パレスチナ旅行記 #6 「You are my habibi.」(最終回)
こんにちは。ただいまスウェーデンの大学に留学中の大学3年生です。記事を開いていただきありがとうございます。
長かった連載も今回が最終回です。ここまで飽きずにお付き合いいただいた読者の方々、ありがとうございます。
最終回では、ムハンマド一家やパレスチナとの別れに加え、パレスチナから離れたあとに僕が経験した出来事や心情の変化についてまとめています。
パレスチナを離れても、僕にとってのパレスチナの経験は終わりません。ふとした瞬間に、パレスチナの地で僕が目にしたものや、聞いた声や、嗅いだ匂いや、 さまざまな記憶が、僕の前に現れてくるのです。ときに抽象的に、ときに現実的なかたちをとって。
You are my habibi.
翌日は基本的に、ムハンマドにバスの駅まで送ってもらうだけであった。予定時間よりも寝坊してしまったこともあり、なかば急かされるように帰る準備をして、ゆっくり家族や子どもたちとの別れを惜しむ暇もなく車に乗り込む。
家族はみんな僕を見送りに外に出てきてくれる。アナスとナハラは今日が10歳の誕生日だ。今夜はみんなでパーティーをするのだという。英語が通じる気はしないが、とにかく "Happy Birthday!" と二人に声をかける。また会いにきます、という思いを込めて、精一杯車の中から手を振って、別れを告げる。
ムハンマドは帰り際に、僕が行きたいと言っていた難民キャンプに連れて行ってくれる。初日に見た大きな鍵のモニュメントが乗った門が、難民キャンプの入り口だったらしい。パレスチナには現在3つの難民キャンプがあるとのことで、僕が行った場所はそのうちの一つ。「難民キャンプ」という言葉から、文字通りキャンプが立ち並ぶ様子を想像していたが、実際は一見普通の住宅地のような場所であった。ここが難民キャンプと教えられなかったら何も気づかず通り過ぎていたであろう。
「ここはもともと空き家の集合地帯だったんだ」ムハンマドが教えてくれた。「イスラエル兵士によって家を追い出された人々が、空いている家にどんどん入っていくんだ。」キャンプの中に入っても特に見るものはないと言って、ムハンマドは難民キャンプの入り口を横目にほぼ素通りして行ってしまった。何か入りたくない事情があったのかもしれない。
難民キャンプを過ぎると、タクシーはあっという間にバス停の前に到着する。精算の時間だ。料金について話すたびに「最後にもう少し多めに払ってくれてもいいんだぜ」とチップ的なものを要求され続けたことを思い出しながら、どうせこれだけでは済まないのだろうな、と思いながらとりあえず80ディナールを渡す。
案の定、ムハンマドは80ディナールだけでは明らかに不服そうな態度を見せる。僕の財布をのぞき込み、彼は目ざとく50ユーロ紙幣を見つける。「これでよい。」
こうなることは予期していたので50ユーロ紙幣は別のところに隠しておくつもりだったが、あまりにいろいろなことが起こりすぎてすっかり忘れていた。こうなってはもう仕方がないが、さすがに高すぎるのでおつりを要求する。これでいいだろう、とムハンマドは僕に50シェケル紙幣を釣りとして渡してくる。異なる現金通貨で取引をするのは初めてだ。どう考えてももう少し釣りが欲しいところだったが、それ以上の釣りは渡してくれそうもない様子だったので、諦めることにする。
ムハンマドと良好な関係のまま別れることは、僕にとってはとても重要なことであった。今後またパレスチナを訪れることがあるような気がしているから。というかムハンマドたちが僕にそう思わせてくれたから。
「ハビビ、という言葉を知ってるか?」だしぬけにムハンマドが聞いてくる。知らない、と答えると、ムハンマドは教えてくれる。「My loveって意味なんだぜ。」
いい言葉ですね、と言って、口の中で何度か今聞いたばかりの言葉を唱えてみる。ハビビ、ハビビ。
するとムハンマドはいう。
「なあ、Yohei、俺も、俺の家族もみんな、お前さんのことが大好きなんだ。You are my habibi, Yohei」
それは、つい前日にまったく同じ男に対する不信から絶望感に苛まれた僕が受け取る言葉にしては、あまりにもできすぎていた。——できすぎていたから、ついいろいろと考えてしまう。何より、ムハンマドが僕のことをハビビ——愛する人——と呼んでくれたのは、僕が彼らにそれなりのお金を恵んだからではないだろうか。その可能性は否定できない、というか、それが理由の一つであることは確かだろう。
それでも、その言葉は素直に嬉しかった。ムハンマドの言葉には温かさがあった。彼がその言葉を口にするその調子から、彼は僕をただの金払いの良い観光客としてではなく、一人の人間として認めてくれたのだと信じることができた。
そのあとも、ムハンマドはHabibiという言葉を何度か僕に聞かせた。その言葉は、彼が吐くたばこの煙に乗ってただよい、車の中で何度もこだました。僕はその響きと匂いをいっぱいに愉しんだ。
バス停には現地の男たちがたむろしている。ムハンマドは彼らと知り合いらしく、彼らのところに僕を連れていく。ムハンマドはふざけて、僕にアラビア語で「馬鹿」みたいな意味の単語を教えて、それを彼らに向かって言わせようとしてくる。何も知らない僕がとりあえずその通りに発音すると、男たちは爆笑で答えてきた。まあ、みんな楽しそうなのでよしとするか。
みすぼらしい身なりの一人の子どもがバス停にとことことやってくる。男たちは子どもに少しずつコインを分け与える。「ホームレスだ。お前も何かくれてやりなさい」と男たちの一人が言うので、僕もほんの少しだけ彼に渡してあげる。ホームレスの子どもは終始一言も発することなく、コインを小さな手のひらに乗せてバス停を去っていく。
パレスチナの人たちの間でのお金のやり取りはこんなふうにとてもインフォーマルだ。クリーンで没個性的な金銭取引に慣れている僕からするとそれはあまり居心地の良い環境ではない。でも、無数の人々が物乞いを無視して通り過ぎていくような先進国の都会の風景と比べれば、パレスチナの人々のお金のやりとりには人間の温もりが感じられる、と言うこともできそうである。
バスがやってきて、僕はムハンマドに別れを告げる。今では僕は彼のことをきちんと信頼することができると思う。いろいろ引っかかるところもあったし、彼のことを理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。でも少なくとも彼は悪い人間じゃない。いや、彼はとても良い人間だ。愛すべき人間だ。僕は彼に出会うことができてよかった。最後に二人で写真を撮り、精一杯の感謝をし、ハグをする。
You are my habibi.
そして僕をのせたバスは発車する。僕にたくさんのことを教えてくれたパレスチナの地を離れ、エルサレムに向かっていく。
バスは途中でイスラエル兵による検問を通る。イスラエル兵がバスの中に乗り込んでくる。どうやらバスの中で一人ひとり確認されるようだ。何か問い詰められはしないかと内心ひやひやしていたが、事前に調べていた情報と違って特に何も質問されることなく、パスポートとイスラエルの上陸許可証を見せただけでスルーされる。パレスチナ人と思われる他の乗客たちも特に手荒な扱いを受けることはなかった。
たまたまイスラエル兵の気分が良かったのかもしれない。あるいは手荒な扱いが起こるのは、想像していたよりとてもレアな出来事なのかもしれない。どちらかは自分に判断することはできない。とにかくものの1分ほどでチェックは終了し、兵士はバスを降り、バスは走り出す。そして僕はパレスチナの外に出る。慣れてきたとは言っても僕にとっては慣れないハードな空間であった。精神が弛緩していくのを感じた。
エルサレムに降り立ち、手近な店で腹を満たしたあと僕が最初にしたことは、イスラエル博物館に行くことだった。「死海文書」という旧約聖書の原典となった書物の展示が目玉で、そのほかにもかなり質の高い展示が並ぶ大きな博物館だが、僕はほとんど死海文書には興味がわかなかった。僕の目的は展示物を見ることではなかった。
僕は、僕が見慣れ、住み慣れたモダンな空間に焦がれていたのだった。僕が日頃身をおいている空間が、いかに細部まで丁寧にユーザーのためにデザインされていたのか、そしていかにそれが当たり前でないのか、僕は今まででいちばん身にしみて感じていた。
博物館の中に入り、真っ先にトイレを目指す。真っ白に磨かれた個室で用を足し、洗面台で顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。タイルも鏡もある意味で不自然なほどきれいに磨き込まれていて(実際、日本の外のトイレの中ではかなりきれいな部類だったと思う)、それがそのときの僕にとっては本当にありがたかった。
ようやくいくぶん気持ちがすっきりした僕は、一応、死海文書を見に行ったのだった。
次の日、イスラエルの空港で帰国便の搭乗を待っていたとき、スィーリーンから連絡が来た。ヘロディオンで会った、日本語を勉強しているというあの少女だ。テキストメッセージのやりとりをしていると、彼女が14歳にして本当にしっかりした子なんだなというのが伝わってくる。
彼女の出身地であり僕も訪ねたヘブロンの話になったとき、彼女は翻訳ツールも使ったであろう拙い日本語でこう言った。「それは私の街です、私たちは占領されているので、私たちが戦争と悲しみの中にいることがわかります」「私たちは強いです、私たちは勝ちます」。改めてきっと聡明な子なんだろうなと思うと同時に、14歳の子どもにそんなことを言ってほしくはない、と直感的に思った。
また、空港で、僕はスウェーデンの居住許可証(長期滞在の際に必要なビザのようなもの)が入った小さなバッグを落とした。どこで落としたか見当もつかず、空港のスタッフに何度も尋ねてみるがそのような落とし物はないという。大事なものだったためそれなりに焦ったが、搭乗時間が近づいてしまったため、諦めて飛行機に乗り込むほかはなかった。
座席に座り離陸を待っていると、後から機内に入ってきた男性に声をかけられた。頭に乗っている小さな帽子から、その人がユダヤ人であることがわかった(ユダヤ教徒の男性は、頭に「キッパ」と呼ばれる小さな帽子をのせていることが多い)。
"Is this yours?"
手に持っているのは僕が探していたまさにそのバッグ。あまりの奇跡に驚き、「どうやって見つけたんですか??」と思わず聞いてしまう。「誰かが僕にくれたんだよ」とスマートに答えたそのユダヤ人は、にこりと笑ってサムズアップし、自分の座席へと向かっていった。
すべてのユダヤ人が悪人なわけではない。ユダヤ人を憎む多くのパレスチナ人が温かい人々であるのと同じように、パレスチナ人と対立する多くのユダヤ人も良い人々であるに違いない。当たり前すぎるけれど一方の視点からのみ話を聞いていると忘れがちなことを、この出来事は僕に教えてくれた気がした。
そうして僕は、イスラエルとパレスチナの地を飛び立った。
この記事を書いている今、パレスチナを訪れてから1ヶ月以上が経っている。少しずつ記憶は薄れていくけれど、パレスチナという地が僕に残した印象はそんなに簡単に忘れられるほど弱々しいものじゃない。そこで僕が経験したことや抱いた強い感情は、僕の人生という一貫した物語に位置づけられない外れ値として、スウェーデンで平和な生活を送る僕の意識の上に突如として現れてくる。
僕は考えたこともなかった。
朝起きて部屋の窓を開け、外の空気を胸いっぱいに吸い込むことや、
自分の好きな道を通って家に帰ることや、
家に入ったときに何気なく鍵を閉めることや、
世界中のどこにでも好きなように行くことができることや、
スーパーマーケットで少し贅沢な買い物をすることや、
信頼できる友達とどうでもいい話で盛り上がれることや、
夢が見つからないと言って悩んでみせられることが、
いかに当たり前でないのか。
僕は考えたこともなかった。
僕が恵まれた環境に生まれ落ちていて、それは僕の努力でもなんでもなくて、何かが一つずれてしまったら一瞬で消え失せてしまうかもしれないような頼りないものに過ぎなかったということを。
そして、それに気づかないで生きていた自分が、ある意味ではとても幸せで、ある意味ではとても愚かだったということを。
ムハンマド家の子どもファイサルや、あの日じんわりと心を温める焚き火を囲んだ青年たちから、スウェーデンに帰ったあともよく連絡が来る。彼らはきっと僕とはまったく違う生活観念を持っているから、前触れもアポイントもなく唐突に電話がかかってくる。耳に心地よい音楽を聴いて気持ち良くなっていた僕は、その電話の音を聞いて否応なくあの日の記憶に引き合わされる。忘れていないか?と、その電話の音は僕に問いかけてくる。
なんでそんなに僕に電話をしてくるのか、わからない。でも、いちど言われた言葉は"Want money"。"Are you okay?"と聞くと"No"と返ってきた。
彼らのことを助けるべきかとか、そういうのはまた別の問題だと思う。彼らは彼らなりに、一個の人間として誇り高き人生を歩んでいる。でも、彼らのように、僕らとまったく違う生き方をしている人の存在を、僕は忘れるべきではないと思う。それがいかに不都合であったとしても。それは一つ確かに言えることだ。彼らのためにも、何より僕自身のためにも。
直接経験していないとしても、この旅行記を読んでくださった方が少しでも同じことを感じてくださっていれば、とても嬉しい。
記事を読んでくださった方へ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この記事を読んでいただくにあたって留意していただきたいことを、第1回記事の最後にまとめています。まだ読まれていない方は、ぜひ目を通していただけたらと思います。
長い連載になってしまいましたが、最後まで目を通していただき本当にありがとうございました。何か読んでくださった方の心に残るものがあれば幸いです。
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