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パレスチナ旅行記 #4 「俺のこと、信頼してないんだろ」(全6回)
こんにちは。ただいまスウェーデンの大学に留学中の大学3年生です。記事を開いていただきありがとうございます。
第4回の今回は、ヘブロンからムハンマド宅への帰り道で起こったことについて書きました。
前回の最後に予告した通り、僕にとって最もキツかった瞬間の話が含まれています。
ムハンマドと1日かけて培ってきたと思っていた信頼は、些細なきっかけで崩れそうになってしまいました。
僕とまったく異なる人生を送ってきた人ともきちんとわかりあえるはずだ、という思い込みは、自分のおごりからくる勘違いでしかないと気づきました。
そしてそのとき、前日に「優しさ」の形で経験した「『わからないこと』の恐怖」が、再び頭をもたげてきたのです。「怒り」という、より激しい感情を伴って。
「俺のこと、信頼してないんだろ」
タクシーの中で、ムハンマドと僕は以前よりも少し距離が縮まったように感じる。
「Yohei、ちょっと頼みがあるんだが」ムハンマドは切り出す。
「日本人観光客を呼び止めるために役立つ日本語を教えてほしいんだ。俺らが日本人に声かけても、みんな無視してさっさと行っちまう。彼らが足を止めて振り向いてくれるような簡単な日本語、なんかないかい。」
ほとんどの人が無視しちゃうのは無理ないですね、と苦笑いしながら僕は返す。日本人は知らない人と話すのを本当に怖がりますから。
「でも、日本語を少し話せたら面白がって足を止めてくれるかもしれませんね。」僕はムハンマドに役に立ちそうな言葉をいくつか教える。ようこそ、とか、こんにちは、とか。
タクシーはベツレヘム市内に戻り、ムハンマドは僕を「降誕教会」という有名な教会に連れていってくれる。この地の観光の目玉、イエス=キリストが生まれたとされる場所に立つ教会だ。ここはいくらか観光地然としていて清潔さを感じる。個人の観光客やツアー客も多い。
タクシーを降りると、後ろから知らない男が近づいてきて、ムハンマドと言葉を交わす。ムハンマドの友達だろうか、と思う。と思ったら、なぜかムハンマドは離れていき、僕はその男と二人になってしまう。少し不安になる。男はこの教会のガイドをしていると言った。
「教会、あと10分で閉まっちまうんだ。俺が裏道を教えてやるからついてきな。」
そう言うと僕の返事を待たず男はすたすたと歩き出す。僕は彼についていくしかない。
男は早足で教会の中に入り、ツアー客の集団を迂回し、イエスがまさにそこで生まれたとされる場所に置かれた祭壇に僕を連れていく。僕にスマホを要求し、手早く僕と祭壇の写真を撮ってくれる。そして出口の方へ戻っていく。電光石火の5分ツアー。ありがとうございます、と別れようとすると男が言う。
「俺が裏道を教えてやったよな?入場料も払わなくて済んだよな?いくらか払ってくれてもいいんだぜ。」
ああそういうことか、とそのときやっと理解する。この男はこういう商売で生きているんだ。最初からわかっておくべきだったと悔しくなるけれど、疲労で思考能力が低下していた。逃げられそうもないので、仕方なく財布を取り出す。男はほとんど財布を覗き込むようにして、僕の財布の中にある20ディナール紙幣を指差す。日本円にしたら約3,600円。「これでいい。」いや、高すぎる、と少し抵抗したが、あっという間に20ディナールは男の手に渡っている。思考時間を与えないぼったくりの匠の技。
「これは俺の家族と子どもたちのためだ。ありがとう。God bless you.」
そして男は去っていく。
ちなみに降誕協会にそもそも入場料は存在しない。
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苦虫を噛みつぶしたような顔になっていたのだろう。教会の外にムハンマドの姿を認めて近寄ると、「男に金を払ったか?」とムハンマドが聞いてくる。「ええ、払わざるを得ませんでした。」と吐き出すように僕は答える。
「そうか。残念だな。俺もあの男は嫌いだ。あのやり口は嫌いだ。」
どの口が言う、と思ってしまう。ムハンマドは、お前はきっとあの男の手口を最初からわかっていたはずだ。わかっていてあの男に俺を引き渡したのはお前じゃないか。共犯だろう。
ムハンマドはすぐ近くにある、彼曰く「世界一美味しいファラフェル屋」(ファラフェルはコロッケみたいな中東料理)に僕を連れていってくれる。手渡されたファラフェルは確かに美味しかったような気もするけれど、心が荒んでいてとてもではないが味わう気にはなれない。
当たり前の結果を予期できなかった自分に嫌気が差してくる。疲れていたし、相手(達?)の手口も優れていたし、うん十万の壺を買わされるよりは全然マシだし、まあしょうがないじゃないか、と気持ちを落ち着ける。
でも続いて、これは俺の家族と子どものためだ、と言って金を持ち去っていった男の顔が頭に浮かぶ。
This is for my family and children. Thank you. God bless you.
僕から取っていったそのお金に育てられる子どもたちのことを思う。男のやることは間違っていると思う。詐欺師だ。でも男のことだけを責めるのも間違っていると思う。男にその生き方を強いた環境が、構造がそこにはある。男はそうしなければ生きていけなかった。あるいは、それ以外の生き方を知らなかった、のだろう。
仏頂面でタクシーに乗り込む。ムハンマドに払う予定のお金が足りなくなってしまったので、ムハンマドに頼んでATMに寄ってもらう。「多めに引き出しておいてくれてもいいんだぜ」というムハンマドに対しても不信感が募ってくる。ATMで現金を引き出しながら惨めな気持ちになる。車に戻って言う。「今僕が持っているのはこれが全部です。これ以上は払えません。これだけのお金でできることだけやってください。」ムハンマドはNo problem、と軽く言うが、信頼できない。
帰り道、ムハンマドは突然言い出す。「今夜はお前さんをいいところに泊めてやる。シャワーも、温かい水もあるところだ。どうだ?いいだろう?」
どう考えても怖い。どこに連れて行かれるかわかったものではない。この男の好きにさせてはたまらない。「いや、いいです。昨日と同じ、あなたの家に泊めてください。」強硬に言い張る。「オーケー、オーケー。わかったよ」ムハンマドは言う。僕はなんとか一安心する。
でも帰り際、スーパーに泊まったムハンマドは言い出す。
「なあ、今スーパーで買い物するための金が足りないんだ。今全部払ってくれないか。」
ここに至ってムハンマドへの不信感が爆発してしまう。冗談じゃない。今払ってしまったら、最後にどう考えても追加で払えと言ってくるはずだ。確かによく考えてみれば「最後に払う」という約束はしていなかったけれど…自分にとってはそれが当たり前すぎて、こんな途中で全額くれと言われるなんて想定もしていなかった。「わかりました。20ディナールだけなら払います。それ以上は嫌です。80ディナールは必要ないでしょう。」するとムハンマドの顔色が変わる。
「俺のこと信頼してないんだろ、なあ?俺は悲しいぜ?」
確かに僕は彼のことを信頼できなくなっている。でもなんて言えばいいのかわからない。「僕も悲しいです。」何とか絞り出す。「まあいい。俺は店のやつらには信頼されてるから、ツケて買ってくる。」いくらかの押し問答の末、そう吐き捨ててムハンマドはタクシーを出ていく。
タクシーの中で一人。何もかも信じられなくなる。怖い。ムハンマドが何を考えているのかわからない。タクシーの中に俺を一人置き去りにするつもりかもしれない。すれ違った別のタクシーの運転手の顔がムハンマドに見えて、俺を置き去りにしていったんじゃないかと本気で考える。あるいはヤクザみたいなやつを連れてきて俺のことをぼっこぼこにしちゃうんじゃないか。わからない。わからないことが一番怖い。緩くなって開けるのにコツがいる助手席のドアノブさえも、僕を閉じ込める計画の一部なような気すらしてくる。怖いから、いつでも逃げ出せるように何とかドアを半開きにしておく。タクシーの中にはムハンマドが吸い続けた煙草の煙と匂いが充満している。
今もう逃げてしまった方がいいんじゃないだろうか。ベツレヘムの市内だから歩けば何かしらの宿にはたどり着くだろう。最悪の事態を避けよう。払うはずだったお金を全部運転席に置いて、逃げてしまおう。そう思うけれど身体は動かない。ドアの外で現地住人であろう少年たちが俺を見ながら何やら騒ぎ立てている。Hello!?Hello!? 煽られているようだ。僕はなるべく彼らの顔を見ないようにする。Yellow!!と言われたような気がする。聞き間違いかもしれない。彼らのことも怖い。車の中も怖いけど、車の外も同じくらい怖い。
ムハンマドが戻ってくる。彼は手にみかんを一つ持っている。「これ、やるよ」と言ってみかんをもぎり、助手席の窓越しに半分を僕に渡そうとする。でも怖いから手にすらできない。毒とか入っていそうで怖い。「もう疲れたので食べられません」と訳のわからない言い訳をして、身を縮こまらせるようにして差し出されたみかんから身をかわす。すると今度は車の外の少年たちがやってきて、コーラのボトルを差し出してくる。「彼らはいい人たちだ。受け取ってやりなさい。」ムハンマドは言うが、なおさら怖い。「もう疲れたので飲めません。」仕方なくムハンマドは少年たちからコーラを受け取って運転席に戻り、エンジンをかける。
"Why are you sad?"
運転しながらムハンマドは尋ねてくる。何も答えず、というよりも答えられず、僕は助手席でずっと俯いている。思考と身体がフリーズしていて、僕はここから逃げることだけを考えている。道端を、迷彩服に銃を提げた兵士の一団が歩いているのが目に留まる。僕らの車はすぐにその一団を追い越してしまうが、彼らの姿はしばらく僕の脳裏にこびりついて離れない。彼らは頭の中で僕を脅してくる。この地のすべての人間とすべての文化と自然が、僕をはねつけようとしているみたいに思える。
車はきちんと今朝出発した家に戻っていった。駐車場に車を止めると、朝にムハンマドと僕を送り出してくれた子どもたちが、同じように迎えてくれる。子どもたちはいつもの無邪気さと笑顔のままで僕に駆け寄ってくるから、僕はますますわからなくなる。
昨日と同じ部屋に入って、促されるまま腰を下ろす。昨日と同じようにお母さんと子どもたちが集まってくる。ムハンマド一家は、何やら聞き取れないことをアラビア語で話している。
するとムハンマドは、僕の方を向いて言う。
「子どもたちは、なぜYoheiは元気がないのだ?と聞いている。」
そんなのこっちが聞きたい。でも何とか大丈夫だとアピールしようと、顔を上げて皆の方をみる。確かに子どもたちは心配そうな顔をしている。お母さんのハウラは両手の人差し指を頬に当てて、「スマイル、スマイル」とジェスチャーをしている。僕は無理に笑みを繕う。
休みたいか?と聞かれたのでYesと答えると、またベッドがごとごとと運ばれてくる。昨日よりもさらに数枚増えたように思われるブランケットが乗ったベッドに身を横たえると、皆がさっと部屋からはけていく。電気が消える。最後にムハンマドが残る。彼は僕にこう言い残す。
"We are good people, but life is not easy here."
そして彼は部屋を出ていく。(続く)
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記事を読んでくださった方へ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この記事を読んでいただくにあたって留意していただきたいことを、第1回記事の最後にまとめています。まだ読まれていない方は、ぜひ目を通していただけたらと思います。
第6回記事では、同じ日の夜に起こった様々なことを書き連ねています。
降誕教会やその後の一件で感情がどん底をついた僕でしたが、1日が終わってみれば、その日は「良い意味でも」決して忘れることのないであろう日になりました。
その変化を一言で言えば、僕は彼らのことをとりあえず信頼することに決めたのです。そして、それと同時に彼らも、僕のことを受け入れようとしてくれたのだ、と思います。
彼らと僕とは結局どこまでも違う人間で、分かり合えることなんてない。でも、それは僕と彼らが互いに歩み寄ることができるという可能性を排除しない。心が通じるところを探り当てる努力は無駄にはならない。互いの心の周波数がリンクする小さな通路をきっかけに、僕と彼らは、一瞬であっても、同じ世界に生きて、同じものを見て、同じことで笑い合うことができる。
そんな確信を持つことができた、素敵な経験を共有できればと思います。
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