パレスチナ旅行記 #5 「Life is hard, but life is fun.」(全6回)
こんにちは。ただいまスウェーデンの大学に留学中の大学3年生です。記事を開いていただきありがとうございます。
第5回記事では、2日目の夜にムハンマド宅で起こったあれやこれやを雑多に書き連ねていきます。
ヘブロンからの帰り道で、僕の感情は底を打ちました。大袈裟な言葉を使うようですが、絶望したと言っても言い過ぎではないくらい。
でも、その日が終わってみれば、眠りにつく瞬間を僕はとても幸せな気持ちで迎えることができたのです。
それは、精神の危機に寄り添ってくれた家族や友人がいたからであり、僕がふたたび新鮮な気持ちでムハンマド一家に向き合おうと決めたからであり、一方で彼らも僕のことを温かく受け入れてくれたからでした。そして、彼らと交流を深めていく中で、ただ「貧しい」だけではない、彼ら一人ひとりの人生の奥深さのようなものに少しだけ触れることができたからでもあると思います。
僕にとってパレスチナでのハイライトとなった経験をつづった回です。
Life is not easy, but life is fun.
暗い部屋の中で、堪えていた涙が溢れてくる。怖さ、悲しさ、混乱。いろんな感情がぐちゃぐちゃになっている。部屋の中に彼の残した言葉の残滓がただよう。We are good people, but life is not easy.
あとからこのときの精神状態を振り返れば、僕は、自分の理解の範疇を遥かに超えてしまったものに圧倒されてしまっていたのだと思う。町で聞いた悲惨な話の数々や、ネジの外れてしまったように感じられる人間たちの思考回路。僕が今までの人生を通じてよって立ってきた「当たり前」は、この一瞬でゆらぎ、頼ることのできないものとなった。火山の噴火が一瞬にして地盤をゆるめ、形を変えてしまうように。そして「当たり前」の地盤が崩れたとき、僕の判断や価値観は絶対的な参照点を失う。それまで僕を導いてくれていた精神の地図はその役割を果たさなくなる。そして僕はひとりになる。僕は激しい風の吹き荒れる荒凉としたカルデラにかかる一本の今にも切れそうな糸の上で、必死にバランスをとりながら、ひとり立っている。
僕は、あらゆるものが信じられなくなってしまったように感じた。
自分の日常と結びついた人の声を聞きたくて親に連絡すると、日本では深夜にもかかわらず起きていた母が反応してくれる。電話をつなぎ、母の声を聞いて、ようやく心が少し落ち着く。「本当はいい人たちだと思うんだよ。」そんな言葉も出てくる。ハウラと子どもたちがお茶を持って入ってきてくれるが、僕の様子を見て、 "Sorry…" とお茶だけ置いて部屋を出ていく。
電話を切って、今度は旅行の様子を逐一報告していた友達に連絡する。友達は言う。
「信じられるかどうか、じゃなくて、信じるかどうか、だと思う。思い切って、信じてみたらどうだろう。自分が変わったら、相手も変わってくれるかもしれない。」
それは今の僕に必要な言葉だった。家に帰ってきた自分を心配そうに見つめてくれたムハンマド一家の皆の姿から、彼らに決定的な悪意がないのはもうわかっていた。お金には汚いかもしれないし、お金と信頼はこの地においては深く結びついているのも確かだけど、それは彼らの善意とは切り離されたものだとわかってきていた。
彼らが僕をはねつけているのではない。彼らを受け入れることを心のどこかで拒んでいるのは僕自身なのだ。
「信頼してみようと思う。」そう口に出して、僕は目の前の現実にもう一度向き合い切る心の準備を整える。親、友人、そして遠く離れていても彼らと話すことを可能にしてくれた現代技術に心から感謝する。
部屋に入ってきたムハンマドに「もう元気です!すみませんでした」と謝る。本当に元気になっていた。「そうか、良かった」ムハンマドはそう言う。子どもたちがわっと部屋に入ってくる。そしてハウラが見たこともないくらい大きな鍋を伏せたもっと大きなプレートを抱えて現れる。夕ご飯だった。
「マクルーベ!」
みんなが鍋を指差して口々に僕に向かって叫ぶ。マクルーベ。パレスチナの伝統料理。(あとで調べたところによると、おもてなしの料理だそう。)
伏せてある鍋をハウラがそっと持ち上げると、煙がむわっと立ち上って、料理が姿を現した。炊き込みご飯のような見た目。鍋の形にかたどられたところから、お米がほろほろとこぼれ落ちる。大胆に切られたなすやじゃがいも、そしてチキンが食欲をそそる。取り皿にたくさん盛り付けてくれたマクルーベを一口食べる。おいしい。「ジャイエット!」
そして僕は理解する。ムハンマドが先ほどスーパーで買ってきたものが、このマクルーベに変身したのだということを。
僕は80ディナールも一気に必要なわけはないと思って断った。今でも80ディナールは必要なかったはずだと思っている。でも、こんなに大量のお米やチキンやナスやじゃがいもを買うのには確かに相当なお金が必要だったはずであった。そしてそんな大量のマクルーベも、9人の子どもたちによってあっという間に平らげられていくのだった。
お金が必要だ、と言っていたムハンマドの真意を僕はやっと理解した気になる。そして、そんなに厳しい生活の中で、僕の皿に誰の分よりもたくさんのマクルーベを盛り付けてくれるムハンマド一家に対して、深い感謝の念を抱かないわけにはいかなかった。そして彼らを疑ってしまったことについても申し訳なく思った。疑り深くなってしまったのは、自分の身を守る上である程度しょうがないことだとは思うけれど。
マクルーベを食べながら、僕らはいろんな話をした。お互いの国のこと、家族のこと、僕ら自身のこと。
ムハンマドはTikTokのヘビーユーザーであったため、僕は彼がTikTokの動画を一つ一つ見せてくるのに我慢強く付き合わなければならなかった。
「これは有名なバクラヴァのお店でな」
「これは有名なシェフのネタ動画」
「これはパレスチナの伝統的な結婚式だ」
「これはイスラエルが嫌いなユダヤ人がパレスチナを訪問したときの…」
「これは今日イスラエルの兵士に子どもを殺された母親の動画だ…」
ムハンマドはまた、僕にあることを頼んできた。「Yoheiはテクノロジーが得意だろう。あのよ、観光客がここのタクシーをググったときに俺らのこと見つけられるようにしてえんだけど、どうやったらいいかわかるか」僕にいろんなことを経験させてくれた恩もある。詳しい友達に聞いてあとで必ず連絡しますね、と言っておく。
英語が苦手なお母さんや子どもたちも、翻訳ツールを使いながら頑張って僕に質問してきたりしてくれる。温かく活気に溢れた時間が過ぎる。
夕ご飯を食べ終わってしばらく歓談していると、どういう流れか僕は他の男たちと一緒にわらわらと外に連れ出される。寒いから、と着せられたのはいかにもアラブ的なテイストの、金色が映えるコート。羊の毛皮で作られたんだよ、と言われて納得する。確かに暖かい。
男たちが向かったのは隣の家。わけもわからず促されるままに中の広間に入ると、そこではすでに見知らぬ男たちが談笑している。よくわからないが、おそらく多くはその家に住んでいる者たちなのだろう。細かい年齢はわからないが、おじさん、か、おじいさん、と呼びたくなるような顔つきの人たちだ。
促されるままに僕は部屋の中心を囲むように置かれているソファの一つに腰を下ろす。部屋の装飾はシンプルだが、布のすり切れたソファや絨毯のえんじ色はいかにもアラビア風だ。言葉もほとんど通じないアウェイ中のアウェイな状況なのに、その部屋は不思議に懐かしい匂いがする。僕がいつの間にか忘れてしまっていた、ゆったりとした時間と空間。
「金曜の夜は、男たちはみんなこうやって一晩中語り明かすんだ。」
いつの間にか来ていたムハンマドが僕に言う。ムハンマドは僕が出会ってから見てきたどんな瞬間よりもリラックスしているように見える。小さなテレビからエキゾチックな映像が流れている。アラブの人々に大人気のドラマらしい。人々は僕の知らない言葉で語り合い、ときに話題が途切れると皆でテレビに見入る。
男たちはやたらと金の話をしたがった。「日本だとトヨタのランドクルーザーはいくらするんだい。こっちではランドクルーザー持ってると王様になれるんだ。」ほかにも、日本では大学の学費はどれくらいかかるんだ、とか、iPhoneの新機種はいくらだ、とか。
隣に座っている男と話をする。男の名前はジャマールと言った。ジャマールは日本の高校に当たるところを卒業したあと、数年前まで16年間、ベツレヘムの観光客向けレストランで働いてきたという。「だからこうやって英語も話せるんだ。」そしてコロナが襲ってきた。観光でなんとか経済を維持していたパレスチナは壊滅的な状態に陥った。衛生も整っておらず、たくさんの人が亡くなった。もちろん、ジャマールが働いていたレストランも閉店し、彼は仕事を失った。
「今はエルサレムで働いている。単純労働だ。いい仕事じゃない。」ジャマールは言った。「毎朝4時にイスラエルの検問を通過するんだ。そして半日働きづめだ。人生は大変だ。」
Life is not easy. それはまるでパレスチナで生きるほとんどの人々の合言葉のようだった。
でも、ジャマールの話は続いた。「ここでは、男は4人まで妻を持つことができるんだ。25歳までに1人目、それから5年ごとに新しい妻を一人、といった具合にね。」諭すように彼は続けた。
「僕には今、2人の妻がいる。今日はこの家、明日はもう一つの家に泊まる。もうすぐ3人目を持つ予定なんだ。どうだ、人生は楽しいぞ。」
非常に俗っぽい話をしているのにもかかわらず、ジャマールの目は澄んだ色を湛えていて、表情は凪のように落ち着いていた。
Life is hard, but life is fun.
僕がパレスチナで出会った人々は、一人残らず厳しい生活を強いられていた。目を背けたくなるような瞬間もあった。でも、彼らはただの不幸者ではなかった。悲劇に生まれ、たとえ悲劇に終わるとしても、彼らの生にはある種の豊かさと力強さがあった。もちろんそれも人によって様々なのだけれど—。
来たときと同じように男たちが僕を促し、わらわらともとの家に戻っていく。僕も部屋に戻り、今度こそ寝るモードに切り替えようとする。
でもまだ寝させてはくれない。男たちはまた僕の部屋に入ってきて、みたび僕を外に連れ出す。
家を出てすぐのところで、赤々と燃える焚き火を囲んで青年たちが座っている。今度は見たところ僕と同じくらいの年齢の青年たちだ。女性たちも少し遠くからそれを見守っている。促されるままに焚き火を囲む椅子の一つに腰掛ける。青年たちは、ときに手を焚き火にかざす。寒いからというより、文字通り手持ち無沙汰だからやっているという方がしっくりくる仕草だ。
焚き火にかざすとき、彼らの手は錯覚かと疑うほど火に近い。ときにはどう見ても火に触れている。でも彼らはまるで火を手なずける術を心得ているかのように、ためらいなく火や薪に手をかざし、触れ、掴む。なんだか魔法を見ているかのような不思議な気分だ。
青年たちは、何やら液体の入った金属製の容器を焚き火にかけている。誰かが、アラブの遊牧民ベドウィンの伝統的なコーヒーを作っているのだと教えてくれた。たっぷりとコーヒー粉を入れて容器を焚き火から下ろすと、小さなコップにコーヒーを等分に注ぎ、僕に一つ渡してくれた。口に含むと、とても濃厚な苦味が口の中に広がる。今までに飲んだことのあるどんなコーヒーとも違っていて、美味しい。
ある青年(アーリフ、と言った)が別の青年(イサール、と言った)を指差しながら僕の方を見て、アラビア語で何か言った。なんだかよくわからないまま繰り返すと、二人は声を上げて笑った。すると今度はイサールがアーリフを指差しながら僕の方を見て何かいうので、またそれを繰り返すと、もう一度二人は笑う。よくわからないが、きっと僕を通じて二人で互いをけなしあっている、といったところだろう。そんなやりとりがいつまでも続く。よくわからないけど、みんな笑っているので楽しい。
もし自分が彼らと同じ言葉を解したら、こんなに楽しくなかっただろう、と思う。
青年たちが立ち上がって何やら手拍子を打ちだす。僕にも立つように促してくるので、僕も彼らにならって同じようにやってみる。ベドウィンの伝統的な歌だよ、と誰かが教えてくれる。明かりのない夜、丘の上の小さな住宅地の一角で、煌々と燃える焚き火を囲みながら、僕たちはそれぞれの身体で同じリズムを刻む。それは、言葉を経由しないコミュニケーションであった。
わからないからこそ、わかりあえるように思うこともある。
誰かが僕に指輪をはめてくれる。ごつごつした、あまり実用的ではないリングだ。返そうとしても「それはお前のだ」とジェスチャーで伝えられる。僕は甘んじてそれを受け取る。
時刻は午前1時を回った。さすがに眠くなってきたので焚き火の集団とおさらばし、部屋に戻る。そして眠りにつく。僕の人生でいちばん濃密な一日、たくさんの感情を経験した長い長い一日がようやく終わりを告げる。(続く)
第6回記事はこちら↓
記事を読んでくださった方へ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この記事を読んでいただくにあたって留意していただきたいことを、第1回記事の最後にまとめています。まだ読まれていない方は、ぜひ目を通していただけたらと思います。
次回が最終回となります。最終回は、ムハンマド一家との別れと後日譚、といった内容になると思います。
経験談ですから完璧なハッピーエンドもバッドエンドもあったものではありませんが、僕の経験したありのままが伝わることに価値があればいいな、という思いでおります。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?