5958. コロナの蔓延をきっかけに群衆化を強める現代人

時刻はまもなく正午を迎える。正午前に、もう1つだけ日記を書き留めておこうと思う。

午前中に評論家の江藤淳について調べていたところ、まだ彼の著作の中で読んでいないものがたくさんあり、この秋に日本に一時帰国した際には何冊か彼の著作を読んでみようと思った。

文体について彼が書いた書籍の中で、「私たちの行動は一種の言葉であり、文体は書き表された行動の軌跡である」という言葉が残されていて、とても興味深く思った。

以前より、文体にはその人の人柄だけではなく、その人の思想や生き様が滲み出ると感じていたのだが、文体が行動の軌跡であるという観点は私にはなかった。自分自身の内側の声を聞き、それをもとにした言葉を紡ぎ出すことそのものが新しい価値の創造であるという認識を持ち、それは1つの立派な行動であり、実践なのだということを思った。

ここ数日間は、ロイ·バスカーの思想に触れた専門書や論文を読み進めることに並行して、ルーマニアの社会心理学者セルジュ·モスコヴィッシの“The Age of the Crowd: A Historical Treatise on Mass Psychology(1985)”という書籍を読み進めている。こちらの書籍は400ページ近くに及ぶ大著なのだが、群衆心理学を探究する上で必読の書籍だと思う。

この書籍の中では、群衆心理学の領域を切り開いたフランスの心理学者かつ社会学者グスタフ·ル·ボンの仕事が何度も引用されている。ル·ボンの指摘の中で、コロナが蔓延する現代社会の人々の姿を考察する上で重要なものがいくつもある。

思うに、今回のコロナの一件は、人々を別種の群衆に変えてしまったのではないかという考えが芽生える。あるいは、群衆性をより強めた形で群衆化したという見方もできるかもしれない。

ル·ボンの指摘の中で、個人は群衆の一部になった時、個人として発揮できていた内省能力や思考能力を発揮することがうまくできなくなり、より原始的かつ感情レベルで思考や行動をするというものがある。これは、発達心理学者のカート·フィッシャーが述べる、私たちの知性の文脈(コンテクスト)依存性の話とも繋がる。

今回のコロナの一件は、地球規模で私たちを取り巻く生存状況のコンテクストを変えてしまい、それが引き金となって、別種の群衆化、あるいは群集性の強化がなされ、多くの人たちが感情や欲求レベルの次元で思考や行動をするように方向づけられているように思えてしまう。

この秋に日本に一時帰国することになっているのだが、毎年定点観測的に日本の状況を見ていると、人々の群衆化が進み、人間の機械化ないしはゾンビ化が進行しているような不穏な動きを肌で感じる。

ル·ボンは、「群衆というのは、意識的人格を喪失し、彼らを支配する者や社会の提言に盲目的であり、まるで暗示を掛けられたかのように行動するような集合体である」という類の定義をしているのだが、今回のコロナの一件で、こうした群衆化の問題がより浮き彫りになって来ているのではないかと思うのは私だけだろうか。フローニンゲン:2020/7/4(土)12:16

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