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教育なんて全然興味なかった
教育なんて全然興味がなかった。少なくとも教える立場としては。
教師になろうなんて一回も思ったことがない。今もそう。
それでも、自分でゼミを主催して、それに対してゼミ生の皆さんの様々な反応・反響・感想を見聞きすると、「これは教育だったのかな」と思ってしまう。
自分がさまざまな考えを学ぶので精一杯で、出来れば周りの人にその知識を共有したい、特に政治の話は民主主義なんだからたくさんの人と共感して、出来れば対話してみたいという思いがあったので、自分の知っていること、見聞きしたことをわかって欲しいというくらいの気持ちで説明を続けていた。
そうしたら、今シーズンのゼミの、最終回の、補講を終えてその感想で、ながもりさんがこんな文章を書いてくれた。
様々なトピックについて、テクニカルタームも使ってご自身の感想・考えを書いてくれたおかげで、「あー自分はこんなことを話していたのか」と振り返ることができる。
惜しむらくはゼミの講義をなぜ音だけでも録っておかなかったのか。まぁいいや。ゼミのスライドをベースに例え話や、具体例、脱線、趣味、色々な話をしていたらしい。
話している時は、対話相手のネネさんをはじめ参加者の皆さんが理解してくれているか、自分が納得できる説明になっているか、ということを少し考えながら、大筋はスライドのテキストに拠りつつ、後はそれにまつわるエピソードや、原典やサブテキスト・そのほかの映像やメディアで見聞きした話、実体験を思いつくまま、連想ゲームのように話した。
そして声が行き届いているかに集中して話しているので、実際自分が何を話したのか、ディティールはほとんど覚えていない。
多分同じテキスト・スライドを使ってもう一回やっても、同じようにはならないだろう。同じ範囲のテーマのゼミでも、1回目と補講では話している内容はだいぶ違うと思う。
話している時の自分の頭の中は中身が詰まっているような、空っぽのような、不思議な感覚である。しっかりと地に足がついている感覚はなく、よく言われるような「言葉が泉のように湧いてくる」わけでもなく、少し浮いたような、どこから言葉がやってきているのか、自分でもよく分からない。ただ、言葉がどんどん生成されていることは確かだ。
なんでこんなゼミをやっているのか。
こんなゼミがどこに繋がるのか。
聞いてくれた人たちにどうなって欲しいのか。
正直よく分からない。
教育とはそういうものではないか。教育の効果・成果なんていつ実現するか、どんな形で実現するかは分からないし、予測はナンセンスだ。
ただ、ここまでの参加者の皆さんの反応や、ゼミ後に考えたことを読んだり聞いたりすると、「へぇ、すごい」「そんなこと考えてるんだ」と皆さんの成長?変化?を単純に喜んだり、驚いたりしてしまう。
昔からそうだ。3歳離れた妹が何か新しいことができるととても嬉しくなってめちゃめちゃ私の方が喜んでいた。学生時代も部活で指導した人が課題をできるようになると、我が事のように嬉しいことがあった。仕事でもそう。
共感するとか、相手の成長を喜ぶ性格は、割と教育に向いている、のかも、しれない。