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【サイケデリック学探究記】11941-11948:2024年1月24日(水)

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タイトル一覧

11941. テクノロジーと意識の研究活動の一環としてのPlayStation VR2の購入を検討して

11942. VRゲームの種々の可能性

11943. 今朝方の夢

11944. 夢の世界とVRの世界/今朝方の夢の続き

11945. 意識とリアリティについて考察を深めてくれるVR技術

11946. ブロックチェーン技術とVR技術の融合に注目して

11947. 余暇的楽しみとしての学術研究・瞑想実践・サイケデリック実践/リアリティ認識の変化

11948. 無為の重要性を再認識して

11941. テクノロジーと意識の研究活動の一環としてのPlayStation VR2の購入を検討して     

時刻は午前3時を迎えた。今日はいつもより少し早く起床し、午前3時前に起床していた。今、強風が吹き荒れており、轟音が聞こえてくる。早朝3時の今の気温は暖かく、11度もある。ここから日中にかけて緩やかに気温は下がるが、それでも日中は9度ほどの気温があるので十分に暖かい。幸いにも雨は降らず、風が強いだけのようなので、午後にショッピンモールに行って書籍を受け取ってきたいと思う。

昨日は親友のメルヴィンからゲームに関して大きな啓発を受けた。以前メルヴィンの家に行った時にもメルヴィンは格闘ゲームをしていたし、実は今の彼の理髪店にもゲーム機が置かれている。今彼がはまっているのは、レースゲームの「Gran Turismo 7」というもので、VR対応のため、それをVRヘッドセットをつけてすると相当の没入感と迫力らしい。360度から音が聞こえてきて、ハンドル操作も含めて、全てがリアルに感じられて、完全にVR世界に没入できるらしいのだ。サイケデリック体験でもそうだが、私たちの脳は意識のフィルターとしての機能を果たしているに過ぎないので、脳が何をフィルターとして知覚させるかをテクノロジーによって変えれば、脳はそれに応じて如何様にでも種々のリアリティ世界の中に入っていくことができる。脳はそこで知覚されたものをリアルなものとみなし、実際にその瞬間においては脳を含めた心身全てがそこで起こっていることをリアルに感じるのである。それゆえにVRを非リアルだとみなすのは相当に馬鹿げており、VRもまた別種のリアルなのである。意識哲学者のデイヴィッド・チャーマーズもVR技術に注目し、そこで開示させるリアリティを新たなリアリティとして「リアリティ+(プラス)」と表現している。

プレイステーション5のVR対応のものを厳密にはPlayStation VR2と呼ぶらしい。今それに関心を示しているが、新たな趣味としてVRゲームを取り入れるかどうかはもう少し検討したい。というのも今の自分にとっては学術研究が1つの大事な仕事かつ趣味として多くの時間を捧げたい対象になっているからだ。ある種瞑想実践もまた自分にとっては学術研究の一環かつゲームのような楽しさがある実践でもある。そこにVRゲームが入ってくると、どうしてもそちらにはまってしまいそうなのだ。それくらいにPSVR2の技術は凄く、ゲームのクオリティが高いことが昨夜の調査を通じてわかった。まずはメルヴィンの家でさせてもらい、そこから購入を検討したい。PSの本体とVRヘッドセットを合わせて日本円にすると13万円ぐらいとのことである。VRヘッドセットのクオリティから考えると、ソニーが販売しているPSVR2専用のVRヘッドセットは割安らしい。それくらいに非常に性能の良い製品らしいのだ。テクノロジーと意識の探究を行っている身として、研究活動の一環としてVRゲームは非常に重要なテーマである。それを踏まえて、購入については少し冷静に考えてみよう。少なくとも、後ほどチャーマーズ以外の書籍で何かVRに関する哲学書がないかを探してみる。キーワードとして“philosophy of virtual reality”と打ち込んで調べてみよう。フローニンゲン:2024/1/24(水)03:27

11942. VRゲームの種々の可能性

つい今し方、VR関係の哲学書を調べてみたところ、数冊ほど面白そうなものを見つけたので後ほど中身検索をしておきたいと思う。VRを扱った哲学書において、自分が関心を持っているのは意識哲学や現象学に関するものなので、検索結果として表示された数の中では該当するものは少なかった。どちらかというと教育の文脈でVRを捉える哲学書や、倫理やメディア論と絡めた哲学書の数が多い印象であった。そうなってくると、手持ちのチャーマーズの書籍がやはり最も秀逸なVRを絡めた意識哲学書だと言えるだろうか。

昨日のメルヴィンの話で興味深かったのは、VRゲームをしながら各種のセラピーが行えそうだということである。例えば、高所恐怖症や蜘蛛恐怖症などを抱えている場合、ゲームを慎重にすることによってそれを治癒することができると思ったのである。もちろん逆にの仕方を誤ると、そうした症状を悪化させかねないし、新たなトラウマを作りかねない。いずれにせよ、既存の精神疾患を治癒したり、新たな精神疾患を形成したりするぐらいにVR技術は脳と心への働きかけとして強いものを持つ。私たちの脳が騙されやすく、今私たちがリアルだと思っていることを簡単にひっくり返したり、新たなリアルを知覚させることは如何様にもできるのである。VR技術のような先端的なテクノロジーを持ってすればそれは本当にたやすい。VRの世界の中で太陽の光を浴びたらその箇所が暖かく感じるというのは実に興味深い現象だと思った。北欧地域などの冬の日照時間の少ない地域においては、太陽の光を感じられるゲームをすることで日照時間の少なさゆえのホルモンバランスの崩れや鬱などの症状を改善することなどにも応用できるかもしれない。そんな話題を昨日メルヴィンと話していた。

それ以外に印象に残っている話として、ゲーム内で現れるAI生成キャラクターが人間と区別がつかないというものである。最先端のゲームから離れて久しいので、最近のゲーム技術に知識が追いついておらず、何やら最近のゲームではゲーム内でのチャットだけではなく、ゲーム機に接続したマイクでオンライン上で友人や世界中のプレイヤーとコミュニケーションが図れるらしい。実際にメルヴィンは一昨日に「鉄拳」をしている時にアルメニアに住んでいるアルメニア人と会話を楽しんだそうだ。最近のゲームは基本的にオンライン化されており、それを用いれば本当に世界がボーダレスとなり、世界中のゲーマーと会話が楽しめるソーシャルな場として機能していることがわかる。今後さらに暗号資産の普及が進めば、既存のブロックチェーンゲームだけではなく、プレイステーションやXboxなどの機器やソフトにもそれが活用されるようになり、新たな一大経済圏がそこに構築されるだろう。その流れはすでに起こっており、それが実現する日も近いはずだ。

メルヴィンが話していたAI生成キャラクターが実際の人間が操作しているものなのか否かの区別は、まさにチューリングテストを彷彿とさせる現象で興味深い。他者が心を持っているかどうかをどのように確証することができるのかを検証する実験的な試みもゲームの世界の中で行えそうである。メルヴィン曰く、オンラインゲームの世界も共通語は英語とのことなので、言語設定を英語にすれば、とりわけVRゲームであれば没入感を伴う形での英語学習にも活用できるのではないかと思う。学術研究目的、さらには英語の学習目的でPlayStation VR2の購入を検討するのはとても現実的かと思う。フローニンゲン:2024/1/24(水)03:58

11943. 今朝方の夢

時刻は午前5時を迎えようとしているが、引き続き強風が吹き荒れている。昨日と同様に、今日も1日を通して風が強い日になりそうだ。外の世界の風がどれだけ強かろうが、自分がやるべきことは同じである。自分の天命に基づくライフワークを粛々と前に進めていくだけだ。夢を振り返ることもその一環であるので、今朝方の夢についても振り返っておきたい。

夢の中で私は、言霊学のある権威の日本人教授と話をしていた。書店と大学の教室が一体化したような不思議な空間で本を吟味していると、その教授が執筆した書籍が集められたコーナーに辿り着いた。すでに所持している書籍も多かったが、まだ持っていない書籍も数冊ほど置かれていたので、どのような中身なのかを立ち読みしていた。すると後ろから声を掛けられ、振り返るとそこに著者であるその教授がいたのである。まさか著者本人に会えるとは思っていなかったので驚き、そこから少し会話をさせてもらった。というよりも、その教授はとても気さくな方だったので、向こうから色々と話しかけてくれたのである。何やらその教授は私のことを知っていて、自分が言霊学に関心を持って探究していたことがあることを知っていたようだった。今はそれほど熱心に探究していないが、依然として日本語の深層的な力や性質には関心があることは確かなので、その教授から色々と話を聞けたことは有り難かった。話の中でその教授が、言霊学に関心を持つ人の大半は表面的な探究に留まり、言霊の奥義に触れることなく研究から去ってしまうのが残念であると述べていた。そうした人たちは中途半端な理解のままに言霊を用いて商売を展開し、それが社会に悪影響を与えていると警鐘を鳴らしていた。本当にそうだなと頷きながら話を聞いていると、その教授は気を良くしたのか、書店に置かれている書籍で必要なものがあれば全てプレゼントしてくれるとのことだった。その申し出はとても有り難かったが、今は言霊以上に研究するべき対象があるし、日本語の書籍をこれ以上自宅に増やしたくはなかったので、少し話を濁した。するとその教授はもうその場から消えていて、もう少し立ち読みをして、立ち読み程度でそれらの書籍から離れていこうと思った。

もう1つ印象に残っている夢として、知り合いの外国人女性と大学時代の女性友達が融合したような高身長の女性をごろつきから守る場面があった。その女性は身長が184cmぐらいあり、自分よりも遥かに大きかった。そんな彼女と見慣れない街を歩いていると、彼女の身長を少し上回る187cmぐらいの高身長のガタイの良い男性が彼女に目を付け、ちょっかいを出してきた。その男性の周りには格闘技の経験のありそうなこれまたしっかりとした体格の男性が数人いた。これはまずいことになったぞと思った矢先、なんと彼女はその高身長の男性にその場で相撲を取って負けたらデートの誘いを受けると述べたのである。果たして彼女がその男性に相撲で勝てるのかと疑問に思い、身長としては同じぐらいでも、体格的に間違いなくその男性の方ががっしりしていたので勝ち目はほとんどないのではないかと思った。しかし彼女は自信があるような表情を浮かべていたので、ひょっとするとひょっとするかもしれないと思い、彼女を応援しようと思ったら、すぐさまその男性に投げ飛ばされてしまい、負けてしまった。それによってデートの約束を果たさないといけなくなったわけだが、彼女の身を案じ、すぐさま逃げることを提案して実行に移した。もちろん彼らは私たちを追ってきたので、まずは彼女を先に逃し、自分が彼らに立ちはだかることにした。高身長の男性を含め、自分よりも大きな相手ばかりだったが、オランダではオランダ人を相手に武術の鍛錬をしていたことから、日本人男性のガタイのいい人を見てもそれほど恐れることはなく、宙に浮かんで武術の技を繰り出していった。すると、相手は手も足も出ない様子で、完全に自分の力に屈していた。一番身長の高いボスのような人物を仕留めれば、周りの手下のような人たちはもう何もしてこないだろうと思ったので、ボスの彼を真っ先に仕留めることにした。宙に浮かんだ状態から、その男性の喉仏を右足の足先で思いっきり突くと、彼の喉がつぶれ、それで決着が着いた。護身術は自分にとっても危険が付き纏うので、今回はうまくいったが、こうした事態にはできるだけ巻き込まれないようにしようと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/24(水)05:10

11944. 夢の世界とVRの世界/今朝方の夢の続き

先ほど今朝方の夢について振り返っていたばかりであるが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておこう。夢の世界とVRの世界はどこか類似するものがあり、夢の世界もまたれっきとしたリアルであり、VRの世界もまたれっきとしたリアルである。それらは単に物理世界とのリアルと様相が異なるだけであり、これまでの私たちが単に物理世界のことをリアルな世界と呼んでいたに過ぎない。リアルというものを形而上学的に突き詰めていくと、夢の世界もVRの世界も完全にリアルなものだとわかるだろう。ひょっとしたら自分はVRゲームなどをせずとも毎日夢の世界の中でVRゲームをしているようなものなのかもしれない。夢の世界はそれだけリアル感があり、夢の世界の情景やそこでの活動はVRゲームと瓜二つである。

夢の中で私は、見慣れない敷地の真ん中にポツリと佇む小さな家を宙に浮きながら眺めていた。その家は2階建てなのだが、とても小さく、誰かが1人で生活をしているようだった。2階の窓を宙に浮いた状態で外から覗いてみると、そこにはたくさんの本が置かれていた。部屋の四方の本棚にびっしりと書籍が並べられていただけではなく、地面にも本の山が至るところにできていた。きっとその家の主人は読書家なのだろうと思っていたら、主人の姿が目に入り、なんと予備校時代の知り合いだった。彼は広島の名門の中高一貫校を卒業していて、医者になることを目指していた。彼のその後の進路は知らないが、性格としては話しやすく、良い印象を彼に対して持っていた。家の中にいる彼は私のことに気付いていなかった。すると、私の周りにいた数人の知人が、実は彼は殺人犯であることを伝えてきたのである。まさか彼が殺人など犯すはずはないと思ったが、どうやら不可抗力的に人を殺してしまったらしい。なので彼はその家にずっと身を潜めているらしかった。ひと目につかずに生活を送るために読書に没頭し、時間を忘れて過ごす生活をここ数年続けていることがわかった。しかし、ここ最近警察が彼の居場所を嗅ぎ付け、近々彼を逮捕しに来る噂があるとのことだった。その前に彼とは一度話をしておきたいと思って、なんとか彼の家に入って彼と話ができないかと思った。するとひょんなことに、彼が庭に顔を出し、そこで偶然宙に浮いている私を見つけて、彼は一瞬驚いた表情を浮かべていたが、私であることを確認して安堵したのか、話をするチャンスがすぐにやって来た。彼から事件の話を聞き、事情を説明すれば正当防衛であるから大丈夫だと伝えたが、彼は警察を信じられないようで、引き続き今の生活を送るとのことだった。すると突然、警察が彼を逮捕しにやって来た。彼は慌てて逃げようとして、なんと小さな猫に変化して、空き地の隅にあった不思議な洞窟の中に入っていき、地面に空いていた穴の中にもぐらのように入っていき、どこかに消えてしまった。私は彼が入っていった穴の中を覗きに向かい、穴を覗いてみると、巨大なカエルが1匹穴の奥で穴を塞ぐように佇んでいた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/24(水)05:35

11945. 意識とリアリティについて考察を深めてくれるVR技術

昨日のメルヴィンとの対話のおかげで、VRゲームを購入するかどうかは別にして、VRゲームの世界が実に興味深い考察対象だと思った。VRゲームに限定せず、VR全般は意識とは何かやリアリティとは何かについて考察を深めてくれる優れた対象かと思う。後ほど調べてみたいのは、VRが脳に与える影響についてである。中には「VR酔い」という形でVRの世界に慣れていない人が吐き気や目眩を感じたりすることがあるらしい。VRは間違いなく私たちに知覚拡張を引き起こすであろうから、それが脳の機能の向上にもつながる可能性もあるし、過度に活用することによって逆の効果を引き起こしてしまうこともあるかもしれない。後ほど何か実証研究の論文がないかを調べてみたいと思う。

後ほどではなく早速調べてみたいと思ったので早速調べてみたところ、もちろんまだメタアナリシスのような包括的な研究はないかもしれないし、コンテンツによりけりかもしれないが、VRが記憶力を含めた認知能力の向上につながる研究結果がアメリカのメリーランド大学によって出されていることがわかった。40人ほどの被験者にVRヘッドセットを付けてもらい、特定のタスクに従事してもらったところ、記憶力に関するパフォーマンスが8.8%ほど向上したとのことである。この1つの調査からはなんとも言えず、方法論や統計分析についても精査しなければならないが、VR技術は新たな学習テクノロジーになることは間違い無いだろう。実際のところ、私たちが書籍を読んでいる時にも書籍の言語空間がある意味VR空間と似たような性質を持っており、私たちはその世界に没入できる。小説を例に取るとそれがすぐにわかるだろう。小説ではなく学術書であっても、数式を見て天体の動きをありありと想像できる人もいれば、哲学的なセンテンスに体感を伴った形でありありと意味の知覚と咀嚼ができる人もいるように、書物が開示する言語空間も立派なVR空間の1つなのである。書物もVRも物理世界のリアリとは違った形でリアル性を感じさせてくれるのだ。それを踏まえると、サイケデリック体験も瞑想体験も全く同じである。サイケデリック体験や瞑想体験で知覚される事柄を幻覚と表現するのはもう過去の話にするべきであり、意識とリアリティについて探究している者であれば、それらの体験を通じて知覚されることを幻覚などとは表現しないはずである。極論を言えば、私たちが意識空間内で知覚することが全てリアルなのであり、非リアルなものはもはや存在しないのではないかと思う。非リアルなものの存在は、その個人が想像できない外側の認識空間のことを指しているだけで、ひとたびその個人が認識の外にあったものを想像すれば、それはすぐさま非リアルからリアルな存在として顔を出す。これらの議論はロイ・バスカーの批判的実在論やクァンタン・メイヤスーの思弁的実在論の観点からも真っ当なものであり、実在論について学べば学ぶだけ、リアルではないものはこの無限の可能性を内包したリアリティにおいては存在せず、非リアルなものは単にその個人の認識の外に広がっているだけで、それは別の個人からすれば十分にリアルであり得る。例えばこれまで「批判的実在論」や「思弁的実在論」の存在を知らなかった人にとってみれば、それらは非リアルなものとして存在していたのであり、自分がそれらを言及したことによってその存在がその人の認識空間内に浮かび上がり、リアルな存在になったのである。何がリアルでリアルでないのかを含め、リアルの性質やその度合いを探究する意味でも、VRゲームを購入するしないにかかわらず、VRの分野には大いに注目したい。フローニンゲン:2024/1/24(水)06:14

11946. ブロックチェーン技術とVR技術の融合に注目して     

早朝から引き続きVRについて調べ、色々と考え事をしている。今はきっと多くの人たちがまだまだ物理的現実世界だけをリアルなものとみなし、VRの世界をリアルではないものとみなしているだろうが、その関係性は逆転するかもしれない。物理的現実世界が非リアルなものになるとは決して言えないが、少なくともこれまでは物理的現実世界をメインなリアルワールドとして生きていたところからの転換が行われ、VR世界をメインなリアルワールドとして生きていく人たちが増えてくるのではないかと思う。まさにリアルな世界の主従関係の逆転現象がこの数年か近い将来にやって来るだろう。その時代において自分はどう生きるのか。VR世界との関係の持ち方については今から十分に考えておきたいし、実際にVRの世界を体験する機会を増やす中で考察を深めていきたいと思う。

そもそも自分は個人投資家として暗号資産の黎明期からブロックチェーン技術には注目していた。今後はさらにブロックチェーン技術とVR技術が掛け合わされていき、色々なことが起こるだろう。政治経済そして教育や医療においても大きな革新が起きるような気がする。VRゲームを単にゲームを楽しむという観点で楽しんでもいいが、せっかくゲームをするなら何かを形に残しておきたいし、その形に残したものが資産としてみなされ、他者に譲り渡したり、法定通貨に変えられるようになればと思う。今のところブロックチェーンゲームの中でVR技術を採用したものは多くなく、そうしたゲームが今後登場し、ゲームそのものとしての面白さや学習につながるような側面があれば、是非ともプレイしてみたいものである。“play to earn”という言葉を聞いて久しいが、実際にプレイしたいと思うようなゲームはこれまでほとんどなかった。VRの世界を探究する意味でも、自分の感覚拡張を促す意味でもブロックチェーン技術とVR技術が融合した面白いゲームの誕生を期待している。プレイステーションVR2の購入を検討するのはそれからでもいいかもしれない。今はとにかく学術研究、サイケデリック実践、瞑想実践を楽しみたい。それらもまた自分にとってはこの物理世界に限定されないVR世界における遊びのようなものなのだから。

とりわけVR技術を活用したカーレースゲームやスポーツゲームなどを見ていると、それは運動感覚を磨く上で効果があるようだ。物理的現実世界と変わらない臨場感を持ってプレイすれば確かにそのようなことが起こるだろう。仮にVRゲームをするとしても、自分の場合は運動感覚に刺激を入れ、それを育むような目的でゲームを選んでプレイするかもしれない。今のところ、VRゲームは脳へ刺激を与え、脳を活性化させるようだが、自分が注目しているのは、脳の活性化を抑制する効果を持つサイケデリクスや瞑想である。とりわけ現代は情報刺激時代とでも形容できるように、脳への刺激で溢れている。ゆえに、そこに刺激性の高いゲームをさらに日常の活動に取り入れてしまうと、少々困ったことになるかもしれないと考えている。今のところはそうしたスタンスでVRゲームを眺めており、日々の学術研究が大いに脳を刺激していることもあり、その調和を図るべく、今はVRゲームには手を出さず、その技術革新と市場動向を追いながらも、サイケデリック実践と瞑想実践に精を出すことを意識したいと思う。自分のライフワークやライフスタイル上、今のところがそれが最も健全な在り方のように思える。フローニンゲン:2024/1/24(水)07:26

11947. 余暇的楽しみとしての学術研究・瞑想実践・サイケデリック実践/
リアリティ認識の変化  

気がつけば午前9に近づいている。今朝方は午前3時前に起床したのだが、その時から今にかけてまだ風が強い。時折吹く強風が家の窓を揺らしている。

昨日に親友のメルヴィンとVR世界の可能性に関する対話をしたおかげで、また随分と自分の思索の幅が広がったように思う。2月にまた書籍を一括注文する際には、VR空間を京都学派の場所の論理の観点から言及した論文が収められた書籍を購入しようと思う。その書籍はVR空間上における体験を現象学のアプローチで紐解いており、大変興味深い。その書籍はルートリッジ出版から出版されており、同出版社からVRを精神分析学の観点から紐解いている学術書もあり、そちらもぜひ購入しようと思う。それらの書籍は来るべき社会規模でのリアルの転換現象に向けて考察を深めるだけではなく、意識とリアリティの探究にも直接的に役に立つだろう。

先ほど、身体操作としてのヨーガの実践を目を瞑りながら行い、そこから瞑想実践をしていた。その中ではサトルの意識状態で知覚されるビジョンがちらつき、それらをずっと眺めている時間が続いた。瞑想実践は自分にとって、やはりVRゲームをプレイしているかのようで楽しい。自分ではない誰かが制作したゲームではなく、自分固有の意識と環境の相互作用で展開されるそうした知覚ビジョンを眺めていることはそれだけで楽しみである。もちろんそこで知覚されたことから意味を汲み取ったり、その現象そのものを考察対象にできるという楽しみもある。自分にとってはやはり意識の謎を解くことや、意識の深層を探究していくことが最大の楽しみであり、知的ゲームであると思った次第である。自分にとっては。学術書や論文が生み出すVR空間が最大の楽しみをもたらす知的VRワールドなのである。それを如実に実感する時、ますます今はVRゲームを購入する必要はないと思った。日本にいる親友たちと交流をする目的であったり、仮に今後子供が生まれて子供と遊ぶなどの目的以外では今のところVRゲームをプレイする目的は見当たらない。それぐらいに学術探究と瞑想実践は最大の楽しみであり、余暇的実践でもあるのだ。そこにサイケデリック実践があるのだから、これ以上何かを加えることは過度であり、贅沢すぎるだろう。今はこれ以上にないほどに贅沢な余暇的楽しみがあるのだから。

ここ最近は分析的観念主義と唯識思想の探究を通じて、リアリティの捉え方に変化があることに気づく。昨日メルヴィンの店に向かって街を歩いている際にもそれを実感した。物理世界を意識内の現象世界だと捉える明確な認識があり、地面を踏む感覚もまたそれは意識表象なのだという感覚がありありとあり、目の前に広がる景色もすれ違う人もまた物理的に存在はしているが、それは意識が生み出す表象現象でもあることを強く自覚する時間が続いていた。それらは非リアルなのではなく、リアルであるし、物質を持つ存在なのだが、それらもまた究極的には意識内の表象現象に過ぎないのである。それゆえに全てが意識の中にあるという考えに至る。全てを意識が生み出しているという素朴な観念主義的発想と、全ては意識内の現象であるという分析的観念主義的発想は区別しなければならない。前者においては意識の範囲外の存在の実在を否定する傾向にあるが、後者においてはそうした存在の実在も認める。しばらくは分析的観念主義と唯識思想のレンズをかけてみて世界を生きてみよう。まさにそれらは特定のVRヘッドセットのようなものであり、思想の枠組みが変化すれば、リアリティの捉え方は如実に変わるゆえに、そうしたところにも哲学を学ぶ実践的な価値があるように思える。フローニンゲン:2024/1/24(水)08:58

11948. 無為の重要性を再認識して   

意識そのものではなく、意識の内容物を咀嚼・解釈する枠組みとしての意識構造は、スイスの思想家のジャン・ゲプサーの発達理論においては時空間の捉え方の変化として現れる。ゲプサーが提唱した発達の最終段階である統合的段階においては、時間は1つの全体として捉えられる。円環的でも直線的でもなく、分割不可能な全体としての時間。確かにそんな時間感覚が今の自分の中で芽生えているようだ。

先ほど散歩がてら近所のショッピングモールに行って書籍を受け取ってきた。当初の予定では2つ受け取る予定だったが、もう1つが別の場所に保管されているようだったので、金曜日にアクティブレストの散歩がてらそこに足を運びたいと思う。今日は相当に風が強く、行きにおいては飛ばされてしまうぐらいの強風が吹く瞬間があった。気候に何か特徴的なことが見られる時は季節の変わり目のことが多いので、ここから季節も構造的な変化を起こすのではないかと予感される。

今日もまたインド哲学関係の書籍を読み進めていたが、それと合わせて、久しぶりにドイツの思想家のビョンチョル・ハンの書籍を読み返した。ハンの書籍を定期的に読み返すと、在り方や生き方に対してどこか背筋を正される感じがする。それが彼の思想の魅力である。昨夜と早朝においては随分とVRについて日記を書き留めていたように思う。当面はVRについて動向を追いながらも、VRゲームを購入することは控えておこうと思った。もちろんこの考え方も変わるかもしれないが、新たな刺激を日々の生活に取り入れるのではなく、それが必要になったら刺激を取り入れるようにし、今は無為の時間を楽しみたいと思った。VRゲームは情報刺激が強く、無為の時間を味わうことから離れてしまい、むしろ無為の時間を埋め合わせる形での活動になってしまうことが予想される。ハンが指摘するように、何か特定の目的を持たずに無為に時間を楽しむことが人生の質を本質的に高めてくれる。瞑想実践やサイケデリック実践もまた「実践」と括っているが、それらを無為の楽しみとして行っている自分がいることは確かであり、それは良い兆しでもある。昨日メルヴィンから最近のシロシビン・セッションの際の目的を尋ねられたのだが、目的を持ってもシロシビン・マッシュルームはそれを遥かに超えた体験をこちらに開示してくれることを思う時、特に何かを期待せず、純粋に楽しむような姿勢でセッションを行ってもいいと思うのだ。もちろんそれはある程度の経験を積んでから行える実践形式かもしれないが、実践の形を取りながらも実践の内容や成果に過度に期待せず、それを無為の楽しみとして行うことをこれから心がけてみようと思った次第だ。

最後に、ハンはベーシックインカムとVRゲームを含むコンピューターゲームを現代版のパンとサーカスに喩えており、それは秀逸な喩えかと思う。ベーシックインカムやコンピュターゲームによって人々に生活の安定と楽しみがもたらされることは確かだが、それらがあることだけを持ってして果たして私たちが真に幸せを感じて生きられるかは各自が問わなければならないことかと思う。幸福の基盤に経済的安定性とゲームのような楽しみがあったとしても、幸福の源泉にそれらが果たしてあると言えるだろうか。己の幸福が何によってもたらされるのかは私たちそれぞれが自らに問いかけていかなければならないだろう。フローニンゲン:2024/1/24(水)16:18

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