5947. 対象から離れることと本質に近づくこと:現代の教育や人財育成で喪失してしまった発想
今日は朝からとても寒い。室内では長袖長ズボンを着て過ごしている。
先ほど、ベジブロスで作った具なしの味噌汁を飲んだ。それは毎朝飲んでいるものなのだが、いつも以上に味噌汁の温かさを感じることができた。今日から7月だということが本当に信じら得ず、午前中は温かいカカオドリンクと、自らの手で豆を挽いた温かいコーヒーを味わおうと思う。
先ほどふと、自分と日本語の関係について考えていた。自分の中で日本語が読めるようになってきたとふと思ったのは20代後半のことだった。それはアメリカから日本に1年間ほど戻ってきた時のことだったので、29歳ぐらいの頃だったように思う。そこから日本語を味わうことに目覚めた自分が生まれたのをはっきりと覚えている。
それまでは日本語を見る、ないしは眺めることはできても、それを味わうことまではできなかった。そこには母国語への存在的(あるいは実存的)かつ積極的な関与というものがなく、どこかいつも言葉が自分の外に浮かんでいるような感じがあったのだ。しかしアメリカら戻ってきて、改めて日本語に触れたときに、自分の中で何かが変わっていることに気づいた。
そこではもう以前のように、日本語が他人のようではなく、本当に自分の内側に響き、浸透してくる存在になっていたのだ。そこからようやく私は日本語を読めるようになったのだと実感し、そこから自分の言葉を見出し、それを彫琢するプロセスが始まったのだと思う。
こうした現象がなぜ起こったのかについては、その要因は多数あるだろう。その中でもやはり、アメリカに渡って4年間ほど日本語空間から離れて生活をしていたことは大きなものだと思う。
対象の本質に近づくためには、一度対象から離れてみる必要がある。そのようなことをまさに身をもって体験したのが上記の話である。
日本語から一度大きく離れ、徹底的に英語空間の中に浸ろうとしていた自分があの当時にはいて、日本語空間からの脱却が、後々になって日本語空間の深層部への接近を可能にしたのだと思う。
対象から一度離れることによって対象の本質に迫るという現象は、日本語だけではなく、自分の諸々の探究や実践においても見られる現象だ。離れることと近づくことの対極性は、人間発達の肝にあるのだろう。
味噌汁を飲みながらそのようなことを考えていた。そこから、「to someone」「for someone」「with someone」の違いについて考えていた。これは教育においても、成長支援においても大事なことのように思われる。
自分の中にあった問題意識としては、現代社会の教育や人材開発の背後には、絶えず「to someone」の発想が優位であり、それが「for someone」という発想に梱包されているのではないかという考えがある。
例えば、「あなたのためを思って、成長のためにはこんなことをしたらいい」という発言はよく見られるものかと思う。ここではまさに、「for someone」という「あなたのために」という名のもとに、結局のところは、その背後には自分や組織の利益が隠れていて、そうした自分の利潤を追求する隠れた発想から何か提言や助言を相手にする(to someone)という構造が見られるように思う。
果たしてこれは教育的なのだろうか。果たしてそれは成長や発達を支援することをもたらしてくれるのだろうか。
現代社会の教育や人財開発の背後には、大抵、「~のために」という言葉が隠れていて(それはsomeoneだけではなく、somethingも含まれているのではと新たに気づいた)、そうしたforという言葉には欺瞞性が絶えず内包されているように思えてならない。
相手のためと言いつつ、それは自分のためであり、何かのためと言いつつ、それは自分が本当に求めるようなものではない。そのように考えてみると、現代の教育や組織内での人財育成というのは、欺瞞性で覆われている、ないしは欺瞞の産物(欺瞞の権化)だと言えるかもしれない。
こうした問題提起は、教育哲学者のザカリー·スタインがまさに行っており、彼は教育や人財育成の根幹には「with someone」の発想が不可欠であると指摘している。まさにそうだと思う。
「to」や「for」のように、一方向のベクトルしか持たない発想の教育的関与には、必ずベクトルの起点にある人間の欲求や利益が色濃く混入してしまう。一方で、「with」という発想には、双方向性があり、真に学びや成長をもたらしてくれる教育のあり方には、相互発達的な発想、つまり教える者(導く者)と教えられる者(導かれる者)という外見上の区別があったとしても、お互いが共に学び合い、啓発しあっていくという関係性が必ずあるはずである。
昨日、かかりつけの美容師かつ友人のメルヴィンが、「近年の欧米社会では、「I」を起点にした形でしか、つまり自分のことしか考えられない形で行動する人が増えてきているように思うが、日本はどうか?」と尋ねてきた。メルヴィンの質問に対する回答は言わずもがなであった。
和の精神の喪失。本来我が国には「with」の発想が伝統的に存在していたはずなのだが、一体いつからその精神を失ってしまったのだろうか。そうした大切な精神は、私利私欲を増大させる金融資本主義的·物質還元的な発想と共に(with)に失われてしまったのだろうか。フローニンゲン:2020/7/1(水)08:14