【サイケデリック学探究記】11809-11816:2024年1月10日(水)
タイトル一覧
11809. 今朝方の夢
11810. 今朝方の夢の続き
11811. 今日の午後からの「インテグラル・サイケデリックラジオ」に向けて
11812. 意識に関する物理主義と物質主義の違いについて
11813. 様々な種類の観念主義
11814. 物理主義の派生形/「意識」と「マインド」の違いから
11815. 意識哲学に関する三位一体の実践
11816. 対話実践の意義と価値を改めて感じて
11809. 今朝方の夢
時刻は間も無く午前4時を迎えるところである。今朝方もまた昨日と同じくの冷え込みで、今の気温はマイナス6度である。室温も18度まで下がっていて、暖房は頑張って働いてくれているが、それでも温度調節が追いつかないほどである。今日の日中の最高気温もマイナス2度までしか上がらない。明日からはようやく最高気温はマイナスを抜け出すので今日までの辛抱である。
シロシビン・マッシュルームの栽培も4周目を迎えたが、流石にもう4周目ゆえにこれ以上収穫は望めない可能性がある。マッシュルームの栽培には20度以上の室温が必要なため、今の気温ではマッシュルームが頭を出しにくい状況でもある。明日からもう少し気温が上がってきたときに栽培がここから進むのかどうかを確認したい。
そう言えば、今朝方は夢の中でシロシビン・マッシュルームを自宅で栽培している夢を見ていた。夢の中では思わぬ速度でマッシュルームが育っていて、その様子を見て驚いたのを覚えている。立派なマッシュルームがいくつか生えていて、早速それを乾燥させようと思った場面があった。
それ以外にサイケデリクス関係でいくと、 サイケデリクスについて深く探究することを志した日本人の仏教僧を眺めている場面があった。この場面では私は完全に目撃者の意識状態であり、夢を眺める者としてそこにいた。その仏教僧は頭を剃り上げており、とても優しい目をしていた。そんな僧侶が真剣にサイケデリクスを学ぼうとしており、時代も変わったなと思った。その僧侶がどの学派を信奉しているのかは定かではなかったが、真言系かもしれないと思った。それで言えば、真言宗の開祖である空海は、長安に入った時にネストリウス派のキリスト教の教会を目撃したらしく、ゾロアスター教の火の祭りも目撃していた可能性があることを思った。そこからひょっとしたら、プラトンやアリストテレスが参加していたサイケデリクスを活用したエレウシスの秘儀についても何かしらの情報を得ていた可能性があるということも考えていた。すると、僧侶はサイケデリクスについての学術書を読みながら何かを悟ったらしく、ニヤリと意味深な笑みを浮かべていた。そのような夢を見ていた。
その他にも細かな場面としては、小中高時代のある友人(SS)の父が運転する大きなワゴン車に乗っている場面があった。坂道を加速して登ったときに、その頂上で2台のこれまた大きなワゴン車が道を塞いでいた。その車の主は少し柄が悪そうに見え、自販機でタバコを購入しようとしていた。道が塞がれてしまって困ったなと思っていると、一見すると柄の悪そうな運転手の2人はこちらに気づき、低調な姿勢で申し訳なさそうに謝り、すぐに車を動かしてくれた。私たちも2人にお礼を述べ、そこからはスムーズに目的地に向かうことができた。目的地として到着したのは、大型スーパーの駐車場だった。そこで私は両親と待ち合わせすることになっていた。すると、スーパーからとぼとぼと父と母が歩いて出てくるのが見えた。行きは父が運転していたらしいが、どうやら父はスーパーの中にあるレストランでお酒を飲んでしまったらしく、帰りはもう運転できないとのことだった。当初の予定では、自分と数人の友人が父の運転する車に乗せて送ってもらうことになっていたので計画が狂ってしまったなと思った。まぁそれも仕方ないかという思いが芽生えたときに夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/10(水)04:06
11810. 今朝方の夢の続き
時刻は午前4時を迎えたが、依然として今の気温はマイナス6度のままである。なんとここからマイナス7度まで下がり、午前中一杯はマイナス6度で気温が維持されるようだ。その寒さには覚悟しておこうと思う。今日も何度かお湯を入れ替える形で湯たんぽにはお世話になるだろうし、暖房にはさらに頑張って働いてもらいたいと思う。極度に気温が低い日はどういうわけか晴天な日が多く、昨日も雲ひとつない快晴に恵まれ、どうやら今日も雲ひとつない快晴に恵まれるらしい。透き通った美しい青空を眺められることは、こんな寒い日のせめてもの救いであり、大きな楽しみでもある。最高気温・最低気温共にマイナスの氷点下の日々は一旦は今日までなので、もう少しの辛抱である。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。
夢の中で私は、実際に通っていた小学校と高校が融合したような学校にいた。放送委員長を務めていた自分はその仕事を終えて、放送室から教室に向かって歩いていた。ひとりで歩いているときにはぼんやりと自分が考えたいテーマについて考え事をしていることが多く、廊下ですれ違う人たちにはほとんど気づかなかった。そんな状態でしばらく歩いていると教室に到着した。教室では高校時代のある友人(SK)が大学入試に向けての勉強をしていた。勉強を頑張っている彼を励まそうと彼に声を掛けた。すると、彼は今、英語の入試問題に取り組んでいるらしく、問題を見せてもらった。なかなか難しい問題が多く、思考力を試される問題も多かった。何より特徴的だったのは、国語や数学との融合問題が含まれていたことである。そうした問題に対処するためには英語力だけではダメであり、他の科目の実力もつけておく必要があると思った。実際に彼がどれだけ問題が解けたのかを聞いてみると、50点満点中の0点だったそうだ。まさか1問も正解できないとは彼も思っていなかったらしく、また私も予想外であった。思わず2人でその点数を笑ったが、教室にやって来たある武術家の若い先生は、23点を取得していたらしかった。そして驚いたことに、小学2年生のある女の子は53点を取得し、50点満点を越えての点数を叩き出していたとのことだった。その少女は天才と呼ばれていて、IQは234ほどあった。彼女がふっと幽霊のように姿を現し、彼女の答案を見せてくれた。答案を見ると、大変興味深い絵が解答欄に描かれていて、彼女の才能を見た気がした。そして彼女と話をしていると、自分もまた彼女と同等の知能を持っていることが発覚し、彼女は嬉しそうに私との会話を楽しんでいた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/10(水)04:25
11811. 今日の午後からの「インテグラル・サイケデリックラジオ」に向けて
時刻は午前5時を迎えた。ここから今日の読書に取り掛かろう。今日もまたサイケデリック体験と絡める形で意識哲学を中心に探究していく。意識哲学の探究の中で、必然的に量子物理学に触れることにもなるであろう。量子物理学をそれ単体として学ぶのではなく、とにかく自分は意識哲学をここからの専門領域の1つとして確立していこうと思っているので、意識哲学と絡めた形で量子物理学の理論や発見事項を学んでいく。最初から線を作るような意識を持って、両者を架橋させる形での探究を進めていく。
今日の読書の出発は、一昨日に届けられた非二元に関する書籍を読み進めていこうと思う。昨日の段階で初読を開始したので、その続きを読んでいく。先日35冊ほど意識哲学の研究と量子力学の研究のために追加で書籍を購入したのだが、意識哲学の泰斗であるデイヴィッド・チャーマーズの書籍で購入していない書籍がいくつかあったので、それらについても全て目を通しておこうと思い、残りの書籍も全て購入することにした。さらには、サイケデリック体験をとりわけ日本思想から紐解く際に、西田幾多郎先生と高校時代に同級生であった鈴木大拙氏の思想もまた大変魅力的なものに映っており、大拙氏の書籍もあと3冊ほど洋書で購入したいものがある。有り難いことに大拙氏は自らの手で英語で書籍を何冊も出版している。井筒俊彦先生も同様であり、日本の思想家が自ら英語で書き残した書籍は本当に貴重であるし、英語空間で仕事を進めていこうとする自分のような日本人にとって本当に有り難い資料となる。
読書に並行させる形で、今日の午後からの「インテグラル・サイケデリックラジオ」に向けた準備をしよう。今日からのラジオでは、意識哲学の洋書を取り上げていく。これまでのラジオでは課題図書を設けていなかったが、内容の密度をより濃くするために、今回から意識の種々の理論を取り上げた網羅的な書籍を扱うことにした。毎回のラジオでは1章ずつ進んでいく。今回は「物理主義(physicalism)」を取り上げる。まずは物理主義とは何かという定義を押さえ、その貢献と限界を把握していく。そこからは、「物質主義(materialism)」との違いを明らかにすることを意識してみたい。さらに応用的には、サイケデリック体験と絡めたときに物理主義に対してどのようなことが考えられそうかという点も今日のラジオで取り上げたいことである。今日のラジオを迎えるに当たって、追加で調査をしておくべきことは調査をし、考察を事前に深めておくべきことは事前にできるところまで考えておきたいと思う。2024年のラジオは課題図書を扱うことによって、昨年以上に学びの多いものになるであろうことが期待される。フローニンゲン:2024/1/10(水)05:20
11812. 意識に関する物理主義と物質主義の違いについて
今日の午後のラジオでは、意識哲学の洋書を取り上げる。まずは第1章の「物理主義(physicalism)」がテーマとなる。現状の理解では、物理主義とは現実世界を物理世界と捉え、意識もまた物理世界の現象であるとみなす立場だと理解している。さらにその考え方を推し進めれば、意識は物理法則に縛られ、物理法則として記述できるという立場でもあるかと思う。どんな主義でもそうだが、そこには強弱の濃淡があり、極端な物理主義もあれば弱い物理主義もあるだろう。極端な物理主義の場合は前述のように、物理法則として数式で意識を表現できるという考え方になるだろうし、そこにも濃淡がある点に注意が必要だろう。すなわち、意識の全てを数式で表現できるという立場と、意識の一旦を数式で表現できるという立場などの区分もできるはずである。自分自身は意識そのものは決して数式で表現できないという立場を採用しており、数式で表現できるのはあくまでも意識の機能や意識内容に関するものだという立場である。これは自分自身が意識の発達測定の専門家として仕事をしていた経験にも多分に影響されているだろう。その時は、意識の発達段階を測定していたつもりだったが、こうして意識哲学について日々学びを深めていると、あの当時行っていたのはあくまでも意識の機能の構造的発達の測定に過ぎず、意識そのものの発達を測定していたわけではなかったのである。むしろ意識そのものは発達などしない。それは発達するとかしないとかを超えた形で、ただ純粋に一なる存在としていかなる瞬間にも佇んでいるものなのだという考えを今の自分は持っている。詰まるところ発達測定とは、意識内容を咀嚼する意識の機能的構造の質的差異を捉えているに過ぎず、意識そのものを扱っているわけではないという点を押さえておきたい。その観点で言えば、発達測定に熱を上げていた自分はある種の物理主義を採用して意識を捉えていたのだと気付かされる。これまでの自分が意識をどのような存在とみなし、意識とどのように向かってきたのかを内省させてくれる機会を意識哲学は提供してくれる。
それでは物理主義と「物質主義(materialism)」の違いはなんだろうか。物質主義は、物理法則というよりも、意識を文字通り物質に還元して捉える発想のことを指すと現状理解している。例えば、意識を素粒子の集合体とみなし、その集合体から創発現象として立ち現れるのが意識だという発想や、脳の神経細胞ネットワークの創発現象として意識が立ち現れるとする発想などは物質主義のそれだろう。物質を扱う際には物理法則も絡んでくることが多いため、厳密に物理主義と物質主義を切り分けることは難しいのかもしれないが、物理法則に主に焦点を当てることと物質に主に焦点を当てることの切り分けは可能であろう。ここからは改めて今日のラジオで取り上げる課題図書を読み返したり、関連文献を読み返したりして、両者の違いをさらに明瞭なものにしていきたい。フローニンゲン:2024/1/10(水)05:33
11813. 様々な種類の観念主義
先ほどいつものようにモーニングコーヒーを淹れた。アニマルフローの実践の後に温かいカカオヘンプドリンクを飲み、それを飲み終えたらコーヒーを淹れるというのが日課なのだが、コーヒーを淹れているといつも幸せな気持ちになる。やはりそれは香りの影響だろうか。香りの持つ不思議な力に誘われ、引き続き物理主義と物質主義の違いについて考えていた。どちらも物理学が主たる基盤の発想になっていると思うが、前者の物理主義の方が意識を多角的に捉えており、後者の物質主義の方が意識を狭く捉えていることが見えてくる。文字通り、物質主義は意識を「物質(matter)」として捉える。一方の物理主義は、確かに意識の物質性を認めながらも、意識を「力(force)」「エネルギー(energy)」「時空(time and space)」といった他の物理要素からも考察をしていく点が特徴的である。
物理主義の特徴をさらに考えていく際にはその対極にある思想を考えていくことが重要であり、物理主義の対極には「観念主義(idealism)」がある。観念主義も実に様々な派生形があり、それらをつぶさに理解していくことが重要だ。学者によって呼び方は様々あるかもしれないが、主観的観念主義、客観的観念主義、形而上学的観念主義、存在論的観念主義、認識論的観念主義など実に多岐にわたる。
主観的観念主義は、リアリティは個人の主観的世界の中で経験されるものであるという立場であり、リアリティはその個人の意識とそれを超えた普遍意識によって把握されるという立場を取る。一方の客観的観念主義は、リアリティは個人の意識や知覚から完全に独立した形で存在しているという立場である。形而上学的観念主義とは、私たちがリアリティだと思っているものやリアリティ全体は根本的に観念であるとする立場、すなわちメンタルなものであるとする立場である。注意が必要なのは、ここで述べている観念やメンタルというものは個人的なものではなく、トランスパーソナル的なものであるという点だ。また個人の主観的経験を超えたリアリティも想定している点が主観的観念主義と異なると言える。この発想は、バーナード・カストラップが提唱した「分析的観念主義(analytic idealism)」の考え方に近いだろうか。両者の違いはあるだろうが、共通しているのは、リアリティは全て観念なのであって、物理的でも物質的でもないという点と、その観念性は普遍意識を見据えているという点だと言えるだろう。すなわち、リアリティは個人の意識が生み出しているというのは主観的観念主義や独我論的な考え方に近く、それとは違いがあるということである。
残りの存在論的観念主義についてもまとめておくと、存在論的観念主義は、事物は人間のマインドに依存して存在しているという立場である。つまり、物理法則や物質が先にあって意識を論じていく物理主義や物質主義を否定する立場を取っているのが存在論的観念主義である。もう少し付け足しておくと、物理主義や物質主義は存在論的に人間のマインドに優位性を与えず、物理法則や物質に存在論的優位性を与えるという特徴がある。最後に、認識論的観念主義について、それはある対象についての知識は全て個人の思考構造によって規定されるという立場である。そこでは個人の意識を超えて、普遍的な意識については想定されていないために形而上学的観念主義とは立場を異にする。観念主義にはこのように様々な種類が存在しており、これからそれらについてもっと個別具体的に考察を深めていく必要があると思いながらコーヒーを淹れていた。フローニンゲン:2024/1/10(水)06:23
11814. 物理主義の派生形/「意識」と「マインド」の違いから
早朝から引き続き意識哲学の様々な書籍を読みながら考えごとをしている。今日のラジオで扱う物理主義は、意識研究の至る所で見られる考え方である。それは流行的なものとも言えるし、潜在的に病理的なものとも言える。とにかく色々な研究者が暗黙的に信奉しているような立場だということが種々の書籍や論文を読んでいるとわかる。意識をわかりやすく物理的な要素で語るということはそれほどトレンドではなく、むしろ物理主義が隠れた形で精緻な理論を構築している主義がある。それが機能主義(functionalism)であり、心の表象理論(the representational theory of mind)と呼ばれるものである。どちらも非常に精緻な理論体系を持っており、意識研究に独自な貢献を果たしているが、そこでも扱われているものは意識そのものではなく、意識の機能的な側面や意識の内容物であることに注意が必要である。どうやら意識研究の研究者ですら、意識そのものと意識の機能や内容物との区別をつけることが難しいようである。それはきっと意識研究のパラダイムが依然として物理主義的なものに縛られているからだと思われる。いや、意識研究だけではなく、やはり物理学優位の現象は他の学問領域でも広く見られることであり、それは時代のパラダイムだと言えるかもしれない。意識研究に従事する一流の研究者であっても自らが取り込まれているパラダイムを対象化することは難しいのである。しかしながら、ここから意識の本質や意識そのものの研究が進むためには、時代のパラダイムを冷静に客体化でき、パラダイムの枠組みを超えた発想ができる研究者が必要かと思う。自分もまた意識研究に携わる1人の人間として、時代のパラダイムを超克していく姿勢を絶えず持ちたいと思う。自分もまた必ず時代のパラダイムに影響を受け、そこから脱却してもまた新しいパラダイムの制約を受ける。そう考えてみると、研究者の仕事はパラダイムとの絶え間ない格闘であるように思えてくる。少なくとも一流の研究者になろうとするのであれば、その自覚がなければならないだろう。
そもそも論として、「意識(consciousness)」と「マインド(mind)」の違いについて考えていた。英語において、意識は複数形を取らず、絶えず単数形扱いなのだが、マインドは複数形を取る。そこに両者の大きな違いがあるように思える。確かに、「個人の意識(individual consciousness)」という表現はあるが、本来意識の英単語が指し示しているのは複数形を取らない普遍意識のことであり、個人の意識と普遍意識の区別をすることは重要だろう。一方で、「個人の意識」と表現する場合は、それはマインドと置き換えることが可能である。さらに細かな話で言えば、「私のマインド(my mind)」「私たちのマインド(our minds)」の場合は、いずれも個人の意識かその集合体を指しているが、後者の場合であっても意識そのもの、意識全体ではない点が注意が必要である。複数の個人の意識の加算は、意識全体になるとは限らないのだ。意識そのものと同義語であると言えそうな表現は、“the mind”という形で“the”という冠詞が付く点に注意が必要だ。
そうしたことを踏まえて再度強調しておくと、普遍意識こそ意識そのものなのでマインドに置き換えることはできない。意識そのものと意識の機能や内容物との区別、そして個別意識と普遍意識との区別を踏まえて意識について議論していく必要がありそうである。フローニンゲン:2024/1/10(水)06:58
11815. 意識哲学に関する三位一体の実践
西洋哲学に立脚した意識哲学の学術書と仏教に立脚した意識哲学の学術書を旺盛に読み進めていると、気がつけば午前10時を迎えていた。すでに外はすっかり明るくなり、午前3時半頃に起床してから随分と時間が経っていたのだと気づく。
今の自分は仏教と日本思想における意識哲学と西洋の意識哲学をどうにか架橋できないかと試みている。それを行うことは両者の対話を促し、さらに精緻な意識哲学を構築し、意識についての理解がさらに深まっていくことが期待される。西洋の意識哲学においては重要な論客が何人もいるが、現在まだ生きている人物としては、今のところデイヴィッド・チャーマーズとバーナード・カストラップに注目している。両者に関しては彼らが出版した全ての書籍を読みながら、彼らの思想体系をまずは骨の髄まで獲得していくことを行っていく。サイケデリック体験によって開示される個人の意識の種々の性質と究極意識・絶対意識・普遍意識について東西の意識論から紐解くことはもはや自分のライフワークとなったと述べても過言ではない。
そのライフワークを進めていくためには絶え間ない学びが必要になる。実践は学びに内包されるもので、学術書を通じて意識について研究することも1つの立派な実践である。自分はそれに加えて、サイケデリック実践と瞑想実践を不可欠な実践として捉えている。先日ふとした思いつきから、夜寝る前だけではなく、午前と夕方にも瞑想実践を取り入れてみたところ、それが意識哲学の研究を大きく後押ししてくれているという実感をもたらしている。先ほども瞑想を少しばかり行い、その中で意識哲学の種々のトピックやテーマに想いを巡らせたり、ほぼ完全に無の状態になる瞬間もあるなど、意識探究上瞑想は本当に優れた実践かと思う。
意識哲学に関する学術書と論文を旺盛に読んでいくこと、サイケデリック実践、瞑想実践、この三位一体の実践をとにかく大切にしていこう。ここでも不思議なことに、三位一体の関係性が形成されていることに気づく。このリアリティにおいて、二者関係ではなく、三者間関係がどうやら重要なようだ。この三位一体の実践を日々継続してどこまでも行っていけば、自ずから自分の意識哲学が形成されていき、意識に関する諸々の真理が紐解かれていくのではないかと思う。フローニンゲン:2024/1/10(水)10:24
11816. 対話実践の意義と価値を改めて感じて
時刻は午後3時を迎えた。今、夕方の雲ひとつない青空を眺めながら一息ついている。この日記を書き留めたら少しばかり瞑想実践をして、そこから夕食準備まで再び読書に時間を充てようと思う。
先ほどまで、「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第49回の収録を行なっていた。今その収録を終えて脳が刺激されていることを感じる。今回からラジオの方針を変えて正解だったと思う。振り返ってみると今日の収録は、早田航さんと1冊の課題図書をもとに対話を深めていくことが実現された素晴らしい回であった。今日は、意識哲学の書籍の第1章を扱って、「物理主義(physicalism)」の観点から意識について対話を行なっていったのだが、その過程の中で本当に多くの気づきを得られ、航さんとの対話を通じて、ここから自分自身の意識哲学の思想体系を形作っていくことができるという確かな手応えが生まれた。ソクラテスが述べたように、そして彼が身をもって行なったように、哲学において対話に勝る実践はないように思う。意識哲学の研究を進めていくにあたっては、三位一体の実践として、意識哲学に関する学術書や論文をもとにした対話実践、サイケデリクスの摂取実践、瞑想実践の3つを最重要な実践として掲げておきたい。これから自分はこの三位一体の実践をとことんまで深めていくことによって、意識の本質に少しでも迫っていければと思う。
内容云々ではなく、今日のラジオの中ではあえて反対意見や挑戦する意見を場に提示することを通じてお互いの考えが磨かれていったような感覚があった。それはより精緻な思想体系を構築していく際の不可欠な要素になるだろう。今後のラジオの中での対話のみならず、少なくとも学術機関における対話の場では、反対意見や挑戦する意見の提示と受容を積極的に行っていきたいと思う。
午前中にふと、大学機関で教授として仕事をすることに対して前向きな自分がまたしても現れ、教授として働いている自分を夢想していた。春夏学期制を採用していれば、その制度に組み込まれることを通じて、季節の規則正しい周期の中で生活を形作ることができるのではないかと思った。これまでの暮らしは仕事上において季節の周期に縛られることは一切なく、それはそれとして自由で楽しかったのだが、あえてそこに規則性を取り入れることで生まれる集中力などもあるのではないかと思ったのである。季節が変わり、気持ちを新たに仕事に取り組めるということもまた、季節に影響を受けた学期制を採用する大学機関で働くことの良さかと思った。学期の終わりにやってくるまとまった長期的な休みの有り難さについても身に染みて感じるだろうし、そうしたまとまった休みの期間に適した仕事に集中的に取り組むなどのメリハリも生まれそうである。そうしたことも含めて、今自分は学術機関に所属して働くことに対してとても前向きになっている。さて、それが今後実現するのかどうかは今の自分にはわからないが、そうした未来がやって来て欲しいと望んでいる自分がいることは確かだ。フローニンゲン:2024/1/10(水)15:16
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