6004. インテグラル理論や日本で普及する成人発達理論の盲点:発達に伴う規範性の議論と実践
時刻は午前9時半を迎えた。早朝にいつものように絵をいくつか描き、4つほど曲を作った後に読書に取り掛かった。昨夜より、“Metatheory for the Twenty-First Century: Critical Realism and Integral Theory in Dialogue”という書籍を読み進めており、先ほど、かつて私がジョン·エフ·ケネディ大学で在籍していた統合心理学プログラムで教鞭を奮っていたション·ハーゲンス博士が執筆した論文“Developing a complex integral realism for global response: Three meta-frameworks for knowledge integration and coordinated action”に目を通していた。
タイトルにあるように、ハーゲンス博士は、3つのメタ理論を比較し、さらなる知と実践の創造に向けて、それらを統合しようとするメタ·メタ理論の方向性を示している。ここで取り上げられている3つのメタ理論とはそれぞれ、ケン·ウィルバーのインテグラル理論、ロイ·バスカーの批判的実在論、エドガー·モリンの複雑性理論である。
それぞれのメタ理論には強く焦点が当てられている人称言語的領域があり、同時に希薄な人称言語的領域がある。例えば、ウィルバーのインテグラル理論は1人称的な探究に最も焦点が当てられていて、次に2人称的領域、最後に3人称的領域に焦点が当てられている。バスカーの批判的実在論は、2人称の領域に最も焦点が当てられていて、次に3人称的領域、最後に1人称的領域に焦点が当てられている。モリンの複雑性理論は、3人称的領域に最も焦点が当てられていて、次に1人称的領域、最後に2人称的領域に焦点が当てられている。
今朝方の日記でも言及していたように、メタ理論には様々な種類があり、そして様々なものがある。ジェームズ·マーク·ボールドウィン、チャールズ·サンダース·パース、ジャン·ピアジェ、ヨルゲン·ハーバマスらも優れたメタ理論を提唱していたことを見逃すことはできないが、ここで改めてハーゲンス博士の論文を読んでいると、昨今のインテグラル理論や成人発達理論を取り巻く日本の状況については少し注意をしなければならない点があるように思う。
人間発達を探究している者であれば、多種多様な発達モデルが存在していることは理解しているだろうが、今日本で紹介されている発達モデルというのはその極々一部に過ぎない点にまず注意する必要がある。そしてさらに重要なことは、日本で紹介されているそれらの理論は、ウィルバーのインテグラル理論と関係したものであり、ハーゲンス博士の論文で指摘されているように、インテグラル理論がそもそも1人称的な領域に強く立脚して人間発達を捉えている点に注意しなければならない。
より具体的に述べれば、その問題とは、人間発達及び社会の発達に伴う規範性に関する議論の希薄さにあると言えるだろう。発達に伴う規範性というのは、発達とは本来何であるかという議論から出発して、同時代の社会·文化的·制度的な観点を考慮して、人間や社会の発達とはいかなるものであるべきかを扱うものである。
インテグラル理論や今日本で知られている発達理論をそうした観点で眺めてみれば、規範性の観点が大きく欠落していることに気づくだろう。規範性の観点と議論の欠落は、発達に伴う歪んだ実践や歪んだ言説を生み出すことにつながってしまう。
幾分認知的な負荷がかかるかもしれないが、私たちはウィルバーのインテグラル理論や成人発達理論の盲点に自覚的になり、他のメタ理論を参照しながら——哲学者のザカリー・スタインが推奨しているように、ロイ・バスカーの批判的実在論はインテグラル理論の盲点を補完するメタ理論として有力である——、人間発達や社会の発達に関する議論と実践をより包括的かつ豊かなものにしていく必要がある。
規範性に言及したメタ理論を探究することが難しければ、少なくとも発達とは何であり、現在置かれているコンテクストの中において、あるべき発達とはどのようなものなのかについて考えを巡らせてみることが重要だろう。フローニンゲン:2020/7/14(火)10:01