6043.【アテネ旅行記】教育の抜本的見直しとシャドーに対する感性と理解の涵養の重要性
時刻は午前5時を迎えようとしている。アテネに到着してこれからアテネの滞在を満喫しようと思っていた矢先に、なぜGo Toキャンペーンについて考えていたのか不思議になる。きっとそこには、日本人としての自意識と母国を思う気持ちがあったからなのだろうか。
母国を思う気持ちが強いほど、やはり今の母国の現状には危惧をする。仮にコロナの1件だけではなく、今後国家として諸々の自然災害や他国の侵略的行為によって、国家的な危機に瀕したとしても、私は大して日本は変わらないのではないかという問題意識を持っている。
そうした危機に瀕したとき、おそらく国が取るであろう方針は、依然として物質経済的な次元のものしかないのではないかということに大きな憂いを持つ。そうした方針によって、再び一時期的に経済的な状況が改善されたとしても、本当に豊かな国の実現が果たされるのだろうか。
物質経済的な施策の重要性は言うまでもないが、物質経済的な形で全てをなんとかしようとする発想に限界があることに気づく必要があり、そして重要なことは、そもそもなぜそのような発想が生まれているのかという根本的な原因ないしは前提を問うことが本当に求められているように思う。
それを他人任せにすることはできず、それは国全体として考えるべき問題であり、同時に個人1人1人が考えるべき問題ではないだろうか。個人や社会の隠れた発想の前提を問う思考というのは、成人発達理論やインテグラル理論の観点で言えば、「後慣習的段階」の思考形態であり、そうした思考を育んでいくことは本当に大切だと思う。
その観点において、教育哲学者のザカリー·スタインが指摘しているように、子供と成人の双方の教育の抜本的な見直しは不可欠かと思う。スタインはまさに、現代社会の問題の根元に教育の失敗を見ている。
とりわけエリート教育の失敗、言い換えれば、国家を主導していくエリート層の教育が失敗に終わっていることを指摘している。確かに、金融危機を引き起こした要因を作り出したのは、ウォール街にいるアイビーリーグ出身のエリート層が主であったし、米国において戦争を主導しているのもそうした大学出身のエリート層である。
我が国においても、政治経済的な問題の根源を生み出しているのは、難関大学と呼ばれる大学を卒業したエリート層かと思われる。そうした観点において、真に国を導き、国を豊かにしていくためのリーダーを養う教育は非常に重要だと思われる。
それはもちろん、エリート層への教育を見直すだけではなく、全ての国民に施す教育のあり方そのものを抜本的に問いただしていく必要があるだろう。しかし私は、やはりそれだけでは十分ではないように思える。
スタインが指摘するように、教育は人間の意識と知性を涵養していく上で、端的にはknowing, doing, beingをより深いものにしていく上で不可欠のものである。しかしながら、教育を根本的に見直すだけでは足りない何かがあるように思う。それが何かというと、シャドーに対する認識の欠落である。
少なくとも、リーダーを担う人間は、自身のシャドーに対して深い認識を持つ必要があるだろし、社会のシャドーが何かに対する鋭い認識を持つ必要があるだろう。そうでなければ、Go Toキャンペーンのように、意思決定者のシャドーと社会のシャドーが残ったまま、それらが投影される形でなされる対処療法的な打ち手が後を絶たなくなってしまう。
シャドーに対する感性を育むことや理解を深めることも教育の範疇と言えばそうかもしれないが、スタインだけではないが——スタインの主著“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”にはシャドーについての言及はほとんどないが、ある対談インタビューにおいては集合規模でのシャドワークの重要性についても言及している——、そうした指摘を行っている教育哲学者はあまりいないこともあり、ここに書き留めておくことにした。アテネ:2020/7/24(金)05:24
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