Borderland #3 (プログラムを終えて—プライベート編)
英語の上達
これは非常にわかりやすいところです。プログラムにほとんど日本人がいなかった上、宿もともにして他の参加者と24時間一緒に過ごす集中的なプログラムだったため、なんだかんだ日本人としょっちゅうあっていたり一人の時間が長かったスウェーデンでの留学期間よりもかなりしっかりと英語を使いました。日常会話もそうですし、少し前までなら自信がなかったであろうアカデミックな会話や先生との1対1でのミーティングなども、適切な準備をすればそれなりに問題なくこなすことができるようになりました。
帰国から10日と少し経ち、日本語の沼に溺れている現在、急速に英語力が低下しているような感覚を抱いているので心配ですが、一度獲得した能力はきっとすぐに取り戻せるだろうと信じています。
異文化協働・コミュニケーションの楽しさと難しさの再度の自覚
特に最初の数日は、コミュニケーションにおける自分の「成長」にかなりの達成感を覚えていました。言語的なところで言えば英語でコミュニケーションをとるのにあまり苦労を感じなくなっていること。文化的なところを見れば日本人でない人に話しかけたり気持ちよく会話をするためのコツみたいなものを無意識に身につけることができていること。会話やプログラムの進行についていくのに精一杯になってなんとか「こなす」というのではなく、きちんと前のめりに参加して自分の価値をそれなりに発揮することができている、という感覚もありました。自分でリフレクション日記をつけていたのですが、ハイテンションで書いたプログラム2日目のものの一部がこちら(一部改変)。
と、達成感を覚えていたのですが、もちろんそれだけでは終わらず。無理していたところの歪みとか、表面化していなかった課題みたいなのがプログラムが進むにつれて少しずつ出てきました。
例えば、少人数でのグループディスカッションについていけない。理由は色々考えられて(これもリフレクションで分析した)、「講義の英語が聞き取れなかった」「ディスカッションの英語が聞き取れなかった」「ディスカッションのトピックに関して自分の意見が持てていなかった」「興味のあるトピックではなかった」「言いたいことはあるのに自分を主張できなかった」「疲れていて眠かった」などなど。色々考えたりはしたけど15-30分とかのディスカッションでほとんど一言も発せずに終わるというのは現実を思い知らされる体験だったりしました。
例えば、2-3週目のNGOインターンでほとんど自分のバリューを発揮できない。最初は「よし、やってやるぞ」とかなり前のめりだったけれど、他のメンバーの話している内容がわからず確認するのが億劫になったときからコミュニケーションについていきにくくなり、それによって自分の意見も発信しにくくなり、役に立てていない申し訳なさでより萎縮してしまいさらについていけなくなる、、という悪循環がありました。それで自分だけわかっていないと思って放っておいたら後になって他の人たちもあんまりわかっていなかったことが判明して問題に対処しなきゃいけなくなる、みたいなあるあるもあったり。
また、NGOの職員の方からのタスクの依頼が滞ったときや曖昧だったときに、自分から積極的に提案をしている他のメンバーの隣で自分だけ何も言えないで流れに身を任せている、みたいなシーンもあったりしました。正直、これくらいの異文化協働スキルは身についていると思っていたので結構残念だったし、小さな挫折体験でした。もちろんその経験や他のメンバーから学ぶことも多かったけれど。
それからよりパーソナルなところで大きかったのが、異文化コミュニケーションの難しさ。先ほども引用したように、最初の数日は自分が「自然体でいられている」と思えていたところに達成感を感じていましたが、その数日が過ぎるとどっと疲れが押し寄せてくるようになりました。
そもそも自分は、日本人ではない人と英語で話しているときと日本人と日本語で話しているときでかなり性格が変わると思っています。端的にいうと、英語で喋っている時の方が明るくなる。言語の性質によるものもあるのかもしれませんが、文化的な差異に敏感になっているがゆえというのも大きい。つまり、日本人同士であれば1対1であろうがグループであろうが「話さない時間」というのがあってもあまり気まずくありませんが、特にヨーロッパ(今回のプログラムの参加者の半数程度はヨーロッパ出身だった)をはじめとした海外では「誰かと一緒にいてスマホを見ていなければ基本会話に参加する」が基本のスタンスの人が多いと思います。もちろんそれが全てではないのですが、自分がそのように考えてしまっているので、日本人以外と喋るときは「何か喋らなきゃ!」と少々焦って、無理やり会話を続けようとする、みたいなことが起こるのです。
また、僕自身が意識してたくさん話そうとしていたというのもあります。理由の一つは単純に英語を上達させたかったからで、もう一つは言い訳をしてコミュニケーションを避ける自分というのが好きになれなかったからです。つまり、僕の場合、英語でコミュニケーションをとるときはどうしても「うまく話せなかったらどうしよう」「聞き取れなかったらどうしよう」「コミュニケーション取るの頭使うし面倒だな」みたいなコミュニケーションを避けるための言い訳がたくさん浮かんできがちで、このときに話さない方を選んでしまうと(たとえ他の理由で話したくなかったとしても)自分が言い訳の誘惑に負けたように思われどうも気持ちが良くないのです。そういうもやもやをいちいち抱えるのであればとりあえず迷ったら全部口に出そう、というスタンスになっていました。
もちろんそれは良い面もあったと思うのですが、結果として、「ありのまま」の自分を出せずに疲れてしまったり、会話を続けるためだけの虚無な会話が起こってしまったり、よく考えずにとりあえず口に出すので自分の考えが浅くなってしまったり、といったことが起こりました。今思えば、まったく「自然体」には遠かったなと思います。
もちろんこれもこれで大切な学びだと思います。もともとコミュニケーションがとても得意な方ではないので、自分のコンフォートゾーンを抜けて異なるバックグラウンドの人々とコミュニケーションをとるときにどのように振る舞うかというのは試行錯誤を繰り返して少しずつ成長できればいいなと思っています。
そんなちょっとした挫折や反省は色々ありましたが、周りの人々に恵まれて全体的に見れば非常に楽しい期間でした。これは社交辞令とかではなく本当に、思慮深く気持ちの良い人々ばかりだったなあと改めて感謝の念を抱きます。今回のプログラムはかなりインターナショナルだった一方で特定の地域に参加者が偏っていたように、地域をはじめとして様々な指標において不均衡は生じていました。ただ、そういった数の不均衡から生まれるパワーバランスの不均衡や、マイノリティが感じる文化的・言語的その他の障壁を想像したり理解したりする能力が優れている人々ばかりで、すべての参加者に対してインクルーシブであろうという意識が参加者コミュニティ全体に浸透していたように思います。そういった他者への気遣いが自然にできるだけの成熟した人間性を僕も身につけたいなと思いましたし、Global Southでの研究に従事するにあたってはさらにセンシティブな配慮が必要とされるという意味で、この分野の研究者というのはただ「頭がよい」だけでは十分ではなく、成熟した精神を有していることが必要なのだと実感しました。
のめり込めるものを見つけた喜び(と注意)
今、こうやって「僕に関心があるのはこれこれです」とはっきり言えるようになっているわけですが、ここに至る道のりは本当に長かった。難産でした。「自分は何がしたいんだろう?」と悩み始めてから今日に至るまで、まるまる2年くらいかかったかな、という感じです。「何がしたいんだろう?」に答えを見つけようともがいてみたり、見つけたくても身が入らなかったり、そもそも何かにのめり込むのが「良い」ことなのか懐疑的になってみたり。とりあえず頭でっかちで何にでも批判的になってしまうから、自分が何かに無条件にのめり込める日は来るのだろうか?と不安になる日も多かったです(その意味では今でも100%の確信とは言い切れないです。やっぱり間違ってるんじゃないか、自分が本当に進みたい道、進むべき道はここじゃないんじゃないか、と思う日も結構あるし、もしかしたらその方が正常な思考だったということに気づく日が来るのかもしれないです)。今もがいても逆効果だからと、焦る気持ちを抑えてとりあえず頭を空っぽにする期間を作ってみたりもしましたが、それは結果的には非常に良かったと思います。イスラエルとパレスチナを訪れることになったのは、その期間を経てある程度精神的に落ち着いて、心の余裕ができたちょうどそのタイミングでした。もしその余裕がなければ現地での経験を受け止め切ることができていなかったかもしれないな、と思います。そして、その経験がじわじわと自分の思考に影響を与えて、半年と少し経った今では自分の「のめり込みたいこと」のモチベーションの中核を形成するに至っています。色々な物事が、ちょうどよいときにちょうどよい順序で起こった、という気がします。そういう偶然性にも助けられながら、なんとか中期的(長期的とは言えません)に「これがやりたい」というものには出会えたと思っています。なんだかんだ、そういうものがあるのは良いことです。多分。その喜びを噛み締めて、大事に育てていきたい所存です。
ただし、「のめり込める」ものを持っていることには副作用もあると思っていて、そのことは肝に銘じておきたいと思っています。
特に、何かにのめり込む、一直線になる、ということは、その前に見えていた他のものが見えなくなるということです。広い視野を失い、全体の中における位置付けを見失いがちになるということです。何にものめり込んでいなかったときの自分は、広く浅く、いろいろな物事に手を出して、それが今の自分の大切な部分を形作ってもいます。もし何かに夢中になった自分がそのことを忘れて、自分の視野に入っていないものの価値を貶めるような考え方をしたり、自分が接しなれている情報や価値観以外のものに対して排他的になってしまうようなことがあれば、それは僕が望んでいることとは真逆です。そのことは覚えておきたい。
また、何かにのめり込むのが良い、という価値観もあくまでも相対的なものでしょう。僕自身、広く浅く手を出していた時期だからこそ人間的に成長できたこともあると感じていますし、むしろ自分はそのような生き方のほうが合っているのかもしれないなと思うことすらあります。そして将来的に必ずまたそのようなフェーズに戻ってくることがあるでしょう。海中深くもぐったくじらが息継ぎのために水面まで戻ってくるように。潜水と浮上は生きるための絶え間ないプロセスの一過程であって、どちらも等しく必要なものなのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?