先日メルヴィンの店を訪れた際に、チェスを始めてみようかと思うと私が打ち明けた時、メルヴィンはこの公園内にある屋外のチェス盤について教えてくれた。晴れた日にそこでチェスを楽しむというのはとても気持ちがいいであろう。

チェスは世界でも広く親しまれているゲームであり、今後も西洋圏で生活をしていくに際して、共通の遊びとしてチェスを様々な人たちと楽しむのもいいかもしれないと思っていた。

チェスのルールを完全にまだ理解しておらず、ルールを習得できれば何かまた新しい世界が広がっていくかもしれないという期待がある。メルヴィンも私にチェスを色々教えてくれると乗り気であり、ちょっと時間を見つけてチェスのルールを勉強し、チェスに親しんでみようかと思う。

作曲と同じく詰将棋のようなチェスのプロブレムを作ることに関心があるが、チェスはあくまでも人と対局して遊ぶものとして親しみたい。


スーパーで必要なものを買い終えた後、店を出た時に、とても小さく可愛らしい犬を連れた大柄な男性が道を歩いていた。私は思わず立ち止まり、その小さく愛らしい犬を見つめて笑顔になった。そして犬を見ながら飼い主の男性に、 “Very cute”!と述べた。その大柄な男性は照れ笑いを浮かべながらお礼を述べた。

地上に存在する愛しい存在者たち。その小さな犬もそうであり、その大柄な男性もそうだ。そしてきっと自分自身も愛しい存在者の1人なのだろう。フローニンゲン:2021/5/22(土)16:07

6950. 声と天命/地上と天上との触れ合いと戯れ

声が聞こえてくる。自分の内奥を通して声が聞こえてくる。それは自分の存在を通して初めてこの世界に現れる声である。そうした声をとにかく大切にすること。


存在そのものだけではなく、存在基盤そのものへの感謝の念が絶えない。この感謝の念は一体何であろう。そうした思いもまた自分という1人の固有の存在者を通じて立ち現れる固有の思いのようなのだ。


存在基盤は常に自己に対して何かしらのメッセージを投げかけてくる。その声に耳を傾けること。そして、そうした声に常に自己を明け渡して日々行動していくこと。

その行動を通じて得られた体験や気づきや洞察を、可能な限り全てこの世界に還元·共有していくこと。自分を通して顕現した「訪れ」に感謝をし、その訪れを自分にとって可能な表現手段でこの世界に形にし続けていくのだ。

それを行い続けていくこと。それは宿命というよりも使命であり、天命である。この天命に背くような背徳的行為、背信的行為はもはやできない。

天命への自己の明け渡しを通じた天命の全う。それを行うことが自分の人生の日々の歩みであり、この地上に降り立ったことへのささやかな恩返しである。

与えられた恩に報いること。受けた恩は必ず返礼として返すこと。世界はそうして健全な循環を生み出す。

健全な循環に少なからず寄与すること。その循環過程そのものに参画すること。それを毎日行っていくのだ。人知れず、誰にも見られていないところで自分なりの形で。


存在基盤からの呼びかけだけではなく、自然からの呼びかけも聞こえてくる。新緑の木々のあっぱれな揺れ。それは見事な踊りである。

その有機的な踊りを眺めていると、自分の内側の有機的な側面が活性化させられる。自己は有機的な存在。自然の産物であるということを今一度思い出す。

日々は学術的探究、詩を通じた芸術探究、さらには創作活動で彩られているが、自然に触れることは自分にとってとても大切なのだ。先ほど足を運んだノーダープラントソン公園は、自然との触れ合いを可能にしてくれる。

公園にまで出かけなくても、家の敷地内にあるグリーンハウスと花壇は、自然と直接触れ合う最良の場所である。近々そこで野菜や花を育てたい。

先日もマークとその点について立ち話をしていた。地上との触れ合いと戯れ。自分にとってそれを可能としてくれるのは、植物という生命を育てることなのだろう。そして天上との触れ合いを可能にしてくれるのが芸術探究と創作活動なのだ。フローニンゲン:2021/5/22(土)16:20

6951. 天上への道と地上への関与に向けて

重要なこと。それは究極的な絶望から立ち上がることである。深い絶望的な基盤に立脚する形で、希望に向けて小さな行動を行っていくことだ。

生きとし生けるものの存続。地球という惑星の命も仮初めのものかも知れないが、それを大馬鹿な人類が勝手に崩壊させてはならないはずだ。

全人類は守るべきもの。それは地球の多様な存在者の1つとして守るべきものなのだ。

重要なことは全人類だけではなく、生きとし生けるもの全てを守ること。物理的な生命を持たず、精神的な生命を持つ多様な文化も守るべき対象である。

守り、そして健全に育んでいくこと。その試みの流れの中に自分の取り組みを位置付けること。その流れに参画すること。

天命に導かれ、使命を背負ってその流れに参画すること。それが自分の人生だ。


先ほど改めての確認がなされた。自分は知識を共有する者ではない。体験とその体験を通じて得られた気づきを共有する者なのだ。

知識を共有することは、それを役割とする人に任せればいい。自分は知識の共有者ではないし、そうした人間たりえない。

体験と気づきの共有者。一連の日記は、そうした自己の役割を果たすためにある。


自己が肯定的な爆発寸前である。自己が肯定的な溶解と崩壊寸前である。

爆発も溶解も崩壊も、全て一時的な現象として立ち現れる。それに逆らう必要はないのだ。

自己はそうした体験の受容体。そして自己はそうした体験そのものを乗り物として、体験を生み出す基盤に還っていく。


夕方に買い物に出かけた時、抑えがたい衝動があった。天上への道としての探究と実践、そして地上への関与としての探究と実践。

前者に関していえば、意識の高次元の領域と体験に関する探究、また詩集を通じた芸術探究。実践としては、日記の執筆を含めた、詩作、絵画の創作、音楽の創作である。

地上への関与として突如降りて来た仏教経済学という領域。それに加えて、シュタイナーの社会思想と共同体の運営や農業を含めた種々の実践体系への関心。それらの探究と実践は、全てこの地上への関与のためにある。


仏教経済学に関する書籍を読むことを待つことはもはやできなかったので、仏教経済学の書籍に加えて、シュタイナーの経済思想、宗教と経済の繋がりに関する下記の書籍を購入した。


1. Steinerian Economics: A Compendium
2. The Wealth of Religions: The Political Economy of Believing and Belonging
3. Introduction to Buddhist Economics: The Relevance of Buddhist Values in Contemporary Economy and Society
4. Buddhism and Business: Merit, Material Wealth, and Morality in the Global Market Economy
5. From Greed to Wellbeing: A Buddhist Approach to Resolving Our Economic and Financial Crises
6. Ethical Principles and Economic Transformation - A Buddhist Approach
7. Buddhist Economics: An Enlightened Approach to the Dismal Science
8. Small Is Beautiful: Economics as if People Mattered


それらの書籍を読みながら、すでに手元にある伝統的な経済思想についても学習していく。

神学校?仮に天上への道と地上への関与の双方を実現させるために神学校に行くのであれば、現代という社会を覆い、地球の存続に多大なる負の影響を与えている歪みのある既存の経済思想とその歴史的発展についても併せて学びたいと思う。

そうなってくると、現代社会に多大なる影響力を及ぼしている経済学派が所属していて、尚且つ神学校のあるごく限られた大学院が進学先候補になるだろうか。フローニンゲン:2021/5/22(土)17:35

6952. トランスパーソナル経済学の創出に向けて

穏やかな夕方の世界がやって来た。時刻は午後7時半を迎えた。

先ほど夕食を摂り終えて、1日を振り返る日記を今このようにして執筆している。今日は随分と日記を執筆していたように思う。何かが筆を走らせていたのである。

自分がそれを行ったのでは決してない。それを行わせたのは自分を通じて顕現しようとしている何かであり、自己の存在及び創造性の基盤である。


夕食を作ろうとし始めたところで、グリーンハウスに隣人のマークがやって来た。何をするのかと見ていたら、グリーンハウスの植物に水をあげていた。

マークはすでに何かを植えており、それを大切に育てているようだった。その後マークは、グリーンハウス内に腰掛けて、何か物思いにふけっているかのように静かに座っていた。

彼の姿はどこか観想的であった。マークのそうした姿に私は嬉しくなり、笑みが溢れた。

自分も近々何かを植えよう。サハルがほうれん草の種をくれると述べていたので、まずはそれを植えてみる。


言葉を求めることは世界を求めることである。新たな言葉を求めることは、新たな世界を求めることなのだ。

言葉と世界の奥深いつながりを感じる。言葉は世界の扉であり、世界そのものでもある。

いや、言葉は無限の広さと深さを持っているが、世界はそれよりもさらに広く深い。言葉は世界に含まれていて、世界は言葉を含んで超えている。

自分は言葉ではない。自分は言葉を含んで超えている。あぁ、自分は世界なのだ。やはり自分は世界そのものなのだ。


霊性学、トランスパーソナル心理学、発達心理学と経済学を架橋させていく試みに向けて動き出した。もうそれは動き出してしまった。自分の意図を超えた形で始まってしまったのである。

この地球を席巻する現代経済思想の病理的側面をインテグラル理論、そして批判的実在論及びメタ実在論を用いて明らかにしていく。病理の特定のみならず、処方箋となる新たな経済思想の道筋を示すこと。そこに向けての胎動が始まった。


カネの認識には私たちの意識段階の特性が色濃く現れる。まずは段階ごとのカネの捉え方について整理をしてみよう。


本日購入した一連の書籍は、仏教的な経済思想の探究とシュタイナーの経済思想の探究を前進させてくれるだろう。それら大きな経済思想の共通点を探っていく。

「トランスパーソナル経済学」のようなものを創出することはできないだろうか。トランスパーソナルな特性が内包された経済思想の必要性を強く感じる。

それに向けた探究を本格的に始めていく。この探究は自分の1つの使命かつ天命のように感じる。フローニンゲン:2021/5/22(土)19:49

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